2006年05月31日

ジャズを3枚

ジャズとは何か。
ジャズは、アメリカ深南部ニューオーリンズで黒人たちが始めた音楽だが、そこには「ここ」からの脱出の意志があった。もしジャズがそのようなものであるなら、ぼくらは、音楽理論とは関係なくジャズを感じることができるはずだ。

ナイトメアズ・オン・ワックスを最初に聴いたのは、もう10年ほど前のことじゃないか。ダビーでホラーなダンスホールサウンドって感じで、その頃は「ジャズ」っぽさを感じることなんてなかった。
これもダビーで、ずぶずぶと沈んでいく感じはあいかわらず。でもどことなくジャズなのは何故か。

In a Space Outta Sound / Nightmares on WaxIn a Space Outta Sound
Nightmares on Wax

Warp
2006-03-07
ASIN: B000E8NPU0
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これはテクノか? それともジャズか? 
ミニマルなトラックに女性ヴォーカルが乗っかる。シンプルだけど誰も考えたことがなかった組み合わせ。夜更けに聴いているとこの世の音楽ではない気がしてくる。美しい。

Trancefusions / RAMJACTrancefusions
RAMJAC

RAMJAC
2006-01-15
ASIN: B000E6EKHO
by G-Tools


沖野好洋や福富幸宏、ジャズトロニックが参加しての京都産のクラブジャズ。
正直この手の音が10年後クラシックスとして残っているかというと、どうしてもそうは思えないのだけれども、その刹那性がジャズっぽくもある。いや、完成度はものすごく高いんだけれども。

EXCLUSIVES / INSPIRATION Kyoto Jazz Massive Bembe SegueEXCLUSIVES
INSPIRATION Kyoto Jazz Massive Bembe Segue

コロムビアミュージックエンタテインメント
2006-02-02
ASIN: B000CEK4H8
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2006年05月30日

僕の中の空洞

ジュンは、自分自身をゲイじゃないと思っている。だけど自分を壊すためにゲイボーイになった。
なぜ自分を壊さなくてはならなかったのか。なにかとても「悲しいこと」が彼の身に起こったらしい。だけどそれがなんだったかは最後まで明かされない。少年期、誰もが持つような青臭い虚無主義の末・・・、みたいな韜晦じみたことがモノローグされるだけだ。

+ + +

ぼくはこの本を高校生のころ読んだ。
ぼくの通っていた高校は男子校だった。生徒の半分以上は寮生で、ゲイのカップルが何組もいた。それに対して、すくなくとも表面的には誰も違和を感じていなかった。学校側は当然神経質だったけれども、公然の秘密、みたいな感じだった。進学校だったせいか基本的に他人に無関心で、みな達観していて、しかし結束が固い、いま考えると不思議な雰囲気の学校だった。

ぼくはこの本を仲の良い友人から借りて読んだ。友人はゲイで、下級生とつきあっていた。油絵がうまくてどことなく翳がある奴だったが、ぼくとは最初から気があった。ぼくらは、ほとんど自分自身のことを話さなかったけど、彼にもいろいろしんどいことが多そうで、ときどきおそろしく沈んでいることもあった。

朝早く、ぼくたちはよく給湯室の不味いお湯で紅茶を作って飲んだ。彼がこの本を貸してくれた日のことはよく憶えている。お茶を飲んでいると、彼は自分の机からこの本を黙ってさしだした。
ぼくも黙ってぱらぱら読んだ。

きっと足を開くという行為は、あるいは開かされるという行為は、それだけでいいようのない官能なのだ。それは今思えば、自分を無防備にする、あるいは自分が無防備にされる、瞬間、と言い換えてもいいのだが。・・・けれどこのことは、きっといくら想像しても、わかってはもらえないと思う。僕は別に粋狂な思いで言うのではないが、このことだけは、君にもぜひ体験してもらいたいなと思う。そうすればきっと君にも、僕の言っていることが嘘なんかじゃないってわかってもらえるはずだ。それがどのくらい気持ちがいいかってことを、君もきっと知ってくれると思う。
こんなテキストがあって、ぼくは彼が、ぼくに「仲間」になるのを薦めているのかと思った。いま考えるとばかばかしいのだけれども。たぶんぼくは困った顔をしていたのだと思う。彼はぼくの心の中を知ってか知らずか(多分知っていたに違いないが)、話題を変えてしまった。

+ + +

ある夜、ジュンの店にフランスの映画関係者一行がやってくる。ジュンがこの店に来て2、3日経った頃だ。ボーイたちのたむろする店内に彼らがいたのは10分ほど。彼らは店にボッたくられ帰っていくのだが、ジュンにだけ、映画監督らしい赤ら顔の小男がチップを渡した。ジュンは思う。

彼は僕の中に何かを見てくれた。多くの客がただ通り過ぎていった中で、彼だけは一人、僕の中に何かを見てくれた。そしてその何かに向って、彼は優しく語りかけるように微笑んでくれたのだ。
彼は僕に向って一言も喋らなかった。もちろん言葉が通じないといった理由もあっただろう。けれど僕は今、こう思う、きっと彼が僕に言ってあげられることなんて何一つなかったんだと。ただ僕に向って優しく微笑む以外、彼には何もできなかったんだと。
彼は僕に礼など期待せず、帰ろうとしていた。彼はきっと見るに見かねて、彼なりに精一杯の気持ちを僕に残さずにいられなかったのに違いない。そして彼にできるのはただそれだけだったのだ。僕に何千円かのお金をくれること、それ以外に彼にできることは何もなかったのだ。そして彼はそのことをきっと知っていた。
僕はあの時、優しく僕を見つめてくれた彼の瞳の中に、幾千の声にならない声を感じた。弱っていた僕を励ます、何億ともいうべき優しい言葉を聞いた。それは言葉に直すと、祈りとか、願いとか、慰めとか、とても形にならない、弱いものなのかもしれない。けれど、だからこそ、僕は彼の言葉を聞いたのだ。彼が僕に向って何も言えなかったからこそ、僕は彼の愛を感じられたのだ。そしてそれを感じるには一瞬で充分だった。彼の瞳はまるで鏡のように、僕の中の空洞を、悲しく透明に映していたのだから。
ぼくはあの頃のぼくじゃない。これがいまのぼくのリアルじゃない。あの頃のぼくらはぼくらのなかの空洞をもてあましていたけれども、いまはそうじゃない。だからこの本を読んでも懐かしく思うだけだ。

そう、懐かしく思うだけだけれども、やっぱり心が痛むのは何故だろうか。

YES・YES・YES / 比留間久夫YES・YES・YES
比留間久夫

体裁=文庫: 248 p ; サイズ(cm): 15
河出書房新社(河出文庫)
1992-07
ISBN: 4309403409
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2006年05月28日

「うるまちゅら島・琉球」@九州国立博物館

「うるまちゅら島・琉球」@九州国立博物館

朝から雨降り。だけど「曇りのち晴れ」という天気予報を信じて太宰府へ。目的地は九州国立博物館の展覧会「うるまちゅら島・琉球」。「うるま」は沖縄島、「ちゅら島」は美しい島の意味らしくてかなり期待しながらみんなで行ってみた。

たまたまこの日は、太宰府天満宮の骨董市でかなりの人出。でもなかなか雨が降りやまず、じっくり骨董市を眺めることも出来ない。あゆむさんは傘を持っているのでいつにもまして危険。なにか壊しはしないかどきどきしながらテントを渡り歩く。

初期伊万里の素晴らしい蕎麦猪口を発見するが、なんと5客で22万円。ちょっといいなあと思う幕末の印判手すら1客8000円ほど。これはさすがに手が出ない。
明治・大正期の和ガラスは特有の乳白色と紅色や青色のコントラストが綺麗だけど、これも高い。
なんでも値が上がってしまっているけど、まだ買えるなと思えるのは戦前の大量生産もののグラス類。探せば1客1000円台で見つかる。デザイン的になかなか素敵なものが。ちょっとくすんだり変色しているのも味ってやつか。
戦前の真鍮製のステーショナリー(トレイやインク置きなど)も値段安くてデザインが綺麗なものがある。

ともちゃんは磁器の浮き玉(模様の綺麗な中空の磁器の玉で、水の中にいれるとぷかぷか浮かぶ)が気になっていた。玄関に水槽を置いてこれをぷかぷか浮かべておきたいのだそうな。

雨降りの門前町  雨の天満宮  あゆむさんも交渉して玩具をゲット

+ + +

骨董市をほどほど見てから国博へ。やっぱり人出は多いですね。しかし今回も素晴らしい展覧会ではありました。
まず、色彩の洪水に驚嘆。紅色・オレンジ色・空色・黄色・紺色・緑色・黒色・金色・銀色・・・ 空色なんて、あんな色は同時代の日本には存在しなかった色だろう。

とにかく服飾工芸の素晴らしさに心を打たれる。ともちゃんに絣(かすり)と紅型(びんがた)の説明をしながら、ぼくは食い入るように見入ってしまった。絹だけでなく、綿や芭蕉、それに苧麻(ちょま)。芭蕉の服はまるで絹のような光沢を持っていて上品。苧麻の服はそっけないけどなんとも涼しげで洗練されている。

紅型衣装 空色地 紅型衣装 空色地

それに漆工芸の精巧さ。螺鈿、沈金、堆錦はものすごく緻密で見ててほれぼれする。とくに黒地に映える(たぶんヤコウガイの)透明な銀色は、眺めていると涼しくなってくる。首里城の王族たちは、たぶん螺鈿を見ながら暑さをしのいだのだろう。

もともと琉球は独立した王国だった。江戸時代までは、日本から見たら琉球は「異国」であった。
中継貿易で栄えた商業国家であり、海に囲まれていたために、領土拡張の野心も持たなかった。世界史的に見ても、琉球というのはきわめて特殊な国家だったといえる。

琉球の支配者であった尚氏には、柵封関係にあった中国は当然ながら、影響の深かった日本の文化にもまた深い造詣が必要だった。工芸や絵画、言語文化など、あらゆる分野にこの二つの文化圏の影響が感じられる。しかし、どんなものにも沖縄の空の色、海の色、花や土の色が染み込んでいるようで、すがすがしい。(もっとも17世紀以降の琉球の歴史は、苦難の連続なのだけれども。)

中山花木図 中山花木図

中継貿易を行って利益を上げる「商社」としての王家の側面と同時に、ノロらシャーマンに特許を与え、地方豪族である按司らを束ねる大封建領主としての王家との二面性があった。王にわかりやすい聖性が見られないのが天皇家と違うところ。文物を見てても、とてもモダンですっきりしてるんだよね。このあたりの詳しい分析(琉球王と聖性の問題系)がどこまでなされているのかよく知らないけど、なかなか興味深い問題であるように思う。

+ + +

結局、ぼくはいつも歴史を見るうえで重要なのは、階級分析だの権力分析だのではなく、ことごとく「交通」の問題じゃないかと思ったりする。経済(交易)だけではない。戦争が起きれば難民が生まれる。これも交通の問題系だ。文化の交流・浸透・混淆。これも交通の問題系だ。

「境界」はあっても、日本にも琉球にも、つい150年前までは「国境」という概念が明確には意識されることはなかった。何雙か展示されていた那覇港図屏風には広い海と行きかう船が描かれている。少なくとも琉球は、常に開かれていた。「どこにでも行ける」という自由さがあったのではないか。これはとても大切なことだと思う。

琉球進貢船図屏風 琉球進貢船図屏風

出口近くには迫力あるシーサーが。現代作家の21世紀に入ってからの作品だった。いつにもまして心憎い演出じゃないか。
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2006年05月27日

雨あがりの香り

土の香り

雨あがりの土曜日の朝、ちょっと遅くに出勤してよかったぼくは、あゆむ君と保育園へ。カメラを持って出てよかった。やっぱり雨の匂いのする朝の光はいい。

井尻神社の鳥居  廃屋の窓  路地

しおれかけたバラ  カラー

麦野での途方もなく退屈な仕事が終わって(要は仕事上の講習)、速攻で薬院へ。性懲りもなく「博多麺通団」へ。
先日と同じ「かけたま」大盛やら天ぷらやら食べる。それに豚の角煮も。半熟煮卵がついてたったの200円。今日もおいしゅうございます。

満足してお店を出ると、またまた弓削さん発見。声をかけて美味しかったと伝えると、とても嬉しそうに「ありがとうございました」と言ってくださいました。

うまいいいいい
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2006年05月23日

定礎のやりなおしについて

『フルーツバスケット』20巻を読む。
この巻ではすっかりこの物語本来の持ち味である「ギャグ」の要素がなくなってしまって、ヘヴィネスが全体を覆ってしまっている。

ぼくは以前にもこの物語を取り上げたのだけれども、そのとき「このヘヴィネスにリアルを感じている」子どもたちについて書いたのだった。ここにあるのは、大人の子どもに対するネグレクトであり偽りだったりする。子どもたちも単にか弱く健やかな被害者ではなく、子ども同士が否定しあい、その醜さに自らをも否定し、内向きに沈みこみ闇に呑まれる姿も描かれている。リアルは実はそこにある。大人が醜いように、子どももまた醜いのだ。

また、ある種の超越的な力を持つ者がいちばん弱く、凡庸な大人がそれを利用し他者を支配しようとする姿も描かれている。本来子どもは超越的な力を持っている。子どもは「いつでも」望まれて生まれてくる。しかし、この超越を大人たちは果たしてそのように認識しているのか。超越は超越であって、ことばで表現でき得ず、矮小化できない。だがこの物語の母親や父親たちはそのエゴで子どもの超越を小さく小さく見積もろうとする。子どもはそれに抵抗するだけでなく、しばしば復讐をする。和解ではない。「わたし」からの彼らの切り離しであり、親と子、そして世界の、「定礎のやりなおし(組みなおし)」である。

この物語は少女マンガらしくずいぶん荒唐無稽なんだけれども、安直な謂いをするならそれはみな「比喩」だ。この比喩にリアルを感じる子どもたちは、いったいこの本を読んでなにを考えているのか。
それはたぶん定礎のやり直し方ではないかと思う。世界の定礎を何度もやり直すこと。やり直さなくてはならないということ。
だとすると、少し怖い気もする。

フルーツバスケット 20 / 高屋奈月フルーツバスケット 20
高屋奈月

コミック: 191 p ; サイズ(cm): 18
白泉社
2006-05-19
ISBN: 4592184009
by G-Tools


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2006年05月22日

Beautiful Dreamer


スティーブン・フォスターの音楽はとても美しい。彼はニューヨークのホテルの洗面所で、ポケットの中にたった38セントしかない状態で死んでしまった。貧困のなかで書かれた音楽の、無垢な美しさ。

ふとんのうえで酔っぱらったおっさんのように眠りこけているあゆむさんへ。

  Beautiful Dreamer

 Beautiful dreamer, wake unto me,
 Starlight and dewdrops are waiting for thee;
 Sounds of the rude world heard in the day,
 Lull'd by the moonlight have all pass'd away!
 Beautiful dreamer, queen of my song,
 List while I woo thee with soft melody;
 Gone are the cares of life's busy throng,

 Beautiful dreamer, awake unto me!
 Beautiful dreamer, awake unto me!

 Beautiful dreamer, out on the sea
 Mermaids are chaunting the wild lorelie;
 Over the streamlet vapors are borne,
 Waiting to fade at the bright coming morn.
 Beautiful dreamer, beam on my heart,
 E'en as the morn on the streamlet and sea;
 Then will all clouds of sorrow depart,

 Beautiful dreamer, awake unto me!
 Beautiful dreamer, awake unto me!


Stephen Collins Foster(1826〜1864) Stephen Collins Foster(1826〜1864)
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柳宗悦とLOHAS

最近、どこに行ってもLOHASって言葉が流行っていて、そういう商品も市場に満ちあふれている。LOHASの重要な定義のひとつにSustainability(持続可能性)があるわけだけれども、その点にきちんと留意したグッズがどれだけあることやら、なんてことを思ったり。そもそもLOHASを日本に紹介した雑誌のひとつ「ソトコト」自体、再生紙を使っているわけでもなし。

で、最近は柳宗悦とLOHASを結びつけるような強引なひともいるようだけれども、ぼくはそういう見方をとらない。
実際に関係ありそうなのは、吉田健一のことば「戦争をなくす唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することだ」のほうだろう。このふたりが実際に接触したことがあるのか、ぼくは知らない。ありそうなことだとは思う。吉田健一は白洲正子という稀代の「目利き」のすぐそばにいたし、白洲は柳宗悦のものを見る眼に深い信頼を置き交流もあったようだ(民芸運動には実に批判的だったけれども)。

また柳と吉田、ふたりのパーソナリティは近いようにも思う。柳宗悦の父親は柳楢悦といって測量技術の専門家で軍人だったし、吉田健一の父親はあの吉田茂だ。このふたりには、彼らの大きな父親と戦争がだぶっている。それは、ありきたりかもしれないが、戦争という醜悪なものに対置した美という感覚と通底してもいるだろう。

+ + +

生活から遊離した鑑賞物ではなく、生活と密着し、生活に即応する器物にあっては、使い勝手のよいということが第一の要請である。貧しい常民の生活では、それに経済的な要請が加わり、最も安価な――ということは、最も手に入り易い――材料を使って、もちの良い、使い勝手の良いものを作らねばならぬ。美しい物を作ろう、などという余裕は、この場合到底もちこまれない。しかし、自然の理法は、貧しいものに対してほほえみかける。機能的であることが、とりもなおさず全部そのまま美しいということにはならぬが、大体において、機能は美しさへの最短距離となる場合が多い。これは、近代の機械とか、住宅とか、航空機とか、そうした物においてさえ発見されている原理なのだ。この原理につつまれて、貧しい民は、何の自覚もなく、意識もなく、実は美しい物を作って来た。美しい物を作ろうとしたのではないが、造られたものはおおむね美しかったのである。美を追いかけたのではなく、美に追っかけられたのである。これが、あらゆる民芸品に共通する最大公約数である。(寿岳文章『柳宗悦と共に』集英社、1980年)
柳宗悦とともに民芸運動を推進した寿岳文章は、「民芸の美」についてこんなことを書いている。
寿岳文章なんて、いまどれだけの人が読んでいるんだろうかと思ってみたりもする。ウィリアム・モリスのケルムスコット・プレスに触発されて、向日庵本といわれる美しい私版本を作ったり、ダンテの『神曲』を長い年月をかけて翻訳したりした、ほんとうに本を愛した人なのだけれども。(彼の手がけた本に『絵本どんきほうて』なんて稀覯本があって、その話もいつかエントリーしたい思っている。ちなみにこの本、いまじゃ市価数百万円する。)

+ + +

美しい物をそばに置いておこうとする、そういう生活。
なにも高価なものを身近に置かなくてもいいのだ。自分だけが美しいと思うものでもいい。いまの民芸運動やLOHASなんて仰々しいものはいらない。
かつての宰相・細川護熙は不東庵で陶芸に打ち込んでいたりする。同郷の人だから、というわけではないけれども、そういう生き方って正直憧れる。誰にでも出来るものではないけれども。

今号の「ku:nel」には、「この花瓶に花を生けてみよ」なんて企画があって、そこにネタにされている花瓶は、おそらく柳宗悦なら「ゲテモノ」なんて言ったはずのものだろう。柳は「ゲテモノ(下手物)」を決して蔑んだ意味に使ったりはしなかった。あくまで「上手物」の美に対するカウンターとしての美に対する呼称だったはずだ。ぼくは美術館の「上手物」だって好きだけれども、いまここにある「下手物」だって好きだ。

不思議なことに、いま若い人たちの間に「下手物」を認めようとする流れがあって、それはとてもいいことだ。この流れを支えている人たちが、実はバブルを体感していない人たちだということは示唆的だ。
「ku:nel」や「linglkaran」、「アルネ」のような雑誌が、ハイアート誌と並べられたりしているのは、すがすがしいじゃないか。
実は柳宗悦の眼を継いでいるのは、(たとえその数が多いとは言えなくとも)彼らではないかと考えてみたりする。

柳宗悦(1889 - 1961) 柳宗悦(1889 - 1961)
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2006年05月21日

Pacou UR Mix


Underground Resistance Underground Resistance

Underground Resistance関係の楽曲をPacouがミックスしたMP3音源を発見。デトロイト・テクノとUnderground Resistanceのことは、これまで何度かブログでも書いていたりするけど、このミックスは素晴らしいですので興味がある方は是非聴いてください。

Pacou UR Mix @Detroit Digital Vinyl

まあベタといえばベタな選曲なんだけど。
Red Planetの「Star Dancer」なんて懐かしいアンセムもしっかり入っていて、十数年の間デトロイトを追っているひとにとっては堪らないです。

Pacouってひと、あんまり日本では知られていないけれどもデトロイトの若いフォロワーとしてマニアには知られている(かも)。偉大なテクノ・オリジネーター、ホワン・アトキンスなんかと組んでTRESORから音源を出していたり。ま、イアン・オブライエンほどの派手な活動はしていないけれども、なかなか骨のある音を出す人です。

060521pacou.jpg Pacou
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昨日と今日

キャナルにて キャナルシティのあゆむさん

土日がようやくのお休み。先週は東京へ行かなくちゃならなくなったりして大変だった。
というわけで土曜日はあゆむくんと三輪車の練習をする。特訓のおかげで、あゆむくんは三輪車を自力で乗り回せるようになった。

公園でまず練習  商店街をのりまわす  地面も春の色

その後は、仕事を終わらせたともちゃんと3人でキャナルシティへ。その前に渡辺通りのてんぷら屋「楽ちゃん」で腹ごしらえ。ここにくるのは2年ぶりかも。安くてうまいですね、ここは。

楽ちゃん  あゆむさんの大好物 

キャナルの「無印良品」で、食器やステーショナリーなんぞを買う。新商品がわんさか出ていて大漁でした。

+ + +

060521b.JPG
福岡麺通団の「かまたまうどん」

日曜日。朝からちゃりんこで出かけた。あゆむさんは「ひよこランド」で猛烈に体力を使いまくる。

ともちゃんと  トランポリンを走り回る  屋内でも全然げんき

眠そうなあゆむさんを連れて、いま話題の「福岡麺通団」へ。新感覚な讃岐うどんとか。「epi」にも記事がありましたね。



いやあ、美味しい。長蛇の列にもびっくりしたけど、納得。いろんなブロガーたちが好意的に書くだけある。
まず麺の綺麗さにびっくり。透明感があって舌触りも滑らかで素晴らしい。当然、讃岐ならではの歯ごたえもしっかりあって。
ぼくは「かまたま」という生卵と醤油のみの、シンプルなうどんを食したのだけど、麻薬的な旨さでした。セルフでチョイスするてんぷらも大変美味しい。ぼくの食べた鶏天は揚げたてで、ジューシーで激ウマ。はまるな、これは。

ところで店内で仕切っていたのは弓削聞平さんではなかったか? お忙しそうだったので声をかけなかったけど。プロデューサー自ら店内業務をしてらっしゃるとは!

はじめ   苺とブルーベリーのフレンチトースト  かわいい湯呑み

ソラリアステージへ移動してステーショナリーを物色。文具ばかり買い物しているけれども、その理由はともちゃんがスクラップブッキングにはまっているからだ。家族旅行のアルバムを、このブログを書いているその隣で作っていたりする。

薬院のカフェ「アベキ」へ行こうと移動してみるも、店主不在の張り紙が。あああああ・・・
仕方なく大楠の「はじめ」へ。はじめて行ったのだけれどなかなか気持ちのいいカフェでした。特に「苺とブルーベリーのフレンチトースト」は美味しかった。苺のコンポートが強烈に美味い。やられた。脱帽でやんした。

さらに帰り道「ブックオフ」で本を物色。比留間久夫の『YES・YES・YES』、山口瞳の『血族』、阿川弘之の『米内光政』、水上勉の『霰』を買う。全部各105円。安い。我ながらめちゃくちゃなチョイスですね。
比留間久夫の『YES・YES・YES』には高校生の頃、ずいぶん「呑まれた」記憶があるので、再読が楽しみ。

家に帰って、つぼ鯛みりんやら冷奴やら、純和風に食べる。あゆむさんは速攻で寝てしもうた。そんな一日。

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2006年05月09日

さらに生き残りについて

さらに生き残りについて。

ジャック・デリダの最後の著作(というかインタビューの記録だけど)『生きることを学ぶ、終に』を読む。鵜飼哲の素晴らしい訳とあとがき、ジャン・ビルンバウムのデリダ論。
デリダは2004年10月9日に癌で亡くなった。もう1年半になるのか。その死の2ヶ月前に「ルモンド」にこのインタビューは掲載された。もちろんデリダは自身の病を知っている。

この対談の最初からすでに指摘していたように、そして、現在私が置かれている生き残りの経験以前から、私は、生き残りとは原初的な概念であり、私たちが生存と、こちらのほうがよろしければ現存在Daseinと呼ぶものの構造そのものを構成するということを強調してきました。私たちは構造的に生き残りなのであり、痕跡の、遺言の、この構造の刻印を受けています。しかし、そのことを述べたうえで、生き残りはむしろ、生の側、将来の側よりも、死の側、過去の側にあるとする解釈に流されたくはありません。いいえ、いつでも脱構築は、<然り>の側、生の肯定の側にあります。私が――少なくとも『海域』所収の『禁止=歩み』以来――生/死の対立の複雑化としての生き残りについて述べてきたことは、私にとっては、生の無条件的肯定に発しています。
生き残りとは生の彼方の生、生以上の生のことであり、私が展開する言説は死と狎れあうようなものではありません。反対にそれは、死よりも生きることの、すなわち生き残ることのほうを好む生者の肯定なのです。というのも、生き残りとは、単に残るもののことではなく、可能なかぎり強烈な生のことなのですから。幸福と快楽の瞬間ほど、私が死ぬことの必然性の取り憑かれることはけっしてありません。享楽することと、迫る死を思い悲嘆に暮れて泣くこと、私にとってそれは同じことです。自分の生を思い返すとき、私には、自分の生の不幸な瞬間まで愛するというチャンス、それらを祝福するというチャンスがあったと考える傾向があります。一つの例外をのぞき、ほとんどすべての不幸な瞬間を。幸福な瞬間を思い返すときには、それらもまた、私はもちろん祝福します。同時にそれらの瞬間は、死の想念に向けて私を急き立てます。なぜなら、それは過ぎ去ってしまった、終わってしまったのですから・・・。

462207138X生きることを学ぶ、終に
ジャック・デリダ 鵜飼哲・訳

体裁=単行本: 85 p ; サイズ(cm): 19 x 13
みすず書房
2005-04-22
ISBN: 462207138X
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ぼくはここにいます

「書く」という行為は、未来という不確定などこかへ自身を投げ出すことだ。投げ出す、あるいは開かれること。テキストは書かれ、読まれる。いや、誰にも読まれないかもしれない。そこには可能性があるだけだ。ぼくはいま、まさに賭けをしている。

ぼくの隣にはたいていともちゃんがいて、明日の朝になればこのエントリーにも目を通すだろう。ぼくはいま「目を通す」と書いた。彼女はぼくの書いたエントリーを、少なくともぼくの目の前ではしっかり読んではくれない。「ののさん(これはぼくのことだ)の書いているものって難しいんだもん」だって。(しかし、彼女が隠れてじっくり読んでいることだって十分ありえるのだけれど。)

ぼくは賭けているのだ。「書く」という行為は「生き残り」に関わることだ。生き残りなんて仰々しい・・・、そういう人もいるってことは承知している。でもぼくは難しいことを言っているつもりはないし、ぼくが特別だと宣言したいわけでもない。ただ「生き残り」という言葉以外に、これについて実感を持って表現できる言葉を知らないだけだ。

+ + +

ぼくはぼくの生き残りを通して、ぼく以外の世界を眺めている。(なんて不正確な表現だろう!)
たとえばぼくはこのエントリーを、外出先の駅のホームで見たある光景を元に書いている。書き留めたメモはこういうものだ。

昼下がりのホームは閑散としているが、それでも何人か電車を待っている人がいる。サラリーマン(このなかにはぼくもいる)、買い物袋を提げた主婦、女子高生、ベンチに座ったおばあちゃん。そのなか赤ちゃんを抱いたお母さんがいる。眼鏡をかけていて、髪が長くて、たぶん若い。赤ちゃんは生後6ヶ月ほどかもしれない。大きな声で泣いていて、お母さんはきっと電車が来る前に泣きやんで欲しいらしく、一生懸命にあやしている。赤ちゃんはなかなか泣きやんでくれない。彼女は駅のホームの天井を見上げてため息をつく。そして抱いた赤ちゃんに笑顔を向けてあやしはじめた。ぼくはその光景を見ながらウォークマンを聴いている。ポラリスの「季節」だ。
ぼくの生き残りを通して見るこの光景は、ここに書くことで、特別な物語の種に為りはじめる。書くことによってのみ、ぼくだけの物語の可能性が開かれる。

+ + +

ぼくはいつも知ってしまったあと気づくのだ、「ぼくは知ってしまった」。ぼくはそれを刻みつけずにはいられない。メモに、ここに。
しかしそれが成功しているとはいえないようだ。言葉は手のひらから零れ落ちる砂のように、何もかもを取りこぼしていく。そうじゃない、そうじゃないと呟きながら、なかば傍観者のような悔しい気分で、知ってしまったことに少しでも近づきたくて、ぼくはぼくの物語の可能性を刻む。

+ + +

ぼくは少し悩んで「物語」という言葉を使ったのだった。そう、やっぱりそれは物語だ。あるいは呼吸、リズムか。
まちがっても「意味」なんてものじゃないのは確かだ。もしあえてそんなものを探すとすれば、「ぼくはここにいます」、ただこれだけのこと。この言葉はいつも廃棄され、更新され続ける。常にすでに古く、常に全く新しい。
踏みつけられ讃えられてある言葉、「ぼくはここにいます」。

B00006LEY9Home
Polaris

ピーエスシー
2002-11-07
ASIN: B00006LEY9
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2006年05月08日

子どもは笑う

ふたたび谷川俊太郎の『シャガールと木の葉』から、
あゆむさんへ。

  子どもは笑う

 子どもが笑っている
 ひとりで笑っている
 ひとりでに笑っている
 誰もいない野原で

 丘のほうから吹いてくる風
 さっき岩の上で見た虹色のトカゲ
 泥まみれの友だちの泣き声の谺
 祭りの太鼓の思い出
 頭の真上のまぶしい太陽

 見たもの聞いたもの
 嗅いだもの触ったもの
 それらすべてにくすぐられて
 子どもが笑っている

 今いのちが生れているのだ
 子どもの中に

  *

 子どもには百千もの笑うわけがある
 それが大人にはただひとつにしか見えない
 子どもが笑っているだけで大人は安心してしまう

 だが子どももまた
 苦しみを笑うすべを知っている
 垢だらけの無垢をあらわに

 子どもはもう
 大人を嘲るすべを知っている
 あどけない笑顔を武器に

 百千もの笑顔を
 大人は見分けているだろうか

  *

 どこで覚えたのか
 いつ覚えたのか
 笑うことを
 大声で泣きながら
 この世に生れたあとで

 この世と戦うためにほほえむ子ども
 この世と和解するためにほほえむ子ども
 どんな貧しさも
 どんな富も子どものほほえみを奪うことは出来ない



シャガールと木の葉 / 谷川俊太郎シャガールと木の葉
谷川俊太郎

体裁=109 p ; サイズ(cm): 21 x 15
集英社
2005-04
ISBN: 4087747581
by G-Tools

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2006年05月07日

中沢新一『芸術人類学』

ぼくはこれまでずっと中沢新一の本を読んできた。高校の図書館にあった『チベットのモーツァルト』を読んだのが最初。もちろん浅田彰や柄谷行人、丸山圭三郎、そして蓮實重彦なども平行して読んでいた。
その頃、すでにニューアカなんて恥ずかしい名前をつけられたポストモダン・ブームはとっくの昔に終わっていて、だからぼくは、彼らの著作を「若い思想家たちのラディカルな一記録」として読んだのだった。

なかでも中沢新一の本は、キャッチーな書名といい、まるで学者とは思えない小説的な文体といい、ぼくの肌にあった。中沢新一が、きちんとフランス現代思想を理解しているかどうかは問題じゃなかった。とにかく読んで楽しい、ミネラルウォーターのように体に入ってきて気持ちいい、そういう麻薬的な本を書いてくれる人だった。

中沢新一  中沢新一

たとえば書名。『虹の理論』『雪片曲線論』『蜜の流れる博士』『野ウサギの走り』『悪党的思考』『森のバロック』『幸福の無数の断片』『ケルビムのぶどう酒』『哲学の東北』『純粋な自然の贈与』『はじまりのレーニン』『フィロソフィア・ヤポニカ』『精霊の王』『アースダイバー』などなど。書名がすでにナカザワ的だったりする。

で、中沢新一の新刊を読む。彼には珍しく『芸術人類学』なんてそっけないタイトルがついているんだけど、やっぱりテキストは相変わらずのナカザワ的文体で楽しい。

「芸術人類学」という造語で指し示そうとする新しい世界観について、彼はこんなアジテーションを行っている。こういう書きっぷりができるのは中沢新一だけじゃないか。

私たちの心の内部には、まだ「野生」の沃野が残されています。どんなに合理的な社会管理や経済システムが世界を覆い尽くす勢いを見せているとはいえ、私たちの心から現生人類への最初の飛躍を記念するあの偉大な徴は、消え去ってはいません。いや、人類が生き残ってあるかぎり、その徴は消えようがありません。芸術は私たちの心の奥底に眠っている、この記憶の領域、いまだに野生を生き続けているこの思考の領域を、表現の中に取り出してみたいという欲求を抑えることができません。どんなに社会の形態は変化してしまったとはいえ、どうやら現生人類としての私たちの心の本質は不変です。数万年もの間、人類の心の基本構造はいっこうに進化も変化もとげていないのです。私たちは同じ脳の構造をもち、同じ「バイロジック」を生き続けています。私たちの中にはいまだに野生の領域が生きています。それどころか、人間としての私たちの本質をつくっているものは、そこにしか存在していません。

私たちは「芸術人類学」という新しいことばによって、人間に関する二つの偉大な学問の伝統、すなわちいっぽうで「バイロジック」で作動する「野生の思考」を主題に据えてきたレヴィ=ストロースの構造人類学と、もういっぽうで芸術と宗教の起源をめぐる思索をつうじてあらゆる思考の絶する非知の働きを現生人類の心の本質として見出したバタイユの思想、この二つの思想を結合したところにあらわれてくるはずの、未知の思考の領域を開こうとしています。それによって、私たちは何を求めているのでしょうか。私たちは人類がまだ、自分の心の奥に野生の野を抱えていて、いまではすでに失われてしまったように思われている、その野を開く鍵を再発見することがじつはいまでも可能であることを、確実な仕方であきらかにしてみせたいのです。現代のおいてはめったに見られなくなった無謀な企てに、私たちは乗り出そうとしています。「芸術人類学」の守護神は、それゆえドン・キホーテその人です。
正直、ぼくは中沢新一のレヴィ=ストロース理解は、かなり単純化されているもんだと思うし、この本で試みられている考古学と民俗学を結ぶ試みってのにも無理があるような気はする。たとえばこの本の「壺に描かれた蛙」というテキストは、山梨周辺の道祖神信仰と縄文時代中期の土器文様に描かれている動物、それに南北ネイティブ・アメリカンの神話を構造主義的手法で料理した超刺激的な論考だったりするが、これがいまの民俗学会に認められることはないだろう。(そうそう、たとえば岩波講座『東洋思想』でチベット仏教思想を解説した某先生は、その註で中沢新一のニンマ派理解を痛烈に批判していた。中沢新一はなにより今も昔も学者受けが悪い、例の駒場騒動が有名なように。)

だけど、ぼくは中沢新一ってひとは、いつでも希望を書いている人だと思っていて、歌うような文体は書く喜びに満ちている気がする。ぼくは彼が学者らしいなんて思ったことは一度もない。なにか物語(ファンタジーがいいかな)を書いてくれたほうが、いちばん彼の本質が現れるんじゃないだろうかとか思っていたら、同じことを松岡正剛師も書いてらっしゃって、ちょっと嬉しかった。

書くってことは喜びだ。ぼくのいまを支えているのは、書くことかもしれない。書くってのは、曖昧な未来というものへ自分を投げ出すことだ。ぼくは書くことで自由になれる。

4622071894芸術人類学
中沢新一

体裁=単行本: 374 p ; サイズ(cm): 19 x 13
みすず書房
2006-03
ISBN: 4622071894
by G-Tools

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2006年05月06日

ソラニン

さて『ソラニン』の話。

ぼくは、ほとんどコミックを買って読まない。いやすいません、毎週コンビニで立ち読みしてすませているってのがほんとのところです。だから『20世紀少年』が唖然とする大団円(?)を迎えたことも知っているし(これは間違いなくしばらくしたらイベントあるでしょう)、古谷実が新作を書き始めたことも知っているし(タイトルは忘れたけど)、『ムーンライト・マイル』が夢溢れるSFコミックからすっかり政治小説化してしまっていることも気になっているし、相変わらず『ベルセルク』の圧倒的な筆力に毎回どきどきさせられている。つまりマンガが嫌いってことじゃない。

そんななかひさしぶりに買ってしまったコミックが(というか、ともちゃんに無理やり買わせた)のが浅野いにおの『ソラニン』だったりする。

浅野いにおの作風は短編向きだ。どこかで「物語」ってもんを拒否している風でもある。たとえば(ネタバレをしちゃうけど)、この作品は社会人になったばかりのカップルが主人公なんだけれども、いきなり前半で主人公の片方が死んでしまう。女の子のほうが残りの物語を担うんだけれども、それも普通のマンガならここから本格的なストーリーが始まるってところでいきなりエンドしてしまう。

まあ、今風に言えば「自分探し」系の話で、普段ならぜんぜん食指が動かないわけだけれども、この青臭さはぼくが一度は通過したものなわけで、気恥ずかしいけどやっぱり嫌いにはなれない。
緻密な演出とカット割りは映画の文法にずいぶん依拠しているけど、古谷実へのレスペクトも随所に感じられて素敵。

で、ぼくは。
ぼくはビリーみたいになりたい。

ソラニン (1) / 浅野いにおソラニン (1)
浅野いにお

体裁=コミック: 208 p
小学館
2005-12-05
ISBN: 4091533213
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ソラニン (2) / 浅野いにおソラニン (2)
浅野いにお

体裁=コミック: 221 p
小学館
2006-05-02
ISBN: 4091510760
by G-Tools
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わたしのやりかた

松浦寿輝の『方法叙説』を読む。

筆者自身は「方法叙説」という言葉を「わたしのやりかた」という程度の意味だとしている。が、明らかにデカルトの『方法叙説』を意識しているんだろう(直接デカルトを引用するわけではなく、フロイトを経由して間接的に語るという念の入れようだが)。

Wols / Bleu Optimiste Wols, "Bleu Optimiste"

デカルトの『方法叙説』の正式な書名は、『理性を正しく導き、諸学における真理を求めるための方法についての叙説、なおこの方法の試みなる屈折光学、気象学および幾何学』というやたらめったら長い書名でだったりするのだが、たとえば次のようなテキストを読んでいると、松浦寿輝はデカルトとは正反対の「やりかた」を試みようとしていることがわかる。

わたしがわたしであることの不快。快楽はいつも差異の中にある。「他人とは違う」ことをやろうと心を砕くのは、単なる自己顕示欲の変形であり、虚しい社交的慰戯の一様態にすぎない。むしろ絶えず「自分とは違う」ものでありたい。そのつど「自分とは違う」自分とめぐり逢っていたい。「自分が自分である」ことの不快から自分を癒すためにわたしは書きつづけてきたのではないか。
いずれにせよ、統一性(ユニテ)の概念は書くことの敵である。ただ一度しか起こらない出来事が、差異を誇示しつつ混沌として立ち騒いでいればそれでよい。途切れ途切れのものの隙間を「伝って」ゆくにつれて、書く身振りの対象も様態もスタイルも次から次へと異なっていかなければならなかった。統一性の観念は絶えず訴訟にかけられねばならず、一度かぎりの出来事は反復とは異なる複数化の回路に導き入れられなければならなかった。
カードマジックの天才だったダイ・ヴァーノン、フランスで活躍した画家ヴォルス、それにあのロラン・バルトの3人を縦糸にしながら、自分自身の「やりかた」について綴る。

Wols / Ohne Titel Wols, "Ohne Titel"

ある一点、つまり「意味」に不透明なまま収斂していこうとするコトバを、凝固する寸前で曖昧なままにしておくこと。たとえば彼はそれを「ヴォルスのように書くこと」とか「迂回路」とか「迷うこと」「伝うこと(沿うことではなしに)」「形相的官能」と書いていて、ぼくには「生理的に」得心できる。

彼の湿度を感じさせる文体の秘密も、「水」をめぐるテキストで少しだけ明かされる。松浦寿輝による自身の入門書・解説書って感じの本。もちろん松浦寿輝なんて知らない人も、ただなんとなく休日の昼下がりにワインか日本酒を飲みながら読むのにいい。

方法叙説 / 松浦寿輝方法叙説
松浦寿輝

体裁=160 p ; サイズ(cm): 19 x 13
講談社
2006-02
ISBN: 4062129736
by G-Tools

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2006年05月04日

動物園をぶらぶらする

あゆむさんのリクエストで熊本市動物園へ行く。
朝からおにぎりを握って出発。ところが朝からすでに渋滞の予感大で、裏道を通りながら熊本市内へ向かう。
とりあえず少し離れた駐車場に車を置き、市電で動物園へ。これが正解で、現地に着くと動物園前のとんでもない渋滞に唖然とする。

動物園内はすごい人出。クイズラリーなどしながら動物を見て回る。ぼくの子どもの頃からいたシロクマのペアが一匹になっていた。ごく最近女の子のほうが死んじゃったそうだ。なんか感慨深い。

あいかわらずこの動物園はキリンがダイナミック。かなり間近で見れる。ふれあい動物広場とかあって、あゆむさんはヤギさんにぺろぺろなめられたりする。

当然のようにあゆむさんはいろんな遊具にハイテンション。ウォータースライダーに乗ったり、汽車に乗ったりする。ともちゃんとぼくは「ディスクオー」とかいう絶叫マシンに乗る。なかなか楽しかった。

というわけで、明日はなにをするのだろうか。

市電の電停で  卵焼きを食べるあゆむさん  キリンがダイナミック

ゾウ  シロサイ  あゆむさんとヤギさん

南国風  絶叫するともちゃん(中央やや右)  動物園のおみやげは何故かリアルな伊勢エビの模型
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2006年05月03日

南阿蘇をぶらぶらする

GW中盤ということで、南阿蘇をぼくら家族と義弟の4人でドライブ。ピチカート・ファイブだのスリー・ドッグ・ナイトなどをBGMに快調に車をとばす。

まず「あそ望くぎの」。あゆむさんはおたまじゃくしの泳ぐ小川やら、広場やらで元気に遊び倒す。
ここはただの道の駅に似た施設かと思いきや、なかなか楽しい。眺望もよくて家族連れでにぎわっている。物産館は、山菜や地元の野菜やらがいっぱいでしかも安い。暑いから車の中に置いてると悪くなりそうで、迷った挙句買わなかったけど。

小川では、あまり見たことのないカワゲラと出会った。正式なお名前はわからずじまい。

あそ望くぎの  小川を渡るあゆむさん  カワゲラさん

「おじゃまたくし」を探すともちゃん  走るあゆむさん

お腹がすいたので少し車を走らせ「STRONG BOSS SALOON」へ。お店の駐車場にはなぜだかハーレーがずらり。こ、これは・・・
義弟と「革ジャンを着て、サソリのタトゥーにヒゲ面のいかついおっちゃんたちが並んでたりして」とかなんとか言いつつお店に入ると、まさにそんな感じでちょっと場違い感。

お店の中にはライブステージがあって、ドラムやらギターがあった。なんだか『ブルース・ブラザース』のワンシーンを思い出す。ジェイクとエルウッドが瓶ビールを投げられてびしょびしょになりながら「ロウ・ハイドのテーマ」を歌うシーンだ。

そんなことを思い出しながら待っていると、ハンバーガー、チキンバーガー、ホットドッグなどなど。かなりでかい。バティは赤身のみ。牛肉の味がしっかりする。うれしかったのはハインツの超でかいケチャップと、アメリカーンにこれまた超でかいイエローマスタード。べちょべちょかけながら食す。うめえ。
ぼくはハンバーグランチ。トマトソースは手作り&シンプルで、ちょっとパンチが足りない感じがしたので、これにもイエローマスタードをかけて食べる。うめえ。

オニオンリングも食べてみたけど、これもうまい。モスのオニオンリングよりも個人的には好き。あのカリカリな衣はどうやって作るんだろうか。

ハーレーです  オニオン・リングが劇ウマ  ハンバーグもうまいです

それから白川水源へ。あゆむさんは最初眠くてたまらない風だったけど、水源の涼しい風で息を吹き返して元気になる。
人出は多いけど、水は綺麗で美味しくてずいぶん開放的な気分になって帰途に着いたのでした。明日はなにをするのだろうか。

白川水源の神社  3人で歩く  水源をバックに
posted by Dr.DubWise at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | day | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月02日

余りもののこと

ぼくが子どもの頃暮らした「村」には、真ん中に古い神社があった。それほど大きな神社ではなかったけど、ずいぶん立派な御神木があって、そのせいか夏は涼しく、近くには川も流れていたので、子どもの頃はよく遊びに行っていた。

夏休みが終わるとすぐに八朔のお祭りがある。本殿で深夜、古い面をつけた神楽が舞われる。それには限られた大人(というか爺さんたち)しか参加できない。ぼくも見たことがない。
だけどその日の夕暮れは小さな境内に人が溢れた。いわゆる「夏祭り」ってやつだ。何軒かテキ屋が出て、綿飴やリンゴ飴、ボンボンやお面なんかを売っていて、子どもたちはクジをひいてはしょうもないオモチャを買っていた。子どもたちの声、大人のざわめき、蒸し暑さと風の涼しさ、発動機の音、裸電球のオレンジ色の光、青年団手作りの舞台と部落ごとの出しもの。

夏祭りのクライマックスは、旅芝居一座の公演だ。どこのどんな一座が来ていたのかいまとなっては記憶にない。憶えているのは、作り物のカツラや刀、座長の真っ白などうらんと紅い目許、決めのポーズ、安いスピーカーから流れる演歌、芝居を見てすすり泣くお年寄りたちのことだ。

ぼくは子どもの頃は毎年このお祭りに行っていた。この光景を見ながら育った。お祭りが終わると、稲穂が黄色くなり収穫の時期になる。

+ + +

ぼくはずっと、人間はただ生きるだけでも「何かを余らせて」しまう生き物だと思ってきた。これは信念だといってもいい。たぶんそれはこのお祭りの記憶に根ざしたものだ。人間は「余りもの」をあの旅芝居を観ながら消化/昇華する。「余りもの」に気づかず生きている人間もいる。だけどそれは単に気づいていないだけだ。「余りもの」に始終傷ついている人もいる。自身のコンパスを狂わせることもある。「余りもの」は多くなったり少なくなったりするが、決してなくなったりはしない。そして、これが大事なことなんだけれども、この「余りもの」が生の質に関わっている。

ぼくの田舎はとても封建的で、100m越しに知り合いに会ってしまうほど狭く閉鎖的で、農業か漁業に従事している人がほとんどだった。病院やコンビ二は近くになく、教師と議員は「先生」と呼ばれてエリート意識が高く、坊さんは尊大だった。これは20年前のことだし、あれからずっと帰ったことがないから、いまはどうか知らない。

でもあそこにだって「余りもの」はあったし、それをよく生きるための糧にしようとするひとたちもいた。ビルの窓から夕暮れの街を見ているとそんなことを思い出す。

+ + +

そうだ、もうひとつこの夕暮れを見ながら思い出すこと。あの大きな銀杏の木のこと。
ぼくの家は恐ろしく山の中にあった。学校へ行くとき、だらだらと長い坂を下って登校するのだが、その下り坂の途中に大きな、ほんとうに大きな銀杏の木があった。大人ふた抱えほどもある幹の太さで、まっすぐに天に伸びた背の高い銀杏の木。秋になると無数の黄金色の葉が落ちてきた。
銀杏の下には、小さなお地蔵さんの祠があって、銀杏の実を集めて売ったお金で祠の修理や瓦の葺き替えをしたり、人を雇って草を刈ったりしていた。

青空の下の大きな真っ直ぐな銀杏の木。
ぼくの子どもの頃の記憶の中でも、この木の印象はとても強い。時が経って、かなり美化されて記憶されているのかもしれないが、あの黄金色は目にいまでも焼きついている。
あんなに鮮やかな黄色は、田舎を出てから一度も見たことがないような気がする。

+ + +

人間は「余りもの」を己以外のなにかに依って消化/昇華していく、目を凝らし、耳を澄まし、自身の肌にひんやりした風や誰かの体温を見つけなければ、たぶんそれを消化/昇華させることができない。見つけることは待つことでもある。

世界は堪えなくてはならないほどに重いものだが、同時にとても美しい瞬間や、自分にだけにしか価値のない(でもだからこそ重要な)noticeを、突然のプレゼントみたく与えてくれるものだ。

そして歌う。
そうと知らず歌わずにいられない。

+ + +

谷川俊太郎の『シャガールと木の葉』という詩集に、こんな詩がある。

  Larghetto

 私は白樺に教えられている
 青空に諭されている
 蛇苺に嘲られ
 そよ風に嬲られている

 何が欲しいのだろう私は
 満ち溢れている詩に
 言葉を与えることが出来ずに

 真昼の静寂に小耳にはさむのは
 太古からの虻の睦言
 夕暮れの大気に嗅ぎつけるのは
 草いきれに残る永遠の匂い

 こころは疑いで一杯なのに
 からだは歌わずにいられない
 夜の道は死の向こうまで続いている



シャガールと木の葉 / 谷川俊太郎シャガールと木の葉
谷川俊太郎

体裁=109 p ; サイズ(cm): 21 x 15
集英社
2005-04
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posted by Dr.DubWise at 17:49| Comment(0) | TrackBack(0) | cahier | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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