2007年06月18日

ポール・ボウルズ『シェルタリング・スカイ』

ベルナルド・ベルトルッチ『シェルタリング・スカイ』(1990)

「ねえ、君」ポートが言った。その声は非現実的にひびいた。まるで静かな場所で、ながい沈黙のののちに押しだされる声は、ときとして、そうした調子を帯びる。「このへんの空は、じつにふしぎだね。ぼくはよく空を見ていると、それが何か堅固なものでできていて、その背後にあるものからぼくらを庇護してくれているような感じがする」
キットは、ほんのわずかな身ぶるいしながら言った。「背後にあるものから?」
「そう」
「でも、何が背後にあるの?」ささやくような声だった。
「何もない、と思う。暗黒があるばかりだ。まったくの夜だ」
ポール・ボウルズの『シェルタリング・スカイ』を読み直している。
10年以上前に一度読んだけれども、あまりに晦渋な訳文に辟易した記憶がある。いま読んでも古めかしい訳だ。大久保康雄による初訳(新鋭海外文学叢書)が1955年で、ほとんど改訳されていないから仕方ないだろうが。

にもかかわらず、ずいぶん集中して読んでいる。おそろしく陰鬱な小説なのに目をそらすことができない。

ポール・ボウルズ『シェルタリング・スカイ』シェルタリング・スカイ
ポール・ボウルズ Paul Bowles
大久保康雄(訳)

文庫: 447ページ
新潮社(新潮文庫)
1991-01
978-4102338018
by G-Tools

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2007年06月17日

Dan-Ah Kim

All My Vices Come To Hunt Me
All My Vices Come To Hunt Me

Lady Hitchcock
Lady Hitchcock

Le Sigh
Le Sigh

Ninja Gone Functionally Mad
Ninja Gone Functionally Mad

I Can't Stand The Rain
I Can't Stand The Rain

ニューヨークのイラストレーターの作品。どんなプロフィールのアーティストかよくわからないけど、よく日本の意匠を研究している。なおかつ独自のテイストのあるチャイルディッシュな作品が印象的。ヘンな勘違いがない素敵な絵だと思う。「Ninja Gone Functionally Mad」はヘンリー・ダーガーのあからさまな影響下に描かれているけど、陰惨というよりは不穏な雰囲気で興味深い。

Dan-Ah Kim
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2007年06月15日

Bollywood Vintage Posters


DILER DAKU (1945)
DILER DAKU (1945)

AWARA (1951)
AWARA (1951)

DEEDAR (1951)
DEEDAR (1951)

AAN (1952)
AAN (1952)

AAN (1952)
AAN (1952)

URAN KHATOLA (1956)
URAN KHATOLA (1956)

C.I.D. (1956)
C.I.D. (1956)

SHEROO (1957)
SHEROO (1957)

HOWRAH BRIDGE (1958)
HOWRAH BRIDGE (1958)

ZARA BACHKE (1959)
ZARA BACHKE (1959)
ボリウッドの1940〜50年代の映画ポスター。キッチュで楽しい。もちろんぼくはどの映画も観たことがないのです。シネラのアーカイヴにはないものだろうか。

BOLLYWOOD VINTAGE POSTERS - PRE 60's GALLERY
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2007年06月13日

春日武彦『無意味なものと不気味なもの』

ポジャギ

「無意味なもの」というのはどんな概念を指しているのだろう。文字通り「意味がないもの」という概念であれば、矛盾をはらんでいるではないか。
「無意味なもの」はつまるところ非在であろうが「存在しない」ということではない。非在とは、通常忘れ去られ、わたしの認知の外へ逃れ出て行くことどもではないか。昨日カフェで隣りに座ったのはどんな人であったか。昨夜食べた干菓子はどんな形であったか。世界から即座に退場していくほとんど無限なことども。たしかに在ったのだろうか。それらはすでに世界から退場してしまっている。非在はわたしの周囲に満ち溢れている。在と非在の境界は模糊としつつざらざらと私を取り巻いている。

また「無意味なもの」を「価値判定を留保した(留保せざるをえない)もの」と規定することもできるだろう。春日武彦の語る「無意味なもの」とはむしろこちらの意味に近いかもしれないが、それでもやはりずれてはいる。こんなふうにテキストにし、なかんずく本(商品)にまでしてしまったのであれば、無価値なはずがないじゃないか。もちろん彼はそんなことに気をとめるはずもなく(気にとめてしまったら筆を置かねばならなくなる)、積極的に定義をすることもしないわけだが。

『無意味なものと不気味なもの』は、雑誌「文藝界」に15回にわたって連載した書評(?)を集めたものだが、通読しているうちに筆者のなかで「無意味の意味」が少しずつ明確になっていく過程が透かし見える。単に「気味が悪い」あるいは「生理的に拒否する」「困惑する」ものであった手許のテキスト群が、「永遠」という世界の構造に関わる何かをあらわしているのではないかと予感する筆者の姿は暗く陰鬱である。それはときおり挟まれる精神医らしからぬ患者への本音にもあらわれているし、富岡多恵子の『遠い空』について書かれたこんなテキストにも感じられる。

世界に果てなどあるのだろうか。本当は世界なんて一ヘクタールがせいぜいで、しかしそれが壁紙の模様のように際限なく、それこそ永遠に繰り返されているだけではないのか。だからすぐ近くにいても声など届かない。世界の構造に気付いてしまった者だけが、永遠がもたらす孤独感と恐怖とを実感する。
安易な精神分析的解釈でお茶を濁さなかった筆者の姿勢は好ましいが、しかしまだ足りない。

まだ、足りないのだ。

春日武彦『無意味なものと不気味なもの』無意味なものと不気味なもの
春日武彦

単行本: 293ページ 19 x 12.8 x 3 cm
文藝春秋
2007-02
978-4163688701
by G-Tools
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2007年06月12日

Nickolas Muray

Arija Muray

Arija Muray

Arija Muray

Arija Muray

Nickolas Murayは1920〜40年代に活躍したハンガリー系アメリカ人の写真家。「ヴァニティ・フェア」誌のカメラマンとして活躍していたが、最も有名なのはフリーダ・カーロの肖像写真かもしれない。食品など宣材写真の分野を開拓した。

Nickolas Murayの作品のなかでも、子どもを被写体としたシリーズは大好き。最近、自身の娘Arijaのポートレートをいくつか発見したのでエントリーしておく。

Nickolas Muray @ Wikipedia(英文)

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「長崎亭」のチャンポン

長崎亭のチャンポン(大盛)。

長崎亭の餃子。

ひさしぶりに福重の「長崎亭」でチャンポンを食べる。3年ぶりくらい? あまり西区のほうには行かないから立ち寄る機会もなかったけど、いきなりどうしようもなくここのチャンポンを食べたくなって行ってしもうた。

あいかわらずお客さんが多い。たまたま良いタイミングで席が空いたけど、ぼくらが入った後も続々と人が入ってくる。カウンターの中には超B系のお兄さんたちが働いていて独特な雰囲気(決して接客が悪いわけではないけれども、苦手な人はいるだろうなあ)。
で、チャンポンの大盛と餃子を食べることに。ちなみにともちゃんも同じものをオーダー。量がハンパじゃないので大丈夫かな?と心配になったけど、本人の強い希望で。

ここのチャンポンは大盛にすると生卵が上に乗る。麺と絡めながら食べると美味い。野菜もたっぷり、ただシャキシャキ系なので、くったりした野菜の食感が好きなひとには違和感があるかもしれない。(知人にそういう人がいた。)ぼくは火の通し加減とか巧くて好きだけど。
スープは豚骨ベースに若干の醤油味。あっさり目。魚貝の味もする。麺は太めで食べごたえあり。特に変わった麺ではないけどかん水の匂いは感じられない。

地元らしき人たちが普段着(パジャマとか)で食べにくるようなお店。にもかかわらず市内全域にファンがいる。サラリーマンだけではなくて、カップルやら子ども連れやらも多い。若い女の子ふたりが、ブランド物のバッグを持ってカウンターでチャンポンをすすっていたのが印象的。
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Alejandra Kalnisky

Orlando 2
Orlando 2

Orlando 1
Orlando 1

The Story Of A SanTelmo Mannequin 3
The Story Of A SanTelmo Mannequin 3

The Story Of A SanTelmo Mannequin 2
The Story Of A SanTelmo Mannequin 2

The Story Of A SanTelmo Mannequin
The Story Of A SanTelmo Mannequin

Alejandra Kalniskyというアルゼンチンの女性写真家の作品。ファッション・フォトグラファーらしいけど詳細は不明。日本ではあまり知られていない作家。
いろんな作風の作品があるけど、上のようなゴシックな写真がぼくは好き。ファンタズムにどこかしら南米らしさを感じてしまうのはぼくだけ?

Alejandra Kalnisky @deviantart
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2007年06月11日

ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』

1908年のアフリカ全図から、コンゴ自由国周辺。

村上春樹の小説にはコンラッドの作品がときどき(ごくときどき)小道具として出てくる。もちろん意味がないわけではなく、それは主人公(つまり「ぼく」)の行く先を暗示している。たとえば『スプートニクの恋人』にはこうある。

 ぼくは本棚から大きな世界地図を引っぱり出して、ミュウの教えてくれた島の位置を調べてみた。ロードス島の近くというヒントがあるにせよ、エーゲ海に散らばっている大小無数の島の中からそれを見つけ出すのは簡単な作業ではなかった。でも小さな活字で印刷されたその名前をようやく探しあてることができた。トルコとの国境に近い小さな島だった。あまりにも小さくて、かたちもよくわからない。
 引き出しからパスポートを出して、まだ有効期限が切れていないことを確認した。家のなかにある現金を集めて財布につめた。たいした額ではないが、あとは朝になったら銀行のカードで引き出せばいい。口座には以前からの預金にあわせて、たまたま夏のボーナスがほとんど手つかずで残っている。クレジット・カードもあるし、ギリシャ行きの飛行機の往復切符くらいは買える。ジムに行くときに使うビニールのスポーツ・バッグに着替えをつめ、洗面用具を入れた。いつか機会があったら読み返そうと思っていたジョゼフ・コンラッドの小説を二冊入れた。
たぶん、そのうちの1冊は『闇の奥』だろう。

 背後でかすかな、鈴でも鳴るような音がして、ぼくは振り返った。黒奴が六人、喘ぎながら小径を一列になって上って来る。土を一ぱい入れた小さな籠を頭に載せ、棒を呑んだような姿勢で、のろのろと上って来る。一足踏むごとに、鈴のような音が鳴る。腰のあたりに黒い布片を纏っただけで、その端が尻尾のようにブラブラ揺れていた。肋骨といえば、一本一本数えられるし、手足の関節は、まるで綱の結び目のように膨れ上がっている。一人一人、首に鉄鎖をはめられ、それが互いに鎖で繋ぎ合わされて、弛んだ部分が歩くたびに揺れては、あの韻律的な響をたてるのだった。断崖の方で、またしてもハッパが鳴った。そのとき僕はふと、あの大陸に向って砲弾を射ち込んでいた軍艦のことを思い出した。あれもこれも、同じ不吉な響だった。しかしこの人間どもを、どう考えてみても、敵だとは言いえまい。ただ彼等は罪人と呼ばれ、彼等の破った法が、あたかもあの炸裂する砲弾のように、彼等の頭上に臨んでいるだけだった、――彼等にとっては、それこそ海の向うから来た永久に解き難い神秘だったろう。痩せ衰えた胸は苦痛に喘ぎ、激しく開いた鼻孔は震え、目は石のように丘の上を凝視していた。不幸な蛮人どもは、チラとも見ないで、まるで死のような無関心さをもって、僕の傍をすれすれに通って行った。
この小説の語り手、マーロウが、アフリカで見たものは、その後の彼の世界を規定することになる。闇の前に人はひれ伏さざるを得ない。
闇とはなにか。それは喪失だ。クルツがいまわの際に言うように、またマーロウが物語の最後に悟るように、喪失をした者はまさに「地獄」に生きることになる。そして「これしきのことで天は落ちないのだ」。

コンラッド『闇の奥』闇の奥
コンラッド Joseph Conrad
中野好夫(訳)

174ページ 14.8 x 10.6 x 1 cm
岩波書店(岩波文庫)
1958-01
978-4003224816
by G-Tools


村上春樹『スプートニクの恋人』スプートニクの恋人
村上春樹

318ページ 14.8 x 10.6 x 1.6 cm
講談社(講談社文庫)
2001-04
978-4062731294
by G-Tools
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2007年05月05日

年老いた樹と小さな草とともに

散る花。

  夕照から

紅ゐの夕陽あび
薄くれなゐの雲がゆく
なにを 私は祈りなにに呆けてゐたのだらう
かたへのあぢさゐの花は
犇めきあつて稚い唇に口々に
さうださうだしづかなるこの夕暮れのひとときに・・・と
そのあとは昏れてゆくけはいに含まれて
また深まつてゆく夕べ底知れぬ時の移りよ

 雲がゆく
 ゆくともなく
 しかし つひに
 ゆく

さうして夜へ
ああこのうつりかはりのあひまあひまを
あやまたずいのちがつなぐとは!
これらすべての
これらすべての深く尨大な準備は何の為だらう
答へともなく
問ひにもあらで
われらが死ぬるために
われらが生きるために

星辰あきらかにきらめく
この天空の下でこの夜は
窓あけたままねむらう
年老いた樹と小さな草とともに

夕べには夕べの風
朝には朝の風のそのなかで
枯葉を振り落しつつ
いつかわれらは
永劫に
もらひとられてゐた と
巨大きな松が巨きな声で歌つてくれる
わが身の変移幻影よ
+ + +

20代の堀田善衛による詩。戦中に書かれたせいもあって、死の感覚、透明な死の感覚が浸み透っている。堀田もどこかで20代の頃の日常かつ非日常としての死について述べていたと思う。

堀田善衛『別離と邂逅の詩』別離と邂逅の詩
堀田善衛

単行本: 197ページ
集英社
2001-05
ISBN-13: 978-4087745153
by G-Tools

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ホルヘ・ルイス・ボルヘス『論議』

Jorge Luis Borges(1899 - 1986)
Jorge Luis Borges(1899 - 1986)

ぼくがボルヘスに最初に触れたのはいつだったか。国書刊行会の「バベルの図書館」シリーズを読んでいた頃(つまり高校生の頃)は、当然ボルヘスの名前は知っていたはずだ。だけど、澁澤龍彦経由で知ったのであれば中学生の頃、ということになる。
ボルヘスには「バベルの図書館」という有名な作品がある。22文字のアルファベットとスペース、コンマ、ピリオドの25文字の総組合せであらわされた〈あらゆる書物〉が収納された無限の図書館(=宇宙)。「司書」にとっての楽園であり地獄でもあるそこのイメージは、高校時代のぼくらに強烈な印象を焼きつけた。美術部にいた友人Mは、この作品にインスパイアされたメゾチントを何枚も連作したくらいだ。

たしかにボルヘスはアルゼンチン国立図書館長の要職にありながら盲目であり、それを「ネクロノミコン」を閲覧したからだというような神話的な逸話にことかかなかった。ぼく自身、失明する寸前に、書物に覆いかぶさるように目を寄せて読書するボルヘスの姿を、写真で見たような記憶がある(これは、なにかの本で読んだエピソードがぼくの心のなかに沈殿したものなのかもしれないし、そもそもそんなものを見たり読んだりしたことなんてなくただの夢想であるかもしれない)。

しかし牛島信明が「あとがき」に書いているように、ボルヘスのユーモアもまた重要であろう。「アキレスと亀」についての執拗な思考も、「バベルの図書館」の構想もまた。

「バベルの図書館」と並んでぼくの好きなこんなイメージも、ボルヘスのユーモレスクではあるまいか。

……あの王国では、地図学は完璧の極限に達していて、一つの州の地図はある都市の、また王国の地図はある州の広さを占めていた。時代をへるにつれて、それらの大地図も人びとを満足させることができなくなり、地理院は一枚の王国の地図を作製したが、それは結局、王国に等しい広さを持ち、寸分違わぬものだった。地図学に熱心な者は別であるが後代の人びとは、この広大な地図を無用の長物と判断して、無慈悲にも、火輪と厳寒の手にゆだねてしまった。西方の砂漠には、ずたずたに裂けた地図の残骸が今も残っているが、そこに住むものは獣と乞食、国じゅうを探っても在るのは地図学の遺物だけだという。(「学問の厳密さについて」)
創作だけでなくエッセーにもユーモアは満ちている。たとえば『論議』にはこんな一節がある。

ある過ちが無限の存在たる神に背くものであるがゆえに無限であると論じるのは、神が聖なる存在であるがゆえに過ちも神聖であると主張するようなものであり、虎に対して加えられた侮辱は縞模様であるに違いないと言い張るようなものだ。(「地獄の継続期間」)
あるいはアメリカについて、1930年代はじめにこう書いている。

かつてあるところに森がありましたが、それがあまりにも広大にして無辺だったので、誰ひとり、それが樹木からなっていることに気づきませんでした。さらに、二つの大洋のあいだにある国がありましたが、そこの男たちはあまりにも強大でしたので、誰ひとりとして、それが人間の住む国だとは思いあたりませんでした。普通の人間の条件を備えた人間の国であるとは。(「もうひとりのホイットマン」)
またボルヘスは意外にも映画も好んだ。失明する前のことだからその映画論も戦前の、しかも無声映画、トーキー初期映画に限られている。トーキーによって発明された「吹き替え」という技術について、こう悪態をついていて楽しい。

そして今ハリウッドは、その虚しい奇形学博物館をさらに豊かにした。吹き替えと呼ばれる質の悪い装置によって、輝くばかりのグレタ・ガルボの顔と田舎娘アルドンサ・ロレンソの声を結びつけ、われわれに奇怪なものを見せつけようというのである、このような悲しむべき驚異を前にして、このような手のこんだ視覚音響的異形を前にして、どうして感嘆の声をあげずにおられようか。(「ノート」)
ちなみにアルドンサ・ロレンソは、ボルヘスがこよなく愛した『ドン・キホーテ』の登場人物。ドン・キホーテが思い姫に見立てた百姓娘アルドンサのことだ。

ボルヘスは厳しい批評家であった。チャップリンの『街の灯』さえもボルヘスにかかると、「擬古主義やアナクロニズムの不幸な凝固」、「まとまりのない筋立ては、二十年前の散漫なつなぎ合わせの手法をそのまま受け継いでいる」となる。
絶賛しているのはフョードル・オツェプの監督した『カラマゾフの兄弟』。原作から「伸びやかに解放され」、「カメラワークの点からしても秀逸」という。オツェプは『生ける屍』というフィルムがシネフィルに少し知られているくらいで、同時期のエイゼンシュタインやボリス・バルネットの陰に隠れてほとんど忘れ去られているソ連映画作家である。この作品についてもどんな映画かよくわからない。撮影はフリーデル・ベーン・グルントがクレジットされている。帝政ドイツ時代の中堅キャメラマンである。ボルヘスはこの映画に、ソ連特有の政治的窮屈さがない点を指摘しているけれども、たしかにキャメラだけでなく俳優らもロシア人ではないようで、そこにこの映画の特徴があるようだ(余談だけれども、1930年代のソ連映画界とドイツとの交流はよく知りたいところだ)。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス、牛島信明(訳)『論議』論議

単行本: 307ページ サイズ: 19 x 13.2 x 2.6 cm
ホルヘ・ルイス ボルヘス Jorge Luis Borges
牛島信明(訳)
国書刊行会
2001-01
ISBN-13: 978-4336042910
by G-Tools
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