2006年08月31日

女3人プラスアルファの旅 PT.3

この日も元気に起きたあゆむさん(すでに朝風呂済み)。

由布岳と背比べのともちゃん。  あいちゃんとあゆむさんと由布岳。  F木ちゃんとあゆむさんと由布岳。

3日目。朝早くおきてあゆむさんと別荘の大浴場に入る。
なかなか女の子たちが起きてこない。しまいにはともちゃんに起こされるところがおかしい。(寝起きの写真はさすがにかわいそうなので出さないことにする。)
朝食をきちんと食べて、お掃除をして、出発。実に名残惜しい。こんなところに住んでみたいもんだ。

今日は別府をめぐる。別府へ行く途中、由布岳のふもとで記念写真を撮ることにした。大きくて美しい由布岳。ぼくらの大好きな山。

 をとめ等が 放りの髪を ゆふの山 雲なたなびき 家のあたり見む 

海地獄に蓮が咲いていた。

坊主地獄はかなり熱そう。

山地獄のカバは食いしん坊だった。  かまど地獄の足湯でくつろぐ。  地獄公園でセミを捕まえる。

ぼくは何度か別府に来たことがあるけれども、実は地獄めぐりをまともにしたことがない。ずいぶん小さな頃に竜巻地獄に行ったきりだ。というわけで、鉄輪で地獄めぐりをすることに。

海地獄、山地獄、坊主地獄、鬼山地獄、かまど地獄、白池地獄とまわる。なかなかの「パラダイス」っぷり。とにかく楽しい。どこかに桂小枝がいないか探してしまった。

坊主地獄がいちばん興味深い。白い泡がボコッボコッと沸いているだけだけれども、これはシリカの熱泥だ。mud potともいう。どこか(アメリカだったかロシアだったか)のmud potで、この熱泥から藍藻類とバクテリアによる熱水生態系が発見されたことがあったと記憶する。

かまど地獄で足湯に入る。結構熱い。ちょっと長く入りすぎたのか、なんだかみんなのぼせてしまった。しかし、ここはパラダイス色が濃厚でくつろげる。

すぐ近くに「秘法館」があるので、かなり行きたかったんだけれども、未成年者は入場できないようだったのであきらめた。あゆむさんが見たかったろうけれども。

地獄蒸し専用の釜。

ワイルドに地獄蒸し。

あいちゃんがもりもり食べる。  かなりな量の地獄蒸し。  F木ちゃん、どうしたの?

楽しい時間はすぐに過ぎてしまう。お昼時になったので、竜巻地獄と血の池地獄をあきらめ、別府名物「地獄蒸し」を食べることにする。レストランで食べるのもつまらないので、地獄蒸しを自分たちで体験できる「大黒屋」という湯治宿へ行くことに。近くのスーパーで食材をいろいろ買って、道に迷いつつ向う。

「大黒屋」では地獄蒸し用の釜を、2000円で貸してくれる。ざるやお皿、ポン酢やお塩、自家製からし味噌など調味料もこの料金内のサービス。だから、持ち込むのは純粋に食材だけ。
この日持ち込んだのは、鯛、手羽元、ウィンナー、じゃがいも、かぼちゃ、しいたけ、おくら、とうもろこし。おにぎりは事前に別荘でにぎってきたが、卵を買い忘れたのはご愛嬌。

とにかく蒸気の温度と圧力がすごい。鯛が10分ほどで蒸しあがる。しかもうまい。こんなにうまいとは。ビバ、地獄蒸し!

蒸しては食い、蒸しては食い、とにかく食いまくる。食材費を含めても、ひとり1000円程度でこんなに美味しいものが食べれるなんて、地獄一転極楽なり。

帰り道に虹を見る。

夕方近くまで遊んで、車で帰ることにした。高速道路に乗った途端、通り雨に遭遇。そして虹。つくづく良い旅だった。

+ + +

酒井順子(『負け犬の遠吠え』の作者)の書いた『哀しい観光』という本に、こんな一節がある。

訪問というものは通常、「呼ばれる」から「出かける」ものです。しかし私たち観光客は、誰からも「来なさい」と言われていないのに世界中に出かけ、滞在してしまう。それはすなわち、招待状を受け取っていないパーティーにのこのこ出かけていくようなもの。もちろん旅費という名のパーティー会費は支払います。お金は支払っているから、パーティー主催者も露骨にイヤな顔はしません。しかし招かれていない者にとっては、そこが「正しい居場所」では絶対に、ない。
このひとの書くものはどれもこれもつまらないんだけど、この一節はとびきりつまらない。ぼくらはどこにも「正しい居場所」がないから旅をするというのに。

旅が終わるのは寂しい。夏の終わりも寂しい。だけどこの寂しさは、人なら誰もが感じることだ。大人になったら尚更のことだ。
それでも「ぼくらの住むこの世界では旅に出る理由がある」(by小沢健二)。寂しさを飲み込みながらぼくらは旅をする。どんな旅であっても。

「そして毎日はつづいてく 丘を越え僕たちは歩く」。

  ぼくらが旅に出る理由

 心がわりは何かのせい?あんまり乗り気じゃなかったのに
 東京タワーから続いてく道 君は完全にはしゃいでるのさ

 人気のない秋の渚 ぼくらだけにひらける空
 「元気でいて」とギュッと抱きしめて 空港へ先を急ぐのさ

 遠くまで旅する恋人に あふれる幸せを祈るよ
 ぼくらの住むこの世界では太陽がいつものぼり
 喜びと悲しみが時に訪ねる

 遠くから届く宇宙の光 街中でつづいてく暮らし
 ぼくらの住むこの世界では旅に出る理由があり
 誰もみな手をふってはしばし別れる

 そして君は摩天楼で 僕にあてハガキを書いた
 「こんなに遠く離れていると 愛はまた深まってくの」と

 それで僕は腕をふるって 君にあて返事を書いた
 とても素敵な長い手紙さ[なにを書いたかはナイショなのさ]

 遠くまで旅する恋人に あふれる幸せを祈るよ
 ぼくらの住むこの世界では太陽がいつものぼり
 喜びと悲しみが時に訪ねる

 遠くから届く宇宙の光 街中でつづいてく暮らし
 ぼくらの住むこの世界では旅に出る理由があり
 誰もみな手をふってはしばし別れる

 そして毎日はつづいてく 丘を越え僕たちは歩く
 美しい星におとずれた夕暮れ時の瞬間
 せつなくてせつなくて胸が痛むほど

 遠くまで旅する人たちに あふれる幸せを祈るよ
 ぼくらの住むこの世界では旅に出る理由があり
 誰もみな手をふってはしばし別れる

 
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2006年08月30日

女3人プラスアルファの旅 PT.2

由布院の朝市

朝の金鱗湖  「下ん湯」もまだ開いていません  あさがほのおもひつめたる花の数 蒼石

由布院ではあいちゃん(ともちゃんの友だち)の別荘に泊まらせてもらうことになった。いわゆる「リゾートマンション」。温泉大浴場&ジム付き。すごく豪華。
由布院に着いたのは1日目の夜だったので、行動開始は翌朝から。

翌朝はやく温泉に入った後、ともちゃんと早朝デート。金鱗湖へ。
さすがに由布院、朝から雲海が見える。金鱗湖まで降りてくると、夏でも水面から湯気が立っているのが見える。温泉が流れ込んでいるんだね。

まだほとんど観光客がいない時間なのに喫茶店が開いていたりする。「下ん湯」もまだ開いていない。地元の人だけが入れる公衆浴場を、おばちゃんが掃除している。朝顔の青に蒼石の句を思い出して、ほんとに目が覚める。

由布院駅のほうに回ると朝市を発見。ともちゃんは生唐辛子を買う。100円。

由布院美術館の足湯

由布院美術館  この万華鏡が欲しいのだ  楽しそうやね

いつものように絵葉書を書く。左はあゆむさん、右はオレサマ。  ともこ画伯の絵葉書  あいちゃんが佐藤渓の絵を見ている。

とにかく一日中、由布院の町を堪能することにする。やっぱり最初は由布院美術館へ。ここがいちばん落ち着くです。いかにリラックスできたかは写真を参照。

ここには、なにか楽しいものがあるってわけではないのです。ただ、「建築が本来目指すべきこと」が提示されているように、ここに来るたびに思うのです。
象設計集団の設計した木造の建物は、建てられて15年目。いい具合に枯れ始めていて素晴らしく味がある。たとえて言うと、築数十年の山の中の木造校舎に来たような感じ。よくよく見ると細部のディティールにも凝っているんだよなあ。たとえば、入り口のコンクリート壁の質感やトイレのタイル、窓。資金難が続いているようだけど、これからも大事にして欲しい建物です。

ともちゃんはサングラスも似合う

金鱗湖でガチョウに好かれる

煎餅屋で焼きたてを食べる。  あゆむさんを好きな金鱗湖のガチョウ君  金鱗湖の女3人プラスα

もちろん、観光客向けのお店も回る。こういうのも楽しい。
ものすごく美味しい生ハムやベーコンを試食したり、ワインを試飲したり、D-51の前で記念写真を撮ったり、玉こんにゃくを食べたり、焼きたてのせんべいを食べたり、おもちゃで遊んだり、焼き物を見たり、地元のアーティストが作った猫の小さな像がそっけないけど愛らしかったり(買えばよかった)、道に迷ったり、かき氷を食べたり。

夜は豊後牛の焼肉

花火の前にテンションが高いF木ちゃん  花火は素晴らしい。  ほんとに花火は素晴らしい。

くたくたに疲れて別荘に帰る。帰り道、豊後牛を買ってきたので夜は焼肉。さらに花火&温泉。夏の終わりの素晴らしい一日。何故か、キリンジの「野良の虹」を思い出す日。

  野良の虹

 女の子のヒップは白くて冷たい
 捻くれてるキッスは涙で甘辛い
 さよなら またあおうね
 涸れた頬をよせあう
 流星のイレズミをまぶたに刻め
 袂を分かつ野良の虹
 桃色の手のひらを振る恋人よ バイバイバイ

 騙し絵みたいな顔をして笑わせて
 七曲りなセックスを楽しんだものさ
 さよなら またあおうね 
 見果てた空の下で
 流星のイレズミをまぶたに刻め
 袂を分かつ野良の虹
 桃色の手のひらを振る恋人よ バイバイバイ、グッバァーイ
 
 左胸が繰り出してくる
 黄昏、動悸と二ガい汗
 落ちにくい口紅を塗りなおす君はだれだ

 流星のイレズミをまぶたに刻め
 袂を分かつ野良の虹
 桃色の手のひらを振る恋人よ バイバイバイ
 流星のイレズミをまぶたに刻め
 袂を分かつ野良の虹
 桃色の手のひらを振る恋人よ バイバイバイ、グッバァーイ

 
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2006年08月28日

女3人プラスアルファの旅 Pt.1

白糸の滝で水遊び

白糸の滝  白糸の滝のしぶき  あゆむさんはF木ちゃんが好き

ともちゃんとお友だちの「女3人の旅」があまりに楽しそうなので、あゆむさんとついていくことにした。2泊3日の旅。糸島→由布院→別府という強行軍。第一日目は糸島。
実は福岡に来てはじめての糸島でした。こんなに楽しいところとは思わなんだ。

まずは白糸の滝にて涼む。かなりな山の中にもかかわらず人出が多い。釣りができたり、ヤマメの塩焼きが食べれたり、ソーメン流しができたり。
思ったより滝が大きくて、マイナスイオンをたっぷり体に取り込むことができました。

Natty Dread

ベーコン&レタス&アボガドバーガー

飛行機雲

海に出かける。お腹がすいたので「Natty Dread」でハンバーガーを食べることにする。ラスタでワイルドな感じのお店だけど、ハンバーガーが強烈に美味しい。パティから肉汁が滴るのです。しかもボリュームがたっぷり。さらにオニオンリングも激ウマ。
お店は海岸のすぐ近くに建っていて、ロケーションも最高でした。いいところだねえ。

暇楽にて

もりもりハンバーガーを食べる  「またいちの塩」にて  こんなところで暮らしてみたいね。

焼き塩と手作りソープを買いに「またいちの塩」と「暇楽」へ。道がよくわからずに右往左往。突然現われた砂利道にとてつもない不安を感じながら、無事にお店を発見する。

まず「またいちの塩」。古い小屋では薪がめらめら燃えていて、いままさに塩が作られているよう。裏に回ると流下式塩田という大きな装置(といっても骨組みで竹をさかさに支えていて、上から枝を伝って海水が滴り落ちるという単純なもの。これで海水を濃縮して「かん水」にする)がある。そして店先にはハンモック。いいのか、こんなにのんきで。

「暇楽」は「またいちの塩」の少し手前にある。お店にはスタッフのお姉さんがひとり。ともちゃんはあれこれ悩んでいたが、なぜかあゆむさんが選んだラベンダーの手作りソープを買うことにした。(これは由布院で実際に使ってみた。すべすべでいい匂い。)

時間が来たので由布院へ移動を開始。ところどころドレッシング屋さんへ寄ったり、窯元を冷やかしたりしながら糸島を後に。
う〜ん、糸島っていいね。

さらに旅は続く。
 
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2006年08月23日

終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため

『リンダ リンダ リンダ』山下敦弘

ぼくが高校生の頃ってのは、ちょうどバンドブームだった。X(「X Japan」じゃなくて)やジュンスカ、ジッタリンジン、すかんち、カステラ、たま、人間椅子なんてバンドもあったなあ。

寮生だったぼくらは、毎朝Yっていうバカの流す音楽で目を覚ましていた。寮の一階には小さなカセットプレーヤーがあって、それにマイクをくっつけて大音量で全館に流すわけだ。
さすがに3年の夏休み、Xの「紅」が一週間かかったときにはげんなりした。その次の一週間はDead Or Aliveの「YOU SPIN ME ROUND」。夏期講習どころじゃない。

夏が終わるとすぐに文化祭があった。前夜祭をあわせると3日間ぶっ続けという無茶苦茶さ。女子高生もわらわらくるので力がはいる。
お約束のバンフェスもあった。中等部から高等部まで、たぶん40組くらいは出ていたと思う。つまり朝から晩までやるわけで、PAのひと(彼らはプロ)がタイヘンだったはず。

ちなみにぼくも友だちとバンドを組んで出たのだが、演奏したのはYMO。ぼくらはバンドブームにまったく乗らなかった。(その理由はいろいろあるけれどもここでは書かないでおこう。)
その頃のぼくらは、シカゴ・ハウスのキ○ガイっぷりに熱狂していた。

にも関わらず、ブルーハーツとユニコーンだけはよく聴いた。ぼくだって青臭い時期はあったんだ。

 終わらない歌

終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため
終わらない歌を歌おう 全てのクズ共のために
終わらない歌を歌おう 僕や君や彼等のため
終わらない歌を歌おう 明日には笑えるように

世の中に冷たくされて 一人ポッチで泣いた夜
もうだめだと思うことは 今まで何度でもあった

真実(ホント)の瞬間はいつも 死ぬ程こわいものだから
逃げだしたくなったことは 今まで何度でもあった

終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため
終わらない歌を歌おう 全てのクズ共のために
終わらない歌を歌おう 僕や君や彼等のため
終わらない歌を歌おう 明日には笑えるように

なれあいは好きじゃないから 誤解されてもしょうがない
それでも僕は君のことを いつだって思い出すだろう

終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため
終わらない歌を歌おう 全てのクズ共のために
終わらない歌を歌おう 僕や君や彼等のため
終わらない歌を歌おう 明日には笑えるように

終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため
終わらない歌を歌おう 全てのクズ共のために
終わらない歌を歌おう 一人ポッチで泣いた夜
終わらない歌を歌おう … あつかいされた日々

終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため
終わらない歌を歌おう 全てのクズ共のために
終わらない歌を歌おう 僕や君や彼等のため
終わらない歌を歌おう 明日には笑えるように
こんな歌は、それまで日本にはなかった。真島昌利や甲本ヒロト、奥田民生らの歌詞は別格の輝きを放っていた。いまでも、彼ら彼女らには輝いて聴こえるか。

+ + +

学園祭みたいな、学生たちにとって「特別なイベント」を舞台にした映画って、けっこう多い。
思いつく映画を列挙すると、近作では『スウィング・ガールズ』とか『ウォーターボーイズ』なんてヒット作もあるし、中原俊の『櫻の園』や押井守の劇場第二作『うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー』というシネフィルに受けがいい作品もある。山田洋治の『ダウンタウン・ヒーローズ』も市川準の『BU・SU』もそうだ。これはもう古典か。
あんまり話題にならなかったけど、昨年公開された『リンダ リンダ リンダ』も学園祭を舞台にしている。

この映画、ちょっとぼくの好きな香椎由宇とペ・ドゥナが出ていて楽しみにしていた。監督の山下敦弘がぼくとどうも合わないので心配だったのだけど(『くりぃむレモン』があまりに酷かったので)。
でも杞憂でした。いい映画。

文化祭でブルーハーツを演奏することにした女子高生バンドの顛末を、ごく淡々と撮っている。ドラマチックなことはなにも起こらない。喧嘩をしたり、夜中に学校で練習したり、前彼に優しくされて顔が赤くなったり、どしゃぶりの雨に濡れたり、告白されたり、告白できなかったり。
その淡々とした映像に、ブルーハーツの音楽が寄り添う。

パーランマウム

ペ・ドゥナが、韓国からの交換留学生役で出演している。彼女の好演が、ブルーハーツの歌といっしょにこの映画を支えている。

たとえばペ・ドゥナのこんなシーン。
明日は本番。メンバーは夜中に学校で練習している。彼女は練習を抜け出して誰もいない体育館のステージに立ち、舞台挨拶のリハーサルをやってみる。彼女のMCは、なぜか「ツアー最後のライブ」という設定。誰もいない体育館で、ちょっと妄想気味のメンバー紹介をするペ・ドゥナの姿は、こっぱずかしいけど胸にくる。

高校生の頃って、ものすごい妄想をしていなかったか。
少なくともこんな大人になるなんて想像していなかった。いや、あの頃考えていたことを「妄想」なんて言い捨てちゃいけないな。「こんな大人」の「こんないま」を正当化する言い訳にすぎないじゃないか。

結局、ペ・ドゥナは本番でMCなんてできない。ちょっとうわずった声でバンドの名を言うだけだ。「パーランマウムです」って。(ちなみに「パーランマウム」は韓国語で「青い心」だそうだ。)
そして「リンダ・リンダ」を唄う。その横顔。このとき彼女は前夜の妄想を実現してしまったわけだ!
ぼくも文化祭でコーラを投げられながら「Wild Ambitions」をカバーしたとき、世界を征服した気になった。あの高揚感は、こんな大人になったらもう得られない。

前田亜季がちゃんとドラム叩いていて、関根史織がクールに好演、香椎由宇は相変わらず目ぢからバリバリ。
うん、とてもいい映画だ。

 リンダ リンダ リンダ (2005/日)
 Linda Linda Linda

製作 根岸洋之 / 定井勇二
監督 山下敦弘
脚本 向井康介 / 宮下和雅子 / 山下敦弘
撮影 池内義浩
美術 松尾文子
音楽 ジェイムズ・イハ
出演 ペ・ドゥナ / 前田亜季 / 香椎由宇 / 関根史織 / 三村恭代 / 湯川潮音
   / 山崎優子 / 甲本雅裕 / 松山ケンイチ / 小林且弥 / 小出恵介
   / 三浦誠己 / りりィ / 藤井かほり / 近藤公園 / ピエール瀧 / 山本浩司
   / 山本剛史
『リンダ リンダ リンダ』山下敦弘リンダ リンダ リンダ
山下敦弘

Color, Widescreen, Dolby
バップ
2006-02-22
ASIN: B000CDW8AA
by G-Tools


『we are PARANMAUM』パーランマウムwe are PARANMAUM
パーランマウム

ユニバーサルJ
2005-07-20
ASIN: B0009V1GMQ
by G-Tools

 
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2006年08月21日

内村光良『ピーナッツ』

『ピーナッツ』内村光良

阿蘇から帰ってきたものの、一難去ってまた一難。とほほな毎日だけど、映画はしっかり観た。もちろんDVDで。内村光良監督の『ピーナッツ』。

+ + +

もうずいぶん前に放送終了してしまっているけれども、ぼくは「内村プロデュース」が大好きだった。
なんというか、内村光良を中心とした芸人たちの、よく言えばほのぼのした、悪く言えばぐだぐだの雰囲気と連帯感がとても楽しかった。「芸人の瞬発力」をメインにすえた番組は、いまでこそ「リンカーン」などあるけれども、その草分け的な番組だった。wikipediaの「内村プロデュース」の項に詳しい。

この番組と内村光良の監督した『ピーナッツ』は、直接は企画としてのは関係ないらしい。とはいえ、出演者はほとんど「内村プロデュース」のレギュラー、セミ・レギュラー陣だし、映画の宣伝にも「内村プロデュース」は最大限活用された。この映画は「内村プロデュース」のメモリアルともいえる。

+ + +

で、この映画そのものについて。
間違いなくこの映画は、1年か2年も経てば忘れ去られてしまう映画だ。低予算丸出しだし、演出にも脚本にもひねりがない。ストーリーはどこかで観たような直球勝負。
シネフィルにはたぶん面白みのない映画だろうとは思う。

でも、こういうのも悪くない。アンチ・フォトジェニックな芸人ばかりの映画だし、技術的にどうこうというわけでもない。けど、CGまったくなしの試合のシーンがなんだか懐かしくて、眼で追っていて楽しい。

少し傾いた日差し(たぶん3時くらいの日差しだ)のなかグラウンドを走り回るおっさんたちの姿。いい絵じゃないか。
「溺愛されたいじめられっ子」ふかわりょうが、とても良い扱いを受けていて微笑ましい。

+ + +

内村光良には、北野武のような先鋭的な映画監督としての資質はない。でもこんなベタな脚本を、『ピーナッツ』という映画にまで大事に育て上げた彼のことをうらやましく思う。
ウッチャンって映画が好きだったんだなあ。ほんとに。

ピーナッツ (2005/日)
Peanuts

製作 柵木秀夫 / 長澤一史 / 亀山慶二 / 安永義郎 / 工藤浩之 / 白内寿一
監督 内村光良
脚本 内村光良 / 益子昌一
撮影 谷川創平
美術 津留啓亮
音楽 ロケットマン / 梅堀淳
特撮 稲葉貞則
出演 内村光良 / 三村マサカズ / 大竹一樹 / ゴルゴ松本 / レッド吉田
   / ふかわりょう / 佐藤めぐみ / 飯尾和樹 / 青木忠宏 / 藤重政孝
   / ベンガル / 桜井幸子 / 入江雅人 / 中島ひろ子 / 山内菜々
   / 中島知子 / ローラ・ウィンドラス / 奥貫薫 / 小木茂光
   / 松村雄基 / 高杉亘 / 有田哲平 / 竹中直人 / ウド鈴木 / 原田泰造
   / 出川哲朗
『ピーナッツ(プレミアム・エディション)』内村光良ピーナッツ(プレミアム・エディション)
内村光良

Color, Widescreen, Dolby, DTS Stereo
ジェネオン エンタテインメント
2006-08-04
ASIN: B000FQ5FN6
by G-Tools

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2006年08月16日

風過微聞松葉香

『宋詩概説』吉川幸次郎

『宋詩概説』を読んでいると、南宋末の小詩人、徐キ(じょき、「キ」はタマヘンに幾)の項にこんな詩を見つける。

無數山蝉噪夕陽
高峰影裏坐陰涼
石邊偶看清泉滴
風過微聞松葉香

無数の山の蝉 夕陽に噪(さわ)ぐ
高き峰の影の裏 陰の涼しきに坐す
石の辺(ほとり)に偶(たまた)ま看る清き泉の滴るを
風過ぎて 微かに聞く 松の葉の香り
芭蕉は五山文学にも影響を受けた。五山は蘇軾、黄庭堅らの詩集を多数覆刻した。徐キの詩集が五山版として覆刻されたかどうかはしらないが、芭蕉にはこんな句もある。

松杉をほめてや風のかをる音
これは定家の「頼むかなその名も知らぬ深山木に知る人得たる松と杉とを」を引いたものだが、感覚的には徐キの詩にも近い。

松風の落葉か水の音涼し
こちらの句は『蕉翁句集』にある。
しかし、ここ阿蘇の風景には山頭火のほうがよく似合うか。

松かぜ松かげ寝ころんで
『宋詩概説』吉川幸次郎宋詩概説
吉川幸次郎

体裁=文庫: 332ページ
岩波文庫(岩波書店)
2006-02
ASIN: 4003315235
by G-Tools


『山頭火―草木塔』種田山頭火山頭火―草木塔
種田山頭火

体裁=単行本: 306ページ
日本図書センター
2000-11
ASIN: 4820565516
by G-Tools


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2006年08月15日

阿蘇日記4

夏の日

朝のみまわり  トウモロコシを発見  美味しい水

早起きのあゆむさんは、今日も6時に起床して元気に散歩。
午後からは高森湧水トンネル公園まで出かけることに。

地下から望む

高松湧水トンネル入り口  入り口の刻印に刻まれた謎の数字  トンネルの中の行灯

もともと鉄道用に掘られたものの、あまりの地下水の多さに放棄されたトンネルを公園にしたというところ。入り口からすでにひんやり。たくさんの人出にもびっくりする。
トンネルは数百メートル。内部は飾られた行灯やライティングでそれなりに綺麗。あゆむさんも怖がらず先に進むことができたが、途中こけてしまった。

根子岳を望む

ヤギが好き

帰り道、同じ高森町にある「月廻り公園」へ行く。とても広い公園で、芝生にポニーがいたり、ヤギがいたり、ゴーカートで遊べたり。もちろんあゆむさんはゴーカートにも乗ったし、ポニーやヤギとも遊んだ。
そりを使って草すべりもできるらしいけど、時間の関係でできず。いつか、ともちゃんと一緒に行きたい。

やっぱりヤギが好き  とくにヤギのお尻が好き  走りまくる

柔らかそうだけど硬いヤギの角  ペーターになりたい  ポニーも好き
 
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新しい風に心を洗おう

70年代といえばぼくには「東京」というキーワードが思い浮かぶ。ひょっとすると「TOKIO」といったほうがいいかもしれない。

70年代の東京(=TOKIO)はいまの東京とは違う。意外とインターナショナルな都市だったのではないかとひそかに思っている(80年代はその反動で自閉へ向かう時代だ。)70年代の東京から、はっぴいえんどと細野晴臣は生まれたし、TOKIO的フュージョンを具現したピットインの「格闘技セッション」も生まれた。矢野顕子の『東京は夜の7時』もすぐれて70年代的だ。
つまりぼくにとっての70年代ってのは、70年代後半のことだ。70年代前半のことなんてなんにも知らない。

その70年代の最高にクールなバンドのひとつが「ゴダイゴ」だった。5人のメンバー中2人は外国人。歌はどことなくオリエンタル。だけど楽曲を聞き込めば、複雑なコード進行とアレンジメントの素晴らしさ、それに絶対にぶれないポップネスが絶妙で、いま聴いても十分楽しめる。

なのに、その爆発するポップネス(つまり「わかりやすさ」)が、21世紀になってもクラブ系のアーティストたちには無視されているようで悔しい。そんなにわかりやすくもないと思うんだが。

ま、完全に無視されているというわけでもなくて、トモフスキーがDJセットの中にゴダイゴを仕込んでいるようだし、小沢健二は「銀河鉄道999」を元ネタに使っていたりする。「愛し愛されて生きるのさ」だ。2曲を聴き比べてみたら楽しいかも。

ゴダイゴ
ゴダイゴ

The Galaxy Express 999

さあ行くんだ その顔を上げて 
新しい風に心を洗おう
旧い夢はおいてゆくがいい 
ふたたび始まるドラマのために
あの人はもう思い出だけど 
君を遠くで見つめている
 
The Galaxy Express 999 
will take you on a journey
a never ending journey 
a journey to the star

そうさ 君は気付いてしまった 
安らぎよりも素晴らしいものに
地平線に見える瞳には 
いつしか眩しい男の光
あの人の眼が頷いていたよ 
別れも愛の一つだと 

The Galaxy Express 999 
will take you on a journey
a never ending journey 
a journey to the star

小沢健二
小沢健二

 愛し愛されて生きるのさ

通り雨がコンクリートを 染めてゆくのさ
僕らの心の中へも 染みこむようさ
この通りの向こう側 水を跳ねて誰か走る

夕方に簡単に 雨が上がったその後で
お茶でも飲みに行こう なんて電話をかけて
駅からの道を行く 君の住む部屋へと急ぐ

いつだって可笑しいほど 誰もが誰か愛し愛されて生きるのさ
それだけがただ僕らを悩めるときにも 未来の世界へ連れてく

何にも見えない夜空 仰向けで見てた
そっと手を伸ばせば 僕らは手をつなげたさ
けどそんな時は過ぎて 大人になり随分経つ

ふて腐れてばかりの十代を過ぎ 分別もついて年をとり
夢から夢へといつも覚めぬまま 僕らは未来の世界へ駆けてく

月が輝く夜空が 待ってる夕べさ
突然ほんのちょっと 誰かに会いたくなるのさ
そんな言い訳を用意して 君の住む部屋へと急ぐ

十年前の僕は胸を傷めて いとしのエリーなんて聴いてた
ふぞろいな心はまだ今でも 僕等をやるせなく悩ませるのさ

眩しげにじっと 彼女はまつげを伏せて
ほんのちょっと 息をきらして走って降りてくる
大きな川を渡る 橋が見える場所を歩く

いつだって可笑しいほど 誰もが誰か愛し愛されて生きるのさ
それだけがただ僕らを悩めるときにも 未来の世界へ連れてく

月が輝く夜空が 待ってる夕べさ
突然ほんのちょっと 誰かに会いたくなるのさ
そんな言い訳を用意して 君の住む部屋へと急ぐ
「The Galaxy Express 999」は旅立ちの歌、「愛し愛されて生きるのさ」はラブラブな恋の歌。
15年でこんなに変わるもんなんだねえ・・・

『ゴダイゴ・グレイテスト・ベスト1 〜日本語バージョン』ゴダイゴゴダイゴ・グレイテスト・ベスト1 〜日本語バージョン
ゴダイゴ

コロムビアミュージックエンタテインメント
1994-05-21
ASIN: B00005ELZG
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『ゴダイゴ・グレイテスト・ベスト2 〜英語ヴァージョン』ゴダイゴゴダイゴ・グレイテスト・ベスト2 〜英語ヴァージョン
ゴダイゴ

コロムビアミュージックエンタテインメント
1994-05-21
ASIN: B00005ELZH
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『LIFE』小沢健二LIFE
小沢健二

東芝EMI
1994-08-31
ASIN: B00005GLJB
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2006年08月14日

夏の日の蘇軾

吉川幸次郎先生の『宋詩概説』を読んでいる。ずいぶんひさしぶりの吉川先生の本だ。
一時期よく読んでいたものの、青木正児先生のすさまじい学殖に触れて離れてしまった。いま読み返してみると、肩の力を抜いて読めるし、だからといって味が薄いわけでもない。文体には噛み応えがあるし、学問をすることの楽しみが充溢している。こういう文章を時折読むのは大事なことだ。

「枯木怪石図」蘇軾
「枯木怪石図」蘇軾

+ + +

宋代に書かれた詩はとにかく数が多い。『全唐詩』は四万首強を収載しているが、現在北京大学で刊行中の『全宋詩』は数十万首を収めることになる思われる。
たしかに宋代の詩人たちは、官僚でもあった。詩作が官僚の必要条件であったといってもいい。だからといって単に詩人の数が多かった、というわけではないのだ。たとえば杜甫の千五百首、李白の千首と比べても、陸游九千二百首、楊万里三千首強、蘇軾二千四百首というのは多いではないか。

また詩の内容も唐詩と宋詩ではずいぶん違う。
唐詩の基調は「悲哀」である。オーバーなほどに嘆き悲しみ、それを題材とする。しかし、宋詩は悲哀に固執しない。南宋に時代が移ると、唐詩(とくに杜甫)に回帰する傾向は見られるが、北宋を代表する蘇軾も南宋を代表する陸游も、悲哀が人生に偏在していることを説く。これを吉川先生は「巨視の哲学」という。

具体的に「巨視の哲学」とはなにか。先生は蘇軾の五言古詩をひいてこう書く。

 我少即難多
 テン(*1)回一生中
 百年不易満
 寸寸彎強弓
 老矣復何言
 栄辱今両空
 泥ハン(*2)尚一路
 所向餘皆窮

 我れは少(わか)きより即ち難(なや)み多く
 一生の中(うち)にテン回す
 百年は満たすに易(やす)からず
 寸寸(すんすん)に強弓(ごうきゅう)を彎(ひ)く
 老いたり復(ま)た何をか言わん
 栄(は)えも辱しめも今は両(とも)に空(むな)し
 泥ハン(ねはん)は尚(な)お一路
 向う所 余(あと)は皆な窮す

「テン回」はうろうろ。人生百年は、満たしやすくない長い道程というのは、人生の長さをもっとも明瞭にいう言葉である。その長い時間を一寸一寸と強い弓をひくごとく生きているというのは、もっとも明瞭に抵抗の哲学である。泥ハンはネハン、死。それ以外は「向かう所」皆「窮」ふくろ小路であると、言葉をついでいうのは、弱気の語のごとくであるけれども、詩のあとの方には、ふたたび次のごとき言葉がある。

 離別何足道
 我生豈有終

 離別は何んぞ道(い)うに足らんや
 我が生の豈(あ)に終り有らんや

こんどの離別など問題にならない、離別はまだいくらもあろう。わが一生はまだ終りそうにないから。

 (*1:シンニョウに亶)
 (*1:サンズイに亘)
「行書李白仙詩巻」蘇軾
「行書李白仙詩巻」蘇軾

「巨視の哲学」は、「人生は長い」という感覚と結びついている。唐詩における悲哀は、短い人生における大きな不運を嘆くものだった。短い人生の中の不運だからこそ、その悲哀は正当化されるのだ。しかし蘇軾は人生は長いと言い切る。「我生豈有終」と。

吉川先生は、これを中国詩史の一大転換点だったと考える。単なる詩想の変化ではなく、思想の転換であった。蘇軾は左遷されても、投獄されても、泣き言を言わない。読者によっては冷たさを感じるかもしれないが、実はそうではなく、悲哀に没入することなく、あるいは悲哀を跳ね返し、運命にあがらうことそのものを詩と考えた。抵抗する主体のつぶやきが詩なのだ。

つぶやきであるから、題材は当然微小なものとなっていく。蘇軾の後輩にあたる黄庭堅などは、自身の飼った猫について、あるいは町をめぐるぼさぼさ頭の散髪屋のじいさんを題とする。唐の大詩人たちが決してとりあげなかった題材である。人間はそれと比較されない。人間はそれと比べて大きくもなく小さくもない。同じ程度のものとしてある。ここでも悲哀は必然的に抑制される。

+ + +

「人生は長い」。そう言い切ることは現代ではとても難しい。だってぼくも30代のなかばに近づきつつある。
しかし蘇軾はそんなことは関係なく、懸命に官職に励み、ときには東坡肉(トンポーロー。蘇軾は号を東坡居士といい、彼の酒食に関する伝説は多い)と酒を愉しんだにちがいないんだ。

こんな田舎で、夏の日に、吉川先生の本を読んでいると「先生、たしかに人生は長いですね」と肯いてみたくなるじゃないか。

4003315235宋詩概説
吉川幸次郎

体裁=文庫: 332ページ
岩波文庫(岩波書店)
2006-02
ASIN: 4003315235
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阿蘇日記3

牛乳寒天とナタデココ

相変わらずあゆむさんは早起き。6時過ぎには起床しておもちゃで遊んでいる。午前中はあゆむさんはプール。ぼくらは帰省してきたたかちゃんの車を洗う手伝いなど。

朝発見した向日葵  今朝も7時にお散歩  空

午後は池山水源へ。水がきれいで風は涼しい。あー夏休み。

池山水源の水

岩魚の塩焼き

池山水源の石橋  あゆむさん  木の肌

いーちゃんとあゆむさん

池山水源は、全国名水百選に選ばれている。飲んでみるとほんのり甘い口当たり。看板にはこうある。

古来、この地域の人々は、この豊富な水を利用して水田を拓き、先祖代々、悠々と生活を営んできました。いかなる渇水の年にも枯れることのない「泉」に心から感謝し、この泉に水神様をまつりました。今でも毎年8月5日を祭日として池やその周辺を清掃して清め、老若男女を問わずお祭りが受け継がれています。その昔、池を清掃している時に、池底から忽然と一体の水神様が掘り出されました。これは約220年ほど昔に、この池を襲った大水害の際に、数戸の家屋と共に流れ出し、姿を消した水神様でした。その後、新たに水神様をまつってあったため、今、まさに二体の神が守る「泉」となりました。
水を汲む  帰り道  産山村のアイスは劇ウマでした。

柴犬大好き
 
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2006年08月13日

阿蘇日記2

プールではしゃぐ

朝6時前には起床  7時にお散歩  お墓参りに行く

スイカ  スイカを食べる  夏の道

プールを準備する  水着もいらない  温泉に行ったら牛乳を飲む

あゆむさんは休日になるとはた迷惑に早起きになる。今日は6時前には起床している。たまったもんではないです。

あゆむさんの一日はシンプル。
起床→遊ぶ→朝ごはん→遊ぶ→昼ごはん→遊ぶ→昼寝→遊ぶ→夕ごはん→温泉→就寝
本能そのものな生活だということに今日気づきました。

お部屋の中でも遊ぶ
posted by Dr.DubWise at 20:47| Comment(2) | TrackBack(0) | day | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

映画と駅と

パリ東駅
パリ東駅

映画の中における駅の役割。
リュミエール兄弟がラ・シオタ駅の様子を撮影して以来、駅は映画の中で特殊な役割を担ってきた。物語の契機としての駅、まさに物語の「終点」としての駅、重要な転換点としてあるいは通過点としての駅。
映画の中のトポスとして、駅と空港に役割や質の差はあるんだろうか。

そんなことを考えながら『映画の中で出逢う「駅」』を読んでも、正直期待はずれかもしれない。この本は映画批評の本ではない。ただひたすら、著者の好きな映画に出てくる駅を列挙し書き連ねていくスタイル。愛を感じるねえ。映画オタクというよりも、鉄道オタクの本? とか思っていたら著者の臼井幸彦氏はJR北海道の常務取締役でした。納得。

パリ北駅
パリ北駅

『アメリ』についてこんな記述。なるほど、これは気づかなかった。

特に『アメリ』は北駅のトレイン・シェッドの軽快な美しさを見事に伝えている。ユーロスター開業時に新設された、駅舎側の二階デッキからの眺めはまさに圧巻である。モンマルトルのカフェで働いて週末にはいつもこの北駅から列車で戻るアメリが羨ましくなる。
『アメリ』では北駅だけではなく、東駅と地下鉄アベス駅もアメリとニノの恋の舞台として頻繁に登場する。最初の出会いは地下鉄アベス駅、そして二度目に出会うのがこの北駅。さらに二人の恋がコミカルに展開していくのが東駅だ。
ところが『アメリ』では、この北駅の駅舎外観を東駅として使っている。イオニア式オーダーの上部にある駅名表示サイン「NORD」もわざわざ「EST」に書き換えている。さらに北駅の内部も東駅として使い、空間を構成する鉄骨リブを消去し、石造り風に修整するなど、CGが縦横に駆使されている。しかし一方で、東駅の外観を飾る美しい薔薇窓の内側はそのまま東駅の内部として使っている。
結局、映画の中では恋の舞台は東駅で、東駅の映像には、北駅と東駅を合成していることになる。こうして監督ジュネはアメリとニノの恋の舞台にふさわしい駅を新たにデザインしているのだろう。
『映画の中で出逢う「駅」』臼井幸彦映画の中で出逢う「駅」
臼井幸彦

体裁=新書: 236ページ
集英社
2006-05
ASIN: 4087203417
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アベス駅
アベス駅
 
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2006年08月12日

阿蘇日記1

カエルがおった

阿蘇にあゆむさんと来ました。今夏の帰省はふたりでした。
ともちゃんは仕事で来れません。

高速バスに乗って移動  バギーを乗り回す  さらに乗り回す

花がきれい

ともちゃんへ業務連絡。あゆむさんはこんな風に元気です。

プールに入る  はしゃぎまくる  テレビを見る

こんなところにも
posted by Dr.DubWise at 21:08| Comment(2) | TrackBack(0) | day | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月07日

いまそこで何が起こっているか?

聖地ってのはエルサレムだのメッカだのベナラスだのホピのメサだのだけじゃない。
サンフランシスコも、パリも、マンチェスターも、ベルリンも、シカゴも、東京も、京都も、みな聖地だ。とりわけ廃墟都市デトロイトはもっとも神聖な地だ。

だってデトロイトがなければ、「モータウン」っていうソウルの神様がいっぱいいるレーベルはなかったし、いまのようなハウスもテクノも生まれなかっただろう。ベルリンの「ラヴ・パレード」もイギリスの「セカンド・サマー・オブ・ラブ」ムーヴメントもなかっただろう。

で、いまそこで何が起こっているか?

いま彼の地のクラブシーンでは、叙情的で純粋なデトロイトテクノよりも、アシッドエレクトロの強靭なファンクビートにラガとかガバとかヒップホップとかのフレイバーをシェイクしたゲットーテクノが、ここ数年流行っている。日本ではいまいちその暑苦しさが受けいれられてないみたいだけれども。

だけどひそかに、デトロイトの夜の中で音楽の革新を行っているシンジケートがある。MoodymannことKenny Dixon Jr.と、彼の主宰するレーベル「Mahogani Music」、その盟友Theo Parrishだ。

Moodymann
Moodymann

ハウスやテクノをベースにしたダンスミュージックだけれども、彼らの12インチ群は決してカタルシスが得られるような音楽ではない。ひたすらねちっこく踊るために作られた音楽だ。

しばしば彼らの音楽には「漆黒」という形容詞がついてくるけれども、この形容はほんとうにしっくりくる。日の当たらないところ、たとえば地下室のクラブのなかのファンクネス。汗と煙草と酒の臭い。猥雑でスモーキーで肉感的な音楽。唾液と精液とむせ返るような香水の香りとともにある、ぼくらの夜の音楽。

+ + +

Moodymannの黒さは途方もない。はじめて「Planet E」からリリースされた『Silent Intoroduction』を聴いたのは、ほぼ10年前だけれども、どう評価すればいいのかわからなかった。何度も何度も聴いているうちに、ミニマルとは違った原理が背後にある、どす黒いビートの反復にしっかり中毒しちまったのだった。

『Silent Introduction』MoodymannSilent Introduction
Moodymann

Planet E
1997-11-18
ASIN: B000001RQQ
by G-Tools


彼の近作を2枚。とくに『Black Mahogani 2』は4曲しか入っていなくて、「When She Reprise」なんて18分もの大作なんだけれども、ヤバイ。これがジャズでなければなんなんだ。
ちなみに「スウィング・ジャーナル」がMoodymannを取り上げたことはない。(あるわきゃないか。)

『Black Mahogani』MoodymannBlack Mahogani
Moodymann

Peacefrog
2004-07-13
ASIN: B000171RQ8
by G-Tools


『Black Mahogani 2』MoodymannBlack Mahogani 2
Moodymann

Peacefrog
2004-10-04
ASIN: B0001ZMX0E
by G-Tools


Amp Fiddler
Amp Fiddler

「Mahogani Music」からリリースされている12インチ群はどれもハズレがない。じゅうぶんホームリスニングに耐えうる。

とくにAmp Fiddler周辺は熱い。「Amp Dog Knight」名義の『Over U』は傑作。ちなみに彼自身新作アルバムがリリース間近らしい。楽しみ。
Kai Alceはアトランタ在住のアーティスト。寡作ながら、ダビー&ファンキーな真っ黒いジャズチューンをリリースしている。ブレイクしないか楽しみにしているアーティスト。
Randolphは、Mahogani Crewのなかでも古株のギタリスト兼ボーカリスト。Moodymannのアルバムにも参加している。自身のアルバムもあり。セクシーな声がいかにもMoodymann好みだ。
(ちなみにMahogani Crewは、Moodymannも含めて、変名でのプロジェクトを多く持っているので要注意。)

『Mahogani Music Compilation』V.A.Mahogani Music Compilation
V.A.

Mahogani Music

2005/09/13



『M7』Kai AlceM7
Kai Alce

Mahogani Music

2004/01/07



『Over U』Amp Dog KnightOver U
Amp Dog Knight

Mahogani Music

2005/07/23



『This Is...What It Is』RandolphThis Is...What It Is
Randolph

Mahogani Music
2005/07/15



Theo Parrish
Theo Parrish

さて、Theo Parrish。
「レコード番長」こと須永辰緒の素晴らしいコンピレーション『夜ジャズ』シリーズにも収録されているTheo Parrishは、もうテクノとかハウスとかいう文脈で語っちゃダメだと思う。なんで「スウィング・ジャーナル」誌が取り上げないのか不思議でならない。そりゃあエレクトリック・ミュージックではあるけどさ。

Moodymannに比べるとハウスやテクノに寄った音作りをしている。どちらかといえば変態的(アシッド的)なアプローチの曲が多いけれども、「You Forgot」なんて名曲でしょう。たしか須永辰緒が一時期よくかけていたはず。

Theo ParrishはMoodymannらと「3 Chairs」というユニットを組んでいる。これが素晴らしい。日本ではほとんど評価されなかったけれども。ザラついた質感、粘着質なベース音(これがMoodymannのソロ作とはまた違った質感でよい)。

『Parallel Dimensions』Theo ParrishParallel Dimensions
Theo Parrish

Ubiquity
2004-05-18
ASIN: B0001VJ7LQ
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『Capritarius #7』Theo ParrishCapritarius #7
Theo Parrish

Sound Signature
2005/08/12



『You Forgot』Theo ParrishYou Forgot
Theo Parrish

Sound Signature
2006/02/08



『3 Chairs』3 Chairs3 Chairs
3 Chairs

3 Chairs
2004/08/21


「漆黒の音」を、今夜みたいなアンニュイな夜に聴いていると、なんだかコスミックに聴こえてくるから不思議だ。オリジネーターたちのキラキラ輝くようなコスミックソウルも素晴らしいけれども、Mahogani Crewのこの内省的でしかも肉感的な音もまたデトロイトだ。
 
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2006年08月06日

後悔について

夜のともちゃん

「絶対後悔しない○○」なんてタイトルの本、山のように出版されていますね。たとえばamazonで「後悔」というワードで検索すると以下のような本が引っかかってきます。

『絶対に後悔しない一戸建て選び』
『あう入れ歯あわない入れ歯ここが違う!―入れてから後悔しないために』
『後悔しない中学受験』
『後悔しないためのハッピーリタイア計画の作り方』
『間違いだらけの美容外科選び―後悔しない病院のかかり方』
『どう生きるか、自分の人生!―今日を後悔しない生き方』 などなど。

でもね。よく考えて欲しいんだけど、ぼくらはこうしたいと考え、その考えに基づいて行動するわけで、それを後悔するってのはなにかヘンじゃないだろうか。

たとえば、考えに考えた末、電力相場に投資をした人がいるとします。ところが今年は気象庁も予想していなかったひどい冷夏で、夏の電力相場は大暴落、大損をしてしまった。ああ、1ヶ月待って投資すれば1000万の損害は発生しなかったのに。

このひとは相場に投資をするときには、これが利殖として最善だったから投資したのです。にもかかわらず、後悔している。いま彼は「そのときそうしないこともできたはずだ」と信じているからです。

そう、後悔は「そのとき自由があった」と信じているからそう考えることもできるのです。しかもつねにそれは「そうしないこともできたはずだ」という信念に支えられています。その信念になにか論理的な裏づけがあるわけではありません。なんら論理的な支えがなく存在していることを哲学では「根源的である」といいます。つまり後悔という心理状態はヒトの根源に触れているわけです。

+ + +

ヒトは本当に自由なんでしょうか。
ぼくはいろんな自由論を読んできましたが、やはりいちばん適切な自由論は、存在論から力技で推量していく形而上学からではなく、「後悔」のような根源としてのヒトの心理の分析から演繹されるべきじゃないかと考えています。が、それはさておき・・・

+ + +

ぼくらが自身の自由を強く感じるのは、実は後悔においてでしかない。後悔においてその強度が(ネガティブなかたちで)最高点に達するのじゃないかなあ。

大自然の中で、たとえばサハラ砂漠の真中で、グランドキャニオンで、仁王立ちになって「オレは自由だ〜っ」と深く実感する。こんなイメージ、クソッタレな拝金音楽のPVにありがちですけど、それは何もすることがない自由(つまり不自由)であって、あらゆる選択肢が存在しそれを把握しそれを遂行しうる自由ではありません。

ま、後悔といってもいろいろで、たとえば日が経つにつれて忘れ去られて二度と心に浮かび上がってこない後悔もあれば、精神分析医とのセッションで顕在化してしまう激しい後悔もある。後悔ってのは、いまにおける過去の解釈で、そこに自由の「可能性」が生まれる(カッコでくくったのは、過去の可能性なんて信念でしかないから)。いま自由であるかどうか、いまぼくらには確かめようもない。

んん? いまぼくが自由かどうか確かめようがない??
そう、奇妙なことだけれどそうとしかいいようがない。もっと酷いことを書けば、ぼくらは後悔を通して自由を捏造しているのかもしれない。

+ + +

「そうしないこともできたはずだ」と後悔したとしても、それを修正することは不能であり、それは重々承知していながらも後悔はやむことがない。しかもよくよく考えてみたら、「そうしないこともできたはずだ」なんて仮定そのものが無効であるというのに。
後悔が現にあるということは、悲しみだけが純粋に存在することはできないということです。

だとしても、人間は後悔を捨てることはない。なぜなら、後悔を通して人間は、過去を解釈し未来を作ろうとするからです。老人になっても後悔と無縁ではいられないところを考えると、常に未来作りは失敗してしまうということでしょうか。すくなくとも、それが後悔の無意味さを証し立てているわけでもないように思います。後悔は未来を作る糧になる、これもまた信念です。
 
タグ:後悔
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世界の終わりのふたり

世界の終わりのふたり

戦争や自然災害、種としての寿命が尽きかけ、人類は滅びに瀕している未来。
「他者」に蝕まれた主人公の男の子イクルは、じき自分が死ぬことを知っている。彼は「あい」という女の子と、海辺の大きな屋根の一軒家に住んでいる。

あいは「愛人(ai-ren)」。終末期の患者を精神的にケアするためにあてがわれる擬似配偶者。もともとは売春やテロの自爆要員として造られた「本来存在してはならない」人造遺伝子人間で、過去の記憶はインプリンティングされたケミカル人格で隠蔽されている。「愛人(ai-ren)」はその「用途」上長く生きることはできない。せいぜい数ヶ月の命だ。あくまでイクルのために生きるお人形さんのような存在だ。

だけど、イクルはあいを愛している。あいもイクルを愛している。この物語で描かれているのは、ふたりの、静かで、心が痛む生活。お互い死に直面しながら、一生懸命相手を思いやる生活は、とても美しい。

+ + +

このコミックを最初に読んだのはもう数年前のことだ。連載開始は1999年、終了が2002年だったと思う。掲載されていた「ヤングアニマル」(『ベルセルク』も連載されている)を、毎号ずっと読んでいたのを憶えている。

連載を楽しみにしていたわけじゃない。
とても「漫画向け」には思えない重いテーマと異様な緊迫感が気になって、目を離せなかったというのが正しい。作者が押しつぶされるんじゃないかと思っていた。
現に連載終了後、2年も経ってようやくコミックスの最終巻が発表されたのだ。作者の田中ユタカ氏は、最終巻の加筆や修正(重大な結末の変更)に相当悩んだらしい。(作者のHPに当時の日記のログがあるけれども、その緊張感もかなりなものだ。)

世界はひとごろしの夢でできている

世界が死にたえようと
あなたが死んでしまおうと
わたしが死んでしまおうと
そんなのたいしたことじゃない
そんなのたいしたことじゃない

憶えておきなさい
この宇宙が・・・世界が
あなたの存在など 望むことはないわ
これまでも これからも
絶対にない
たとえば、こういう台詞が随所に出てくる。この諦観は台詞だけのものじゃない。
まず、あいは「愛人(ai-ren)」としての寿命が尽きて、イクルを残して死んでしまう。そのシーンのせつなさ。

あいの死後イクルは、戦災孤児や病気の子どもたちを世話をする仕事をしながら暮らすが、病気の進行で腕を失い失明する。
一方、世界は「名前のない者たち」とよばれるテロリスト集団が撒き散らした人造ウイルス(「呪い」と名づけられている)によって、決定的に破滅への道を歩みはじめる。核兵器が炸裂し、難民同士が殺戮を始め、世界各地で紛争が起こり始める。イクルも最後は「呪い」のパニックによって引き起こされた戦闘で、無残に殺される。

雑誌連載時の結末でもイクルは戦闘で殺されるのだが、イクルの「他者」に蝕まれた遺体から「呪い」を無効化する物質が生まれるという一種のハッピーエンド(とてもやるせないが)だった。
しかし、その2年後発表されたコミックの最終巻ではこの結末は破棄される。「呪い」に蝕まれた人類にはなんの救いも用意されない。作者の覚悟がどれほどのものだったかわかる。

あい

いまカシュカシャンがECMで録音した『ラクリメ』を聴いている。表題作はベンジャミン・ブリテン、他の2曲はヒンデミットとペンデレツキの作品。お世辞にも明るい音楽ではないが、カシュカシャンのヴィオラは映像的で心を打つ。
考えてみると、ブリテンもヒンデミットもペンデレツキも、みな第二次世界大戦と深い関係を持つ作曲家だ。

こんな眠れない日に音楽を聴きながら読み直していると、この作品ほど「絶望」を描こうと努力した漫画ってないような気がする。もし比較できる作品があるとするなら高橋しんの『最終兵器彼女』だろうけれども、『愛人(ai-ren)』に比べたら『最終兵器彼女』のラストなんて甘くて読めたもんではない。

+ + +

コミック最終巻「#42ヨシズミ・イクル」には、イクルの死のイメージが描かれている。瓦礫の中に体半分が埋もれ、義手とサングラスが外れている。近くには彼が使っていたらしい車椅子の残骸。失明した目が薄く開かれ雨に打たれている。ずっと物語を追っていた読者にはとても残酷なシーン。

このエピソードは分量の半分以上がテキストのみという、漫画としては破格な構成だ。テキスト部分のほとんどはイクルの独白だが、そこで彼の見た最後の光景が唐突に挿入される。それは青空だ。

+ + +

イクルは、最後まで信仰だのオカルティックな妄想だのに逃げようとしない。そこがこの作品のすごいところじゃないか。『最終兵器彼女』さえ、わけのわからない、ノアの箱舟を連想させる超自然的な力で物語をまとめてしまった。おそらく読者にとっても、超自然的な力で目の前の悲惨を清算するほうが「分かりやすい」のだ。
たしかに『愛人(ai-ren)』も雑誌連載時のラストには、そういう「神秘の力」を導入して、イクルやあいの悲惨を清算させた。だが作者は、コミック化に際して超自然的な「神秘の力」の介入を否定する、より厳しい道を選択した。なぜだろうか?

それは「現実的」ではないからだ。
『愛人(ai-ren)』連載時期に911同時多発テロとアフガニスタン侵攻、連載終了後コミック化のために作者が加筆修正を行っていた時期にはイラク戦争がおきている。
そんななか、『愛人(ai-ren)』の世界に現実の世界がリンクをはじめていく「実感」が、作者にあったのではないか。それは「実感」であって、なにか理論や言説に裏づけされたものではない。自分の身の回りにたくさんある(はずの)ありふれた恋や幸福に接している、とほうもなくまがまがしいものに直接触れるような経験を、この作品を描くことを通じて作者がしてしまったのではないか。
ぼくはそう思う。

+ + +

イクルの死のエピソードのあと、物語最後のエピソードに続くわけだが、その間にあいの描いていた絵日記が挿入されている。
ぼくは、ほろっときてしまう。

イクル・・・

もしも あなたの 人生の結論が
痛くて 苦しくて 血だらけで
ひとりぼっちだったとしても
こわくはありません
だいじょうぶです。

あたしが かならず
ここで 待っています
どんなことになっても
あなたの愛人(アイレン)が
ここで待っています

「おかえりなさい」って 言います

だから
だいじょうぶです。
+ + +

あいは幽霊を(つまり「死後の世界」や「来世」を)信じていたが、イクルは信じていなかった。信じたかったができなかった、というのが正しいだろう。
イクルとあいを最後まで見守ったハルカという重要な登場人物が最終章の語り手となる。彼女も来世を信じてはいないが、空想する。海辺の大きな屋根の一軒家にイクルが帰る様子、あいがイクルを笑顔で迎える様子、ふたりが幸せに暮らす様子。

イクルとあいがそこに行き着いたかどうかわからない。
だけど、この結末は、素直に好きだ。

『愛人 -AI・REN-』田中ユタカ愛人 -AI・REN-
田中ユタカ

体裁=コミック
白泉社
1999-11
ASIN: 459213351X
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『愛人 -AI・REN- (2)』田中ユタカ愛人 -AI・REN- (2)
田中ユタカ

体裁=コミック
白泉社
2000-08
ASIN: 4592133528
by G-Tools


『愛人 -AI・REN- (3)』田中ユタカ愛人 -AI・REN- (3)
田中ユタカ

体裁=コミック
白泉社
2001-06
ASIN: 4592133536
by G-Tools


『愛人 -AI・REN- (4)』田中ユタカ愛人 -AI・REN- (4)
田中ユタカ

体裁=コミック
白泉社
2001-12
ASIN: 4592133544
by G-Tools


『愛人 -AI・REN- (5)』田中ユタカ愛人 -AI・REN- (5)
田中ユタカ

体裁=コミック
白泉社
2004-09-29
ASIN: 4592133552
by G-Tools


『Benjamin Britten:Lachrymae』Kim KashkashianBenjamin Britten:Lachrymae
Kim Kashkashian

ECM

2000-4-18
ASIN: B000025HI7
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灯篭ギャラリー

灯篭がならんだ夏祭り

夕方、スーパーへ買い物に行く途中、夏祭りのポスターが貼ってあるのを発見。焼きそばを家で食べた後、出かけることにする。

いかにも町内の夏祭りって感じで、テキ屋さんも何軒か。ラムネを飲んだりボンボンを釣ったりする。
平井堅の「ポップスター」をバックに盆踊りをしたり、なんかヘンだけどほのぼのな感じのお祭り。

子どもたちの手作りの灯篭がなかなか素敵。子どもたちのダイナミックな絵に、灯篭を覗き込んではともちゃんと感心した。素晴らしい。

テキ屋さんの前でははしゃぐふたり  ぼくは綿菓子は苦手だけど  ならんだ灯篭

一年生は切り絵です  カマキリ  なんだこりゃ

かぶとむし  花火  うちわ(添えられた詩が、また味わい深い)
 
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2006年08月05日

『ロスト・イン・トランスレーション』

ビル・マーレイもいい演技をしている

残念なことにソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』は失敗作だと断言したい。たしかに器用にできてはいる。『ヴァージン・スーサイズ』よりはかなりいい。だけど「映画」としては失敗作だ。なぜぼくはこの脚本でアカデミー脚本賞が獲れたのか、いまでも不思議でならない。

しかし、ソフィア・コッポラがフランシス・フォード・コッポラの娘で、『ゴッドファーザー3』でひどい大根だったからといって「小娘」よばわりするのは不当だ。
この作品は「映画」という総体としては明らかに失敗作でありながら、作品中の東京は、なぜかこんなにも輝いている。

日本人にこの絵は撮れない。撮れたことがない。その理由を考えたほうがより建設的じゃないか?

オープニングはヨハンソンのお尻

ソフィア・コッポラは明らかに日本を誤解しているが、「ただ撮った」背景の東京の光景は、あまりにも表層的で切なくて、観る者の琴線を刺激する。

ふたりの主人公、つまりスカーレット・ヨハンソン演じるシャーロットとビル・マーレイ演じるハリスの関係や、異邦での孤独あるいはエグザイル、翻訳の不可能性、男女のディスコミュニケーションなど、「Lost in Translation」にひっかけて謎を解いても底の浅さは否めない。この物語には謎が決定的に欠けている。同様に、東京にも謎はない。

謎がないこと。このせつなさ。

異邦

ぼくはホテルの中のドラマにほとんど興味がわかない。この映画に描かれる東京を凝視する。
藤原ヒロシやヒロミックスがちらっと映るスノッブなパーティ、深夜のカラオケ、ホテルの窓から見下ろす東京の街並み、ネオンの点滅。

ここでぼくが考えているのは、当然ヴェンダースの『東京画』なわけだ。ヴェンダースは「小津安二郎の『東京物語』の東京」を探すためにヴィデオ・カメラを抱えて日本に来る。しかし、そんなものはもうどこにもない。『東京画』はたしか1985年の映画で、すでに小津が死んで20年も経っているから当たり前かもしれない。ヴェンダースは失望しながらカメラを回し続ける。

ところが、その東京はやけに美しい。パチンコ屋やカプセルホテルをヴェンダースは「ただ撮る」。そこに妙な叙情が生まれてくるのは、そこに謎がないからではないか。

ヴェンダースにとって大切だった「東京」(『東京物語』の東京)は失われた。その空白を埋めた世界は、謎のない世界。物語が常に空回りをしてしまう、表層しかない世界。

逆説的ではあるが、謎がないことこそ謎めいている。ぼくが「妙な叙情」と書いたのはそういうわけだ。

バーにて

キラキラしていてツルツルしている、表層の都市。(その都市の代表が、ひょっとしたらマシュー南なのかもしれない。)
そこで異邦の感覚に浸ろうが、ディスコミュニケーションを嘆こうが、なにもかも横滑りして、ちゃちな言い方をしてしまうなら「記号に呑み込まれてしまう」だろう。

現にベルナルド・ベルトルッチは、同様のテーマをモロッコで撮った。『シェルタリング・スカイ』だ。ベルトルッチは東京には絶対に近づかない。東京は物語を無効にするからだ。
(坂本龍一に劇中の音楽について「もっと甘く、もっと甘く、もっと、もっと」と注文をつけていた監督が東京にくるはずないじゃないか。)

東京のスカーレット・ヨハンソン

スカーレット・ヨハンソンがとても可愛らしい。日本人に、とくに男に好かれる女優さんだろうと思う。が、意外なことに海外男性誌でも「世界でもっともセクシーな女性」第一位に選ばれてる。たしかに最近のヨハンソンは顔が変わった気がする。胸も大きくなったような気がするし。気のせい??(ウディ・アレンの近作『マッチ・ポイント』のスチールを見ると、ヨハンソンは胸かなり大きいですね。)

ビル・マーレイもいい。老練な役者だと思う。落ちぶれ役がとても似合う俳優です。
異国で戸惑う、落ちぶれた俳優の眼。夜、日本人の髭の若者と会話しているときの彼の眼の自然な輝き。
物語なんてどうでもいいと言いつつ、やっぱりこういう刹那の俳優の表情が目に焼きつくのは、この映画が失敗作であるにしても「いい映画」ではあるからだ。

ロスト・イン・トランスレーション (2003/米=日)
Lost in Translation

製作総指揮 フランシス・フォード・コッポラ / フレッド・ルース
製作 ソフィア・コッポラ / ロス・カッツ
監督 ソフィア・コッポラ
脚本 ソフィア・コッポラ
撮影 ランス・アコード
美術 K・K・バレット / アン・ロス
衣装 ナンシー・スタイナー
出演 ビル・マーレイ / スカーレット・ヨハンソン / ジョヴァンニ・リビージ
   / アンナ・ファリス / 林文浩
『ロスト・イン・トランスレーション』ソフィア・コッポラロスト・イン・トランスレーション
ソフィア・コッポラ

東北新社
2004-12-03
Color, Widescreen, Dolby, DTS Stereo
ASIN: B0000YTR5K
by G-Tools


『ロスト・イン・トランスレーション オリジナル・サウンドトラック』V.A.ロスト・イン・トランスレーション オリジナル・サウンドトラック
V.A.

V2レコーズジャパン

コロムビアミュージックエンタテインメント
2003-10-16
ASIN: B0000AFOQT
by G-Tools

 
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2006年08月04日

『妹の恋人』

Benny & Joon

『パイレーツ・オブ・カリビアン2』が公開されて、ジョニー・デップ旋風が周囲にも渦巻いております。だからという訳ではないのですが、彼の出演している『妹の恋人』という古い映画を再度鑑賞(3度目くらいかな)。

この映画でジョニー・デップは、映画おたくでバスター・キートンに心酔するちょっと変わった若者サムを演じている。当時も今もとりたてて評価されることがなかった映画で、たしかになんてことはない映画だと再確認。でも、ジョニー・デップの芸の物凄さにはKOされてしまう。

サムとジューンはレーズンについて語り合う

ベタな脚本にベタな演出、ベタな音楽の使い方で、こじんまりとまとまっている映画という印象だから、シネフィルにウケがいいとは到底思えない。ま、ジョニー・デップ以外にも、メアリー・スチュアート・マスターソン(この時期よくスクリーンに観たけど、いまどうしているのかな?)が地味にいい演技をしているし、これまたぼくが地味に気にかけているジュリアン・ムーアも出ているんだけど、ジョニー・デップに比べるとどうしても薄い。とにかくジョニー・デップの芸が凄いんだ。

たとえば、公園でのマイム。バスター・キートンのミニチュア版って感じの、体をはったマイム。大道芸だね。それにレストランでのスラプスティックなコント。これも素晴らしいシーン。

この映画中「もっとも映画的なショット」

ところでDVDには未公開シーンが収録されていて、なかなか興味深い。
たとえば、サムがプロダクションのオーディションを受けるシーン。ステージの上でスポットライトが当たると、彼はまったく実力が発揮できない。彼を推薦してくれた恋人の兄も目の前にいて緊張してしまう。いつものような伸びやかな芸ができない。公園では大勢の人だかりができても平気なのに。

ここでジョニー・デップは「硬いマイム」を披露しているんだけれども、その「不自然さの自然な感じ」がまた凄い。これは芸ではなくて演技。やっぱりこの頃から彼は輝いている。
結局このシーンは編集の段階で削除されたが、たしかにもったいない気もする。

サムはビデオ屋で働く(タランティーノへのオマージュかな)

それからスクリーンテストの風景も収録されている。ナレーションはこの映画の撮影監督を務めたジョン・シュワルツマン。最近では『シー・ビスケット』とか『オールド・ルーキー』とか撮っている。古典的だけどわりと重厚な絵を撮る人だ。

これはシネフィルにしか面白みのないオマケだけれども、撮影監督がいつもなにを考えてキャメラと付き合っているかわかってちょっと楽しい。

光量、光の方向と影、絞り、フィルター、レンズ、肌と衣装の色。とくにフィルターをこれほど多用しているとは驚いた。

「脚本と矛盾しない光」を得るための見えない努力も語られている。これは予算との格闘でもある。シネフィルの中には、そういう矛盾をあら探しする奴はいるし、実際それが容易に分かる映画は失敗作だ。だから緻密なプランとアイデアが必要になる。

サムとジューンは魅かれあう

ま、そんな「おたくな話」はさておき、とりあえずぼくは、アイロン台でトーストを焼いてみたいな。一度でいいから。
そんなことを考える夜更けだけれど。

妹の恋人 (1993/米)
Benny & Joon

製作総指揮 ビル・バダラート
製作 スーザン・アーノルド / ドナ・ロス
監督 ジェレマイア・S・チェチック
脚本 バリー・バーマン
原案 バリー・バーマン / レスリー・マクニール
撮影 ジョン・シュワルツマン
美術 ニール・スピサック
音楽 レイチェル・ポートマン / チャーリー・リード / クレイグ・リード
衣装 アジー・ジェラード・ロジャース
出演 ジョニー・デップ / メアリー・スチュアート・マスターソン / エイダン・クイン
    / ジュリアン・ムーア / オリヴァー・プラット / ダン・ヘダヤ
    / CCH・パウンダー / ジョー・グリファシ / ウィリアム・H・メイシー
    / リーン・アレクサンドラ・カーティス / アイリーン・ライアン
『妹の恋人』ジェレマイア・チェチック妹の恋人
ジェレマイア・チェチック

ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
2006-06-17
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2006年08月02日

難民問題と政治

ルワンダの緒方貞子

緒方貞子の国連難民高等弁務官時代の回想録を読んでいる。緒方貞子の苦闘が生々しい。
20世紀は難民の世紀だったが、21世紀も引き続き難民は生まれ続けている。彼女は、UNHCRが積極的に「政治」を活用するための道を開いた。国連難民高等弁務官時代の緒方貞子は政治家だった。

単なる対処療法では難民問題は決して解決しないのだ。「恒久的」とはいわないまでも、少なくとも数十年の(あるいは十数年でもいい。たかだか二世代か一世代の間の)平和を模索しなくてはならない。それが「現実的な考え」というものだろう。その「現実」を実現するには、政治の力が必要であある。

 「人道問題に人道的解決なし」という私の発言がよく引用されるが、私が言わんとしたのは、難民問題は本質的には政治問題であり、したがって政治によって対処されなければならないということである。人道行動は政治行動をとるための余地をつくり出すことはできるかもしれないが、政治行動にとって代わることは決してできない。しかし、1990年代の難民の大部分は民族浄化、ジェノサイド(民族大虐殺)、難民キャンプや居住地の軍事化に巻き込まれた人々であり、これらの難民問題の解決には国際社会や地域の主要国、あるいは国連安全保障理事会の断固たる介入が必要であった。しかし、介入する国々は紛争当事者になることは恐れないまでも、進んで介入する意図は少なかったので、難民危機を理由に全面的な軍事介入を行うことはなかった。私は関係各国や国連の政治機関が人道危機の解決に本腰を入れるよう主張してきた。アフリカ大湖地域の痛ましい教訓を受けて、UNHCRは難民が居留する地区で発生するさまざまな危険の種類と危険度の厳しさに対応する手段の一つとして、段階的なオプション案を提示した。
 難民の流出は大規模になったうえに、相当数の国内避難民と戦争犠牲者が難民のなかに紛れ込むようになったので、UNHCRの活動はより積極的で包括的な手法をとり入れるようになった。また、大規模な救援事業を調整するようにもなった。救援物資の提供は人々を保護する重要な手段であり、援助を必要としているすべての犠牲者に人道主義の基本原則にのっとった中立で公平な立場から行われなければならない。UNHCRはバルカン地域の紛争の経験を生かして、大規模な残虐行為があったあとに帰還する難民を支援するために、より良い手段を開発することに力を入れた。また、通常は緊急事態対応活動後に生じる支援過程の空白を埋めるために、開発援助機関により早く活動を進めるよう協力を求めた。さらに、帰還した人々の間に共生の意識を育むことによって地域社会を再建する道も探った。
 人道援助は一定の期間、戦争犠牲者の困窮を改善し命をつなぐ手助けをしてきたが、それだけでは問題解決にならなかった。時として、人道援助活動は紛争を長期化させているとして非難されたが、だからといって和平も到来せず、政治解決も行われないうちに何万人もの人々に対する援助を打ち切るというのは現実的な考えではない。「人道問題に人道的解決なし」という発言は、私のいらだちの発露であり、何もせず手をこまねいて傍観せよという意図では毛頭なかったのである。
『紛争と難民 緒方貞子の回想』緒方貞子紛争と難民 緒方貞子の回想
緒方貞子

体裁=単行本: 459ページ
集英社
2006-03
ASIN: 4087813290
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