2006年11月30日

ハーフェズ・アル=アサドについて。

パルミラ遺跡(シリア)
パルミラ遺跡(シリア)

なにかと北朝鮮情勢が急を告げているわけだけれども、内戦状態になったイラクはもはや注目されることが少なくなってしまった。イラクはイラク戦争後わずか3年で世界の周縁に追いやられてしまった。周縁化されるということは不可視化されるということであり、〈帝国〉にとって不可視化されたエリアとは、放置するも蚕食するも思いのままな、まさに〈餌場〉である。

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イラクとシリア、26年ぶり国交回復…合意文書に調印

【カイロ=長谷川由紀】イラクのゼバリ外相は21日、1980年に断交したシリアとの国交を完全に正常化したと発表した。
ゼバリ外相が同日、イラク訪問中のムアッリム・シリア外相と合意文書に調印した。
調印後の共同記者会見で、ゼバリ外相は、「治安担当者による会合開催などで合意した」ことを明らかにした。隣国シリアとの関係正常化は、イラク国内の武装勢力への補給路と見られる対シリア国境の警備強化などを通し、治安情勢の改善につながることが期待されている。ムアッリム外相も「過去の非難にこだわらず、あらゆる分野で協力する」と約束した。
ブッシュ米政権内には、宗派抗争の激化でイラク情勢が泥沼化する中、シリアとの対話を含めたイラク政策見直しの機運が広がっている。シリアにはイラク政府への協力姿勢を示すことで、欧米諸国との関係改善につなげたい思惑もある。
イラク、シリア両国は、イラン・イラク戦争(1980―88年)でシリアがイランを支持したことなどから対立し、80年に断交していた。(2006年11月21日)
シリアとイラクが復交したとは、時代の流れではある。
もともとバアス党独裁の国家といえば、シリアとイラク以外なかったがシリア・バアス党とイラク・バアス党は長く不和であった。とくにイラン・イラク戦争の際、シリアがイランを支持したことにより決定的になった(シリアの故ハーフェズ・アル=アサド大統領とイラクのサッダーム・フセイン前大統領は個人的にも仲が良くなかった)。
イラク戦争後イラク・バアス党は追放され、世界でバアス党が政権を担っているのはシリア以外になくなってしまった(それも建前であって、実際にはシリアの権力中枢はアラウィ派が握っているわけだが)。

ぼくはシリアという国のことをよく知らなかった。というよりも知りえなかったというのが正しい。せいぜい知っていたことといえば、シリアはアメリカにテロ支援国家と名指しで非難されていて、イスラエルとはゴラン高原をめぐって紛争を起こしていて、地域軍事大国で、バアス党の一党独裁の国で、首都は古都ダマスカスで、アサドという独裁者がいる国。このくらいだった。
バアス党についてもよく知らなかった。イスラム教と社会主義が混じったような・・・、そんな漠然としたイメージだった。

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で、夏目高男の『シリア大統領アサドの中東外交』を読む。もともとイラク情勢を考えるための副読本という位置づけで読み始めたんだけど、これがかなり面白い。体裁は純粋に国際政治分析を行った論文集なんだけど、かなり詳細。ハーフェズ・アル=アサドという為政者の人物像をここまで包括的にかつ詳細に論じた本は、おそらくこれまで日本語で書かれたことはないだろう。筆者の夏目高男は現バーレーン大使で、アラブ情勢のプロフェッショナル。

筆者は故アサド大統領の政治・外交スタイルをこのように分析している。

1.一貫性の追求
2.知的、冷静、慎重、周到な準備と情勢の段階的な処理
3.和平に対する妨害要因としての重要性
4.外交目標の限定、目標に即した手段の採用
5.バランス感覚、国内、アラブ世界でのコンセンサス重視
6.心理作戦の多用
7.危機、限界を好機として捕捉
8.強硬な主張と現実的対応、硬軟・和戦両用、瀬戸際政策
9.テロ・脅しの多用
10.保守的な独裁者
11.政敵の執拗な除去
12.反対勢力の容認とその分裂・分断
13.名誉への固執
14.聞き上手、論理的主張、約束の履行
15、勤勉、家族的、陽気で、ジョーク好き
各項ごとに的確な分析がなされていて、とても興味深い。現在の北朝鮮情勢とも通ずるものが多々あるはずだ。
さらに20世紀末、中東の地域大国であった2国を治めた故アサド大統領とフセイン前大統領とを比較している。共通点とともに相違点もあるわけだが、そのなかで大きな違いのひとつとして「限界の認識」をあげている。

サッダームは限界を思い知らされ、政策決定がそれにより大きく歪められた。アサドは自分の限界を知っており、限界の中で行動したばかりか、限界を最大限活用した。アサドの野心はレバノンの征服やアラウィの支配の継続など限られた目標に限定されているのに対し、サッダームの野心は天井知らずで、イラクおよびアラブでの最大の英雄、できれば国際的指導者たらんと望んでいる。
とくにシリアは、イスラエル、イラクと対立しただけではなく、エジプトや他のアラブ諸国、アメリカ、PLO、ムスリム同胞団とも対立してきた。ほとんど周辺を敵に囲まれてきたわけだ。
故アサド大統領にとって、この状況における「自国(すなわちアサド自身)の限界」と「敵の限界」の見極めは自国の生き残りにとって死活のものだった。そのためのインテリジェンス・システムである。

昨今(とくに9・11とイラク戦争以後)、インテリジェント・システムの重要性が指摘されているけれども、それは「限界の認識」を得るためだ。アメリカはイラクにおいても対テロ戦においても、そこを理解し損ねている。シリアの「限界の認識」は、インテリジェンス・システムによってつねにフィードバックされ維持されてきた。アメリカのインテリジェント・システムは世界で最も高度で洗練されているが、それを使って「アメリカの限界」を積極的に提言しないし、そもそも分析しようとしない。

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2000年、ハーフェズ・アル=アサド大統領は心臓発作で死去し、その跡を次男であるバッシャール・アル=アサドが継いだ。バッシャールは元眼科医で温厚な性格であるという。周辺の官僚機構はハーフェズ時代と変っていないが、おそらく今後10〜20年でシリアも、エジプト同様の「普通な国家」へとゆるやかに変化していくだろう。そのとき、域内バランス(とくにイスラエル-パレスチナ-レバノン-シリア)がどう変わるか、注視しなくてはならないだろう。

バアス党の歴史から現代中東史を俯瞰するのも興味深いテーマなんだけれども、またいずれ。

夏目高男『シリア大統領アサドの中東外交1970‐2000』シリア大統領アサドの中東外交1970‐2000
夏目高男

単行本: 246ページ サイズ (cm): 21 x 15
明石書店
2003-04
ASIN: 4750317063
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2006年11月29日

泥団子と世界。

Walkin' Around
Walkin' Around

毎年いちどはひどい風邪をひいてしまう。子どもの頃は「扁桃腺肥大」って診断されていた。そのせいか大人になったいまでも、風邪にかかると40度近くまで熱が上がってしまう。咳もひどい。ま、おかげで痛みや熱に強い体質になってしまったけど。

というわけで今日は終日布団にもぐって安静にしていたわけだけど、しまいにはそれにも飽きてしまって、夕方あゆむさんを保育園まで迎えに行くことにした。

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あゆむさんはいつものように荷物を持って来たが、片手に何かを大事そうに持っている。よく見ると泥団子だ。そーっと廊下に置いて、リュックを背負い、靴を履いて、またそーっと両手に持って家に向かって歩き出した。ママに見せるんだって。

保育園からの帰り道に神社がある。あゆむさんはこの神社が大好きで、朝お参りするのが習慣だ。
この神社にはよくお供え物が置いてある。カップ酒だったり柿だったりミカンだったり。あゆむさんは泥団子を神社の神さまに見せようと思ったらしい。

お団子をそーっと置いて、両手で鈴を鳴らし手を合わせ、またお団子をそーっと持って歩き出したとたん、神さまの目の前で転んでしまった!
もちろん泥団子はつぶれてしまった。

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ここ半年でいちばんの大泣きだったんじゃないだろうか。しばらくあゆむさんは泣きやまなかった。
あゆむさんの泥団子は、いびつだったけどずいぶん硬くしっかりしていた。たぶん相当長い時間をかけて作ったのだろう。保育園では、先生に怒られないように自分のくつ箱に隠していた。

球というのは、もっとも単純で完成されたかたちだ。それはひとの掌にすっぽり包むことができる。このイデアルで無防備なものを、たぶんあゆむさんは無条件に育て愛したのだろう。愛しているものが失われるのは、4歳の子どもにとっても大きな悲しみだ。

あゆむさんはママやパパに無条件に愛されているのを知っている。同じように、泥団子に愛情を注ぐ。泥団子を通じて、この世界の喜びと悲しみと神秘を知るのだ。
 
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2006年11月27日

モーティマー・アドラー 『天使とわれら』

押井守『イノセンス』
押井守 『イノセンス』(2004年)

モーティマー・アドラーの『天使とわれら』を読了。

定義・・・思考の対象としての天使は、純粋に霊的存在つまり非物体的な実体であり、肉体をもたない精神、すなわち自分自身のものである肉体と結びついていない精神である。

公理・・・非物体的な実体は、一つの可能な存在様態である。
――公理の解明――
前述の言明の自明的な真理は、「実体」と「非物体的」の組合せに自己矛盾はふくまれていない、ということに存する。自己矛盾的なものは不可能である。だが自己矛盾的でないものは可能である。天使が可能であるという表現は、現実にそれが存在するか否かにかかわりなく、天使が実際に存在しうるという意味である。

公準・・・可能なものという領域のなかに、多数の非物体的な実体、複数の天使がいることを自明の理として認めよう。
ということで、天使の可能性を前提として書かれた本書は、実際は天使についての本ではない。「非物体的な実体」という天使の諸相を分析することで、むしろ人間とは何かを掘りさげる。
たとえばアドラーは、「天使主義的虚偽」がデカルトをはじめあらゆる近代哲学に浸透している、と指摘する。

デカルトによると、人間の天使的知性は、生まれながらにして授けられている、明晰で判明な観念でもって、不可謬な仕方で機能し、それが所有する知識に、何の疑いもない仕方で確実性をもって到達する。デカルトが、彼の先駆者達が知っていると主張したことをすべて疑うというやり方を遂行したのは、こういった知識を発見するためだったのである。
天使的知識は、デカルトが到達しようと試みた確実性を有する。ではデカルトは、地球上のいったいどこにそのようなものを見つけることができたのだろうか。それは、数学においてだけである。なぜ数学だけなのか。なぜなら数学の対象は、認識すべき観念的対象――明晰で判明な対象だからである。
・・・云々。「デカルトは、正真正銘の天使主義的虚偽を、誤りをふくむ天使主義的虚偽と結び付けて誤謬を混合させてしまった」とまで書く。さらにバクーニンのアナーキズムやマルキシズムに含まれる天使主義的虚偽を暴く。

要するにアドラーは、アクィナスを引きながら、肉体を持った人間はそもそも天使的知性と隔絶しているとする。(存在するかどうか別として)人の魂と天使の如き存在様態も矛盾はしない。「アリストテレスによれば、実体的形相は、それがその可能性を現実化するところの質料のうちにある」。魂が肉体を離れると、魂もまた非活動になる(このあたり、最新のサイボーグ論ともリンクする)。しかしキリスト教には「復活」の教義がある。

復活に関する教義は、どんな種類の肉体を想定しているのか? 魂が地上で合一していたような肉体ではありえないことは言うまでもない。そのような肉体は、地上で色々と変化しているので、それは復活させられえない。また、完全に物質的な肉体は、生者たちの交わりが天軍と一緒になると信じられている天国において、存続することはできない。完全に物質的な肉体ではないとしたら、復活した肉体はどんな種類のものだろうか。神学的に答えると次のようになる。すなわち、神によって栄光を与えられた肉体である。キリストは、死、埋葬、そして天国に昇った後、弟子と短い期間をともに過ごすために地上にもどったが、そのときのキリストの肉体と同じ種類の肉体を指している。
ここで思い出すのは、映画(コミック版も)『Ghost in the Shell』で「人形使い」(自ら「情報の海で発生した生命体」という)が唯一直接その「すがた」を見せるシーンだ。それは天使の姿をしていた。同時にそれは「人形使い」が、ヒト(有機体としての生命)の持つ「不確定性」「ゆらぎ」を求めて融合するシーンでもあった。なんか象徴的だなあ。

ナノテクと生体工学、電脳技術が極限まで達した世界においては、「栄光化した肉体」とは完全義体化したサイボーグなのだろうか。アドラーがもし生きていたら、当然そこに天使主義的虚偽を見出すだろうけど、もはやリアルにおいては・・・

モーティマー・J. アドラー Mortimer J. Adler『天使とわれら』天使とわれら
モーティマー・J. アドラー Mortimer J. Adler
稲垣良典(訳)

文庫: 309ページ サイズ (cm): 15 x 11
講談社(講談社学術文庫)
1997-06
ASIN: 4061592858
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2006年11月26日

「亜橋 春日本店」さん。

@亜橋 春日本店

春日の「亜橋」でカレーを食べる。とてもひさしぶり。
本当はラーメンを食べる予定だったけど、ともちゃんのたっての希望でカレーになった。

ひさしぶりな「亜橋」のカレーだけど、ナンが美味しい。同系のカレー屋さんだと、同じ春日の「HARI」もあるけど、ナンはこちらの方が好き。意外とナンって油っこい感じがするもんだけど(実はぼくは苦手だったりする)、「亜橋」のナンは生地が薄くて食べやすい。

ともちゃんのチーズナン・セットのカレーは、シーフードカレーとひよこ豆とじゃがいものカレー。ひよこ豆のカレーはコリアンダーの香りがしてかなり辛い。
ぼくはカツカレー(キーマカレー)をチョイス。「HARI」に近い、わりとヨーグルト濃度の高いカレー。あまり辛くないのでチリペッパーをまぜまぜして食べる。

あゆむくんのお子様カレー(チキンカレー)も、辛くはないけど本格的。いろんなスパイスの味がする。コリアンダーの香りがかなりするのに、あゆむくんはパクパク食べた。すごいな。

個人的に好きなのは、たとえば「ツナパハ」あたりのサラッとしてて辛いカレーなんだけど、ときどきこんなカレーも食べたくなるね。

チーズナン・セット

お子様セット

カツカレー
 
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2006年11月24日

「瀧の家」さん。

皮など

数日前行った、我が家行きつけの居酒屋「瀧の家」さん。JR笹原駅から歩いて5分。

毎月1回以上行ってしまうデス。だって美味しいもん。正直、ネタはもっと美味しい処はあるかもしれないけど、備長炭による火の加減がかなり上手いと思う。井尻の焼き鳥屋というと「ますだ」がよくあがるけど、ぼくは「瀧の家」のほうが好き。ネタも大きいし塩梅もいいしね。特に皮とか手羽先はかなりウマい。味噌バラもオススメ。

一品料理もわりと種類が多いし、座敷が多いので子ども連れOK。子どもにはいつもサービスのおやつがあって、店員さんも親切。そのうえ自家製の梅酒も激ウマ。
リーズナブルなので普段使いです。

四つ身など。

ニラレバ炒め。

もりもり食べる。
 
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保母大三郎とは何者か?

なんでぼくが「ミュージックマガジン」を毎月読んでしまうかというと、それはひとえに、保母大三郎というとんでもないライターがいるからで、間違っても(どんなに間違っても、いや死んでも)中村とうようが「とうようズ・トーク」を書いているからではない。

じゃあ、保母大三郎というひとがどういう人かというと、それがよくわからない。あまり気にしたことがない。他にもたぶん記事を書いている雑誌もあるんだろうけど(「LUIRE」に書いていたのは知ってる)、正直あまり興味がない。とにかく「歌謡曲/ポップス」レビュー欄が素晴らしいだけで。

というわけで、今月号よりいくつか抜粋。ただしアーティスト名は伏せておく。検索して来られたら可哀想だし。でも、おもしろいぞ。
そこそこ知名度のある某女の子バンドの場合。

分け入っても分け入っても青臭いガールズ・バンドの2枚目。自分探し&傷をナメあって明日へGO!&地球バンザイ!と、三大バカ要素が揃った歌詞に、サルトル言うところの『嘔吐』。ポコチン・ロックに毛が生えた音、80年代『宝島』なスタイリングも寒過ぎ。前作の勢いもなくなり残念→切腹(W死語)。足の太い中高生向け。(3点)
ちなみにこのレヴューは10点満点です。ヒドイ点数だなあ。
そもそも「ポコチン・ロック」ってなんデスか・・・?
今度はかなり売れてる男性シンガー・ソングライターの場合。

エコロジーという名の暴力の祭典”愛・地球吐く”の公式テーマ・ソング、NHKKK全国合唱コンクール中学の部課題曲を含む、約2年半ぶりの新作。押し付けがましいエコロジー思想&自分探しバカ系キレイゴトばっかの胡散臭さは薄れたが、言葉の総てが滑らかで柔らかい。血が足りないのだよ。稚拙な押韻、聴いてる俺が血管切れそうなファルセットもペケ。(5点)
これでも褒めてる。少しは。
さて、かなりヤバそうな、はじめて聞く名のバンドはこんな感じ。

ソフト・バレエが腐ったようなテクノ・ポップ野郎の5年ぶりの新作。野太いだけで情感ゼロのジャイアン声に、当然ながらサルトル言うところの『嘔吐』確実。独善的オナ2〜音楽の極みDEFな。「以心電信」「紫の履歴書」と曲名はそそるが、中身はマイコンのビープ音以下のチープさ。いまだに愛読誌が『サウンドール』と『テッチー』(W廃刊)なIMOな貴兄向け。(2点)
点数低すぎ! むしろ聴きたくなるじゃないか。それにしても保母先生はサルトルが好きDEFなあ。
保母先生は褒めないのかというと、いや褒めますよ。ただ褒め方が特殊なだけです。

自称「氣志團の綾小路翔の”盟友”」の1枚目。大半は韓国&台湾の腐れディスコ・チューンに日本語詞を載せただけなんだが、歌詞のバカバカしさと、無理矢理アゲアゲ(死語)にさせる打ち込みに耳が亀甲縛りされてしまう。田中星児の「ザッツ・ザ・ウェイ」を聴いている感覚と一緒DEFな。(7点)
保母大三郎先生とは正直音楽の趣味はあいそうにない(たとえば中島美嘉を「10点どころか20点つけてもいい」と発言)けれども、この小生意気にも素晴らしい文体にはヤラレマス。とても「音楽評論」ではないとは思うけど。
いまいちばん「スター」になって欲しいライターさんです。

MUSIC MAGAZINE 2006年12月号MUSIC MAGAZINE 2006年12月号

雑誌(月刊誌) サイズ (cm): 21 x 15
ミュージックマガジン
2006-11-20
ASIN: B000KCI7Y4
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タグ:音楽
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2006年11月21日

ダナ・ハラウェイ 『サイボーグ・フェミニズム 増補版』

Ghost in the Shell
Ghost in the Shell

草薙素子(=少佐)の記憶はサイボーグ以前、とくに「家族」について、何故隠されているのだろうか。あるいはバトーもサイトウもバズもボーマもイシカワも。完全義体化したメンバーは特に、だ。義体化が十分ではない荒巻やトグサのエピソードの中には、家族をめぐる物語があるけれども。

「少佐の過去」がテーマのひとつだった『Stand Alone Complex 2nd Gig』でも、過去に関係する者として登場するのは、義体適応に苦労した「同志」であって、父親や母親あるいは兄弟姉妹では、ない。
それは何故か?

+ + +

ダナ・ハラウェイの『サイボーグ・フェミニズム』を読んでいる。いまさら? そんなことはない。「サイボーグ宣言」は一読すると、文体の破格なスピードに引きずられて「読み飛ばし」てしまいがちだけれども、ゆっくり味読するとヤバイ。とりあえず引用。

サイボーグ――それはサイバネティック・オーガニズムの略であり、機械と生物のハイブリッドだ。架空の生物であるとともに、現実社会の産物でもある。だがそもそも現実社会そのものが、リアルな社会関係であるとともに、何にも増して「政治的工作物」であり世界変革に必要なフィクションであろう。国際規模で拡がった女性解放運動は、その意味で、「女性の経験」を重要な集団事象として暴露ないし発見しつつも、まさしくそれを工作してきたとみられる。「女性の経験」ほど、ファクトでもありフィクションでもある装置として政治的に意義深いものもあるまい。解放のためには、抑圧や可能性に関する意識をどう解釈するか、抑圧や可能性をどう想像力たくましく理解するかが条件となる。このとき、サイボーグという架空にして現実のイメージが浮上してくる。そのような性格を持つサイボーグこそが、20世紀後半における女性経験の意義を変容させるからである。これは、生死を賭けた闘争だ。けれども同時に、このような社会的現実としてのリアリティといわゆるサイエンス・フィクションとのあいだが五十歩百歩であるのも、忘れてはならない。

フランケンシュタインの怪物が期待したようには、サイボーグは自らの父親の手で復楽園をもたらしてくれると思っていない。すなわち、自分の創造者がさらに異性の配偶者を創造することで、ひとつの世界を――都市や宇宙を――完成させてくれることなど、期待しない。サイボーグは、生物家族をモデルに社会を築くことなど夢見ないし、エディプス神話さえ持ち合わせない。サイボーグは、エデンの園を認識することもない。サイボーグは泥から造られたのでもなければ、塵に還ろうと夢見ることもできはしないからだ。現代世界は「悪」を仮想したい狂躁にかられるあまり、すべてを核の灰燼に帰してしまうような終末を迎えるかもしれない。けれども、だからこそわたしは期待するのである、サイボーグならば、そのような黙示的プロセス自体を破壊できるのではないか、と。
サイボーグが敬虔でないのは、彼らには宇宙を回想=再構築することなどないからだ。サイボーグたちは全体論に対しては警戒するが、関係性は熱望する。彼らは統一戦線の政略については自然な理解を示すが、主導的な党派を必要とはしない。サイボーグに関する問題点は、彼らが国家社会主義をはじめ軍国制度や家父長制資本主義の私生児であるということだ。しかし、私生児たちは、しばしばあきれるほどに、自分たちの親たちに対して不義理を働く。彼らにとって、父親など何ら重要な存在ではないのである。
ダナ・ハラウェイ Donna Haraway『サイボーグ・フェミニズム 増補版』サイボーグ・フェミニズム 増補版
ダナ・ハラウェイ Donna Haraway ほか
巽孝之・小谷真理(編訳)

単行本: 349ページ サイズ (cm): 19 x 13
水声社
2001-08
ASIN: 4891764465
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2006年11月19日

Fra Angelico

Annunciazione(受胎告知),1450頃
Annunciazione(受胎告知),1450年頃

Presentation in the Temple ; left(サン・マルコ修道院祭壇画・左翼),1440-41
Presentation in the Temple ; left(サン・マルコ修道院祭壇画・左翼),1440-41年

Noli Me Tangere(我に触れるな),1440-41
Noli Me Tangere(我に触れるな),1440-41年

Deposizione nel sepolcro(キリストの埋葬),1440年頃
Deposizione nel sepolcro(キリストの埋葬),1440年頃

Cristo deriso(キリストの嘲笑),1441-1443年
Cristo deriso(キリストの嘲笑),1441-1443年

天使のごとき画僧、フラ・アンジェリコ。ぼくの大好きな画家。
なぜ「ここ」はこんなに静かなんだろうか。でも、といってその人物たちは、ただ修道院の壁に貼りついているわけではない。凍りついているわけでもなく、強いて言うなら、みな瞑想しているようにみえる。

冬の日、古本屋で安く買ったフラ・アンジェリコの画集を見るのもいいでしょう。
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2006年11月16日

4hero 『Play With the Changes』

4hero
4hero

来年1月、4heroの新作がようやくリリースされるらしい。6年ぶり。ぼくらは6年も待ったわけだ。長かったなあ。とにかく善哉善哉。myspace.comの彼らのページで新曲を試聴できます。聴いてください。

「Morning Child」は傑作。試聴は前半部の2分半ほどなんだけど、この短い時間だけでも、キラキラ輝くストリングスのレイヤーに耳を澄ませてると、ふっと涙腺が緩んでしまう。こんなニュー・ソウル、ヤバイっしょ。

ヴォーカルのCarina Anderssonは、たしかHopper(←4heroのドラム・プログラミングなんかに参加していたテクニシャン)やAzymuthなんかと活動している。4heroの片割れMark Macのソロ・プロジェクトにも参加していたから自然な流れではあるけど、いやあ、これほどマッチするとはねえ。『Two Pages』以来の傑作な匂い。

4heroって、最初っからドラムンベースというジャンルにこだわっていなかったんだなあ、といまさらながら思う。確かにデトロイトの影響は受けただろうけれど、それ以上にそのルーツであるソウルやR&Bを志向していたんだろう。この美しいビートは、真に彼らのクリエイションだが。

+ + +

数年前、確か『Two Pages』をリリースしたときだったと思う。「Music Magazine」だったか彼らのインタビュー記事が載ったんだけれども、これがなかなか痛快だった。

彼らは「何故、いまさら紙媒体なんだ? なぜネットにつながらないんだ? なぜこのインタビューはe-mailじゃないんだ?」とインタビュアー(名前は伏せる)を質問攻め。当時の彼らは環境問題に熱心だったかららしいけど、インタビュアーが逆切れしてしまい(アホなヤツだ)、そいつにめちゃくちゃ書かれてしまっていた。
日本人のアーティストにはそういうひとは少ないけど、外国人のアーティストはメディアを使って政治的主張をすることが多いってのは当たり前なはずなのに。そんなことも知らないで、よくもまあインタビュアーなんて引き受けたなと、当時このアホ編集者に呆れてしまったもんだった。『Two Pages』は歴史的傑作だったのにまともな評価ができなかったなんて、編集者(&レヴュー誌)として失格だね。今回はそんなミスをくれぐれもしないでください。

+ + +

そんな下世話な話はさておき・・・
冬の空を見上げながら、流麗なビートに耳を澄ませて、空を飛ぶ夢をはやく見たいです。

Play With the ChangesPlay With the Changes
4hero

Raw Canvas
2007-01-29
ASIN: B000KGGHNS
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4hero『Parallel Universe』Parallel Universe
4hero

Generic
1998-12-15
ASIN: B00000B93V
by G-Tools


4hero『Two Pages』Two Pages
4hero

Talkin' Loud
1998-11-10
ASIN: B00000DLVU
by G-Tools


4hero『Creating Patterns』Creating Patterns
4hero

Talkin Loud
2001
ASIN: B000GIWS8S
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Jacob's Optical Stairway『Jacob's Optical Stairway』Jacob's Optical Stairway
Jacob's Optical Stairway

R&S
1998-12-29
ASIN: B00000715I
by G-Tools


Tek9『Simply』Simply
Tek9

Ssr
1999
ASIN: B00003IQLP
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牧野富太郎 『植物一日一題』

牧野富太郎(1862 - 1957)
牧野富太郎(1862 - 1957)

しかしこの花(ヒマワリ)はこの文(『秘伝花鏡』の「向日葵」項)にあるように日に向かって回ることはけっしてなく、東に向かって咲いている花はいつまでも東に向かっており、西に向かって咲いている花はいつまでも西向きになっていて、敢て動くことがない。ウソだと思えば花の傍に一日立ちつくして、朝から晩まで花を見つめておれば、成るほどと始めて合点がゆき、古人が吾らを欺いていたことに気がつくであろう。しかし花がまだ咲かず、それがなお極く嫩(わか)い蕾のときは蕾を持った幼嫩(ようどん)な梢が日に向かって多少傾くことがないでもないが、これは他の植物にも見られる普通の向日現象で、なにもヒマワリに限ったことではない。しかしとにかく世間では反対説を唱えて他人の説にケチを付けたがる癖があるので、このヒマワリの嫩梢が多少日に傾く現象を鬼の首を取ったかのように言い立てて、ヒマワリの花が日に回らぬとはウソだというネジケモノが時々あるようだが、しかしついに厳然たる事実には打ち勝てないで仕舞いはついに泣き寝入りサ。
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中学校には『牧野植物図鑑』が何冊もあって、よくパラパラ見ていた。ちょうどその頃、荒俣宏が徐々に活動し始めていて、博物学ブームを巻き起こす直前くらいだったと思う。いまでこそ「ボタニカルアート」とかいう用語もあるけれども、当時そういう目で図鑑類を読むなんてことは少なかったように思う。

『植物一日一題』は、牧野富太郎84歳の頃に書いたエッセイ集。彼は小学校中退という学歴しかもたなかったために、高名なわりには長く不遇であった(博士号を得たのは65歳の頃である)。そのためか、学界の誤りを正すのに仮借ない言葉を使っていて、その苛烈さがむしろ痛快だったり。
それに、やはり明治時代に活躍した人の博識は驚異的だとも思う。牧野博士は単なる自然学者ではなく、「名物学」的な漢籍考証までも行っている。おもしろい。

数年前『牧野植物図鑑の謎』という本が出版されて、面白く読んだ。一部で牧野批判も起こったけれども、たいがいは的外れではないか。ラテン語の素養が無かったとか、英語が書けなかったとか、『大言海』の悪口を言ったとか、小野嵐山を批判したとか、そんなことは実に瑣末なことだ。(ちなみに、この本には小野嵐山へ無条件なオマージュを捧げている項がある。)
そもそも『牧野植物図鑑の謎』は、牧野批判の書でもないし。

あ、そうだ。牧野博士は「馬糞蕈」の項にこんな戯れ句を書いている。楽しいので引用しておく。マグソタケはその名の通り馬糞の上に好んで生えるキノコらしい。しかも名のわりに食用とも。

食うときに名をば忘れよマグソダケ
その名をば忘れて食へよマグソダケ
見てみれば毒ありそうなマグソダケ
恐はごわと食べてみる皿のマグソダケ
食て見れば成るほどうまいマグソダケ
マグソダケ食って皆んなに冷かされ
家内中誰も嫌だとマグソダケ
嫌なればおれ一人食うマグソダケ
勇敢に食っては見たがマグソダケ
牧野富太郎 『植物一日一題』植物一日一題
牧野富太郎

単行本: 275ページ サイズ (cm): 19cm B6
博品社
1998-04-25
ASIN: 493870661X


俵浩三『牧野植物図鑑の謎』牧野植物図鑑の謎
俵浩三

新書: 182ページ
平凡社新書(平凡社)
1999-09
ASIN: 4582850170
by G-Tools

 
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2006年11月15日

メッセージ・ソング

Pizzicato Five

メッセージ・ソング
詞/曲:小西康陽

冬のある日
言葉のない手紙が ぼくに届く
遠い花火 白い天使
ぼくは旅をしている

風の中の 海の匂い
生まれた街のような
忘れないで
ぼくはきみを ほんとうに愛している

もしもどこか 街のどこか
この歌を聴いたら
想い出して これは
ぼくからのメッセージ

雪の降る日
何もかもが とてもなつかしくなる
風の中に きみの声を
ぼくは探している

もしもある日 冬のある日
この歌を聴いたら
想い出して これは
ぼくからのメッセージ

いつか 大人になる日に
きみも たぶんどこかへ
旅に出るはず

冬のある日
言葉のない手紙が ぼくに届く
忘れないで
ぼくはきみを ほんとうに愛している

そしていつか
きみとぼくは きっとかならず逢える
+ + +

ともちゃん曰く、ぼくはロマンチックなのだそうだ。
まあ、そうかもしれない。
ぼくは何事も咀嚼しすぎなのだそうだ。
まあ、そうかもしれない。

pizzicato five『singles』singles
pizzicato five

コロムビアミュージックエンタテインメント
2006-03-31
ASIN: B000EAV87U
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2006年11月14日

転移と逆転移について。

雨の日。

告白しよう。
以前、ぼくは転移/逆転移の生まれる濃厚な〈場〉に好んで身をおいていた。好んで、だ。それはぼくが病んでいたことを、やっぱり意味するんだろう。そのような関係性において「治癒」などありえないではないか。

もちろんぼくは分析家や心理療法士ではないし、分析をきちんと系統立てて学んだこともない。しかし、転移/逆転移なんて「業界用語」のうわっつらを知っただけで、その魔力を直感的に知った。転移/逆転移の渦は実に魅力的だった。

いや、「魅力的」というのは正確ではないかもしれない。ぼくもその〈場〉では窒息しそうになる。ある種のナルシシズムが働いていたのかもしれない。まさにナルシスティックな謂いをするなら〈犠牲〉か。苦しいのだが、心の深いところで得体の知れない何かが感応する。しかも、逆転移として反応するところとも異なる場所が、だ。
恐ろしいことだ。本当に恐ろしいことだ。

松木邦裕によると、転移の定義は以下のとおりである。

転移とは、分析的な治療関係において、過去に起こった実際の体験そのままの反復・再現ではなく、それを体験していたその人物(子ども)の意識的無意識的空想と織り混ざりながら構築された対象群や自己(複数)から成っている内的世界全体の様相が、外界(すなわち治療関係)に表し出されることである。つまり、内的体験での不安や情緒にかぎらず、思考・心的機制・対象関係といったあらゆるコンステレーションが、多くのばあいはストーリー性をもって治療者とのあいだに表出され、再演されることである。
ハイマンによる逆転移の定義は以下のようである。

逆転移とは、分析的な治療関係において治療者のこころに湧き上がってくる感情や思考すべてを指している。しかし、この感情には、治療者の無意識の病的な転移から生じてきている逆転移(病的な逆転移)とクライエントからのコミュニケーションに連動している逆転移とがある。すなわち、後者のひとつは、治療者の健康で正常な反応として生じてきている感情(正常な逆転移)であり、もうひとつは、クライエントから治療者に投影/排出されてきたことで治療者が味わっている感情である。
「すべてが転移であり逆転移である」可能性を松木邦裕は指摘しているが、それは正しいように思える。
「すべて」とは何か。この世界のすべてだ。例えば恋愛相談をしている/されている男女が恋愛関係に陥る。これは、治療者-クライエントの関係ではないとはいえ、まさに転移/逆転移だろう。
例えば、友人A子からこんな体験を聞いたことがある。業界風に事例を書いてみようと思う。

A子(既婚・子どもあり)には、数歳年長のC子(未婚)という同僚がいる。A子はC子と既に数年同じ職場で働いている。A子から見てC子は仕事の要領があまりいいとは思えない。対人関係にも突発的な事態への対応もうまくない。生活障害の傾向があるかもしれない。物事の見方にも偏りが見られ、年長とは思えない幼さをA子はC子に対して感じている。
しかし一方では、C子のその要領の悪さを改善するためにA子はなにかと気を使っている。また関係を良好に保つために、自宅での夕食に誘ったり休日に一緒に遊んだりしている。

しかし、あることで上司がC子を注意した際、彼女は上司に「A子さんが自分の仕事を奪っている」というような訴えをした。C子はこのカミングアウトによって、むしろ「仕事を奪われている」感を強化したようだ。
A子はこれまで、C子の要領の悪さをフォローしていたつもりであったので、このC子の態度に動揺し、同時にC子に対して強烈な「生理的拒絶」を抱いた。現在は表面的には同僚として一緒に働いているが、A子のほうがC子との個人的な付き合いを忌避している。
この事例をどう解釈すれば良いか。ここにはどんな転移/逆転移が働いているか。
C子は現在、姉と同居している。両親はかなり遠方に住んでいるが時折彼女を訪ねてくるようで、そのとき一緒に美術館へ行ったり(普段、彼女はそういう行動をしない)、洋服を買ってもらったりしている。C子はそういう両親との関係を周囲によく話すのだが、聞く者は違和感を感じるようだ。

C子は母子分離ができていないらしい。とするとA子はC子の母親の代理であり、この状況はC子の「失敗した反抗期」の再現であるのかもしれない。C子はA子に対して転移している。
同時に、A子の「生理的拒絶」は逆転移であるだろう。ひょっとすると今後予期される現実の母子分離を先取りした感情の発露かもしれないし、別の原因も考えられる(それを検討するにはデータが足りないのだが)。

+ + +

何かしら得体の知れないもの/こと、何かしらおそろしいもの/ことについて考えるのが精神分析である。
常にそれは、事後に解釈される。得体の知れなさ、恐ろしさの最中の解釈はありえない。なぜなら解釈が得られれば、なんらそれは、おそろしくも得体が知れなくもないから。

したがって精神分析は神学に似ている。そこにある徴しは、原理的に、ずいぶん後になってからしか気づかれ得ない。同時に、転移/逆転移という現象は、人間が侵し侵される存在であることを示している。人間は機械である。機械の機械である。

+ + +

氏原寛と成田善弘による『転移/逆転移―臨床の現場から』は、精神分析医や心理療法士による転移/逆転移をテーマとした論文集。フロイト派とユング派双方から、臨床に即した転移/逆転移研究が成されている。それにしても、日本にはユンギアンが多いなあという印象。
また、転移/逆転移の重要性にそれほど着目していない(あるいは意識的に距離を置いている)臨床家もいて、とても興味深い。しかもそれが女性臨床家であるのはなにか象徴的でもある。

氏原寛・成田善弘(編) 『転移・逆転移―臨床の現場から』転移/逆転移―臨床の現場から
氏原寛・成田善弘(編)

単行本: 255ページ サイズ (cm): 21 x 15
人文書院
1997-02
ASIN: 4409340166
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2006年11月13日

大阪を食べ歩く(写真が下手でごめんなさいの巻)byともちゃん

大阪のシンボルと言ったらやっぱりこれ。意外にでかくてびっくりビリケン。

今日はともちゃんの日記をエントリーします。いつもと違う写真とテキストを楽しんでください(写真もテキストもすべて、ともちゃん。完全無修正です)。

+ + +

11月7日、仕事で大阪に日帰り出張に行く。と言っても、大阪に用事があるのはたった1時間。なので、あたしは始発の新幹線で半ば旅行気分で出発した。
会議があるのは夕方の5時なので、それまで存分に観光を楽しむと意気込み、上司にも許可を取り、ガイドブック片手に新幹線に乗る。
今回の観光のテーマは「粉モノめぐり」。大阪はあまりにも鉄道路線が多いので、地下鉄御堂筋線周辺を歩くことにする。なんてったって、大都会を一人歩きなんてなかなかないもんで・・・

この日、某サイトに爆破予告が出ていたらしい通天閣。  道の横路地が。  これは人?それとも・・・

まず天王寺駅を降りて、「たこ焼きやまちゃん」へ。実は「粉モノめぐり」と言ったものの、急に決まった出張でガイド本以外にリサーチしてないあたし。迷子になっても困るのでガイド本を信じつつガイド本に載っている食べ物屋さんが美味しいですようにと祈るような気持ちでぶらぶらしていたのだが、「やまちゃん」は大金星だった。
近鉄百貨店の裏側にある。で、味がいろいろある。店員さんのオススメに素直に従い、たこ焼きの味そのものがわかるソースをまったくかけない、素焼きのままで食す「ベスト」(6個で210円)を注文。じゃらんによると「美味さの秘密は、鶏ガラと、10種類以上の野菜とフルーツで煮込んだダシだ」そうな。
で、感想。んまい。外はカリカリで中はトローリ。最近、某たこ焼き屋みたいなカリカリ感を出すために油をたくさん使っているお店が多い中、このカリカリ感は職人わざ。中のトローリも〈生〉の感じが全くせず内側からダシの旨みがあふれ出す感じ。職人わざ。2号店もどうやら近くにあるらしく、こちらは食事もいただける模様。あああ、ご飯と一緒っていうのも魅力的。

アツアツやけどに要注意。  「やまちゃん」。

小腹ごしらえも終わり、「粉モノめぐり」の次に楽しみにしていた四天王寺へ。聖徳太子が開いたというお寺で、修学旅行生とか観光客はもちろんリアルにお参りしているひともたくさんいた。中心伽藍(拝観料は大人300円)に入り、五重塔・金堂・講堂を見物。ここのお堂は壁画がやたらと多い。空襲で燃えてしまったのを戦後再建したらしいのだが、五重塔の釈迦三尊像はすごく威厳がある。なんていうか、「目ぢから」がすごい(って、だんなに言ったら笑われた。香椎由宇かよってさ)。

他のお堂の絵は現代的でくっきりしてて色彩も豊かなのに、五重塔の壁画はわりと新しいにもかかわらず古ぼけていて、全体的に色あせているのに、目だけが幾重にも重ね塗りして描いているようで、薄暗いお堂の中で見上げるとほんとに「目ぢから」なのです。

他の、金堂にはお釈迦様の誕生から涅槃までが壁一面にずらずら描かれており、講堂には玄奘三蔵のお手柄が描かれている。でも、孫悟空も猪八戒も出てこない。沙悟浄もいない。各壁画に絵の説明があったのだけどお釈迦様と聖徳太子がどっかで一緒になっててちょっとこんがらがる。

四天王寺。  建物はわりと新しい。  王様の廊下みたい。

このお寺で私がいちばん嬉しかったのは、この壁画たちのおかげで金堂と講堂のでっかい菩薩像や如来像の背中までをも間近で見ることができたこと。仏像を見るのはやっぱり楽しい。どの仏像にもハンサムな角度ってのがあって、それを探し当てるといつも心を射止められるあたし。はなちゃんの気持ちもわかるあたし。
時間もあまりなく、宝物殿や本坊庭園などまだまだ見所のある四天王寺を泣く泣く後にしつつ、たこ焼きを求めて、いざ食の町・道頓堀へ。

難波駅を降りると、あああ。ここはどこ?地図をぐるぐるまわしても、道が何筋も分かれていて、お手上げ状態。
道頓堀も大事ですが、昨今のお笑いブームに乗り、芸人さんに会えるかも。なんていう浅はかな夢を抱きつつ、なんばグランド花月へ。でも、やっぱり有名人なんて歩いちゃいなかった。ひょっとかしたらだれかと写真がとれるかも〜。なんて、自分勝手な妄想だったのに、なんか腹のムシがおさまらず、グランド花月の目の前のSWINGヨシモトビルで行き当たりばったりのいか焼き(一枚200円)を食す。ゲーセンの横のお店だけに、味も値段も良心的。

いか焼き。芸人さんたちもオススメらしい。  観光マップのありかのヒント。

難波周辺をひたすら歩く。やばい。ほんとに迷子かも…と泣きそうになっていたら、やっぱり観光の街、難波周辺の観光マップをゲットすることに成功した。(このマップ、ほんとに便利でした。でも、ゲット方法は教えてあげないよ〜)そしてあたしの目指す道頓堀が、全く反対の方向だということに初めて気づかされる。

煙を頭にかぶってみた。ご利益はあるだろうか。  最近はまっている「芋たこなんきん」にも出てくるよ。  道頓堀までふらふら寄り道。

時計を気にしつつ、道頓堀へ。ガイド本によると、ここの「元祖大たこ」と「本家大たこ」を食べるのが良いらしい。行ってみて分かったのだけど、この二軒、隣同士。残念ながら、「元祖大たこ」は閉まっていました。
「本家大たこ」(6個300円)は、その名の通りぷりっと大粒の鉄板の穴からはみ出るくらいのタコが。2度焼きをしているらしく生地はふんわりと優しい。オリジナル・ソースは舌をちょっと刺激するくらいの辛さ。ただ、ごめんなさい、ふんわりとした優しさとこのソースの辛さがあたしにはどうしてもミスマッチに思えてしまうのです。

ふわふわの生地。  記念撮影。お店の人が撮ってくれた。関西人だった。

不完全燃焼で幕を閉じようとしている粉モノめぐりに救世主あらわる。地元の若い子とか観光客とか、とにかく店の前で美味しそうなたこ焼きを食べているひとがたくさんいるお店を発見。その名も「赤鬼」。なんとも派手な店構え、そしてあたしの目を釘付けにしたこのメニュー「ちゃぷちゃぷ」(6個で400円)。その名の通り、焼きたてのたこ焼きがあっさりした鰹ダシにちゃぷちゃぷ浸かっている。明石焼きともちょっと違う。カリッと焼かれたたこ焼きの表面がダシを吸って、ふんわりと香ばしく。この日は風が強かったので、このあったかさが体中を駆けめぐる。初めてのたこ焼きに大満足なあたし。

あったかい「ちゃぷちゃぷ」。夏はかき氷が乗るらしい。  「赤鬼」さん。  今度はもっと食い倒れたい。

食い倒れ人形やらカニやら河豚やら、さすが大阪と思わせる看板をパシャパシャとカメラに収めつつ、急ぎ足で道頓堀を後にする(カニ道楽の前に2本で500円のカニ足焼きがあったのに17時からの営業で残念賞)。会議に出なくちゃいけないので。

やっぱり半日では堪能できない大阪。今度はパパとあゆむさんと三人で救急車に運ばれるほど食い倒れたい。

+ + +

今回出席した会議というのは、実はちょっとした表彰のために行ったのだけれども(日本で第8位になったのだ)、副賞でいただいたのはディズニーリゾートのパスポートだった。ちょっと前までは次回の大阪に意気込んでいたあたしだけど、あたしはいまミッキーに会えることを心待ちにしている。
 
posted by Dr.DubWise at 00:20| Comment(0) | TrackBack(0) | day | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月12日

「新福菜館」@キャナルシティ

雨の日にも関わらずじっとしていられなくて、キャナルシティへ行く。
ユナイテッドシネマでともちゃん&あゆむさんは『皇帝ペンギン』の再映を、ぼくは『サッド・ムービー』を観る。『サッド・ムービー』は以下のエントリーを参照ください。『皇帝ペンギン』、ぼくは観ていないけれどもともちゃん曰く、とても良い映画らしくてそっちを観ればよかったなあとか思ってしまった。
ま、『サッド・ムービー』は招待券をもらっていたので、タダ観だったけどさ。

新福ラーメン@新福菜館。

お腹がすいたのでひさしぶりにラーメンスタジアムへ。いままで気がついていなかったけど、ここって「ラースタ2」なのね。たしかにお店も何軒か入れ替わっている。

食したのは迷った末に、京都ラーメン「新福菜館」。
スープは鶏ガラと豚骨ベースの醤油ラーメン。濃口醤油が効いていて、かすかに苦味すらある。ともちゃん曰く「少し醤油を焦がしているの?」。だけど脂っこくもなく優しい味。店内のインフォメーションによると「鶏ガラと豚骨を特注の三連釜でじっくり煮込んだまろやかなスープ」とのこと。

麺は中太で、表面はつるっ、噛み切るときはプリッという食感。ちょっと変わっている。なんていうか、わりと「軽い」麺。
トッピングは、チャーシューともやし、九条ネギ(量は多い)。チャーシューは煮豚系で薄くスライスされている。とてもジューシー。脂身が甘いけどクドクはない。ぼくの好きな系統のチャーシューです。

京都ラーメンというと、ぼくはすぐに「天下一品」のドロドロ濃厚なスープを思い浮かべてしまうけど、「新福菜館」のラーメンはとてもあっさりしていて美味しい。「郷家」よりもあっさり目かな。

チャーハン@新福菜館。

チャーハンは、たぶんラーメンの醤油タレを使ったもので香ばしい。具は卵、チャーシュー、九条ネギとシンプル。あゆむさんはバクバク食べていた。

餃子@新福菜館。

餃子は普通サイズ、つまりミニ餃子じゃない。皮も普通なんだけど、あんがオオッと感じる美味しさ。豚肉とキャベツ、それにニラとニンニクのシンプルなあんなんだけど、とても軽い。口の中に入れるとほろっと崩れる。キャベツの甘味も生きているし、ニンニクが強烈に効いていて箸がすすむ。あんだけなら西新の「馬上荘」に雰囲気が似ているかもしれない。

オーダー処理のミスがあったらしくて、餃子は待たされてしまった。けど、お詫びにってもう一皿つけてくれました。こういうの嬉しいですね。ありがとうございました。

+ + +

帰り道、クリスマスのイルミネーションを眺めながら帰る。きょうのあゆむさんのお土産は、なぜか昔懐かしいビー玉。
ぼくらのお土産は、三越で買ったチーズケーキ。

ずいぶん寒くなったものです。コート出さなきゃ。
今年のあゆむさんは「ZARA」のとっておきのダッフルで、あったかい冬が過ごせるでしょう。

キャナルのノベルティは小さなクリスマスツリー。  キャナルの巨大なクリスマスツリー。  街を疾走する。  天神周辺はもうクリスマス。

ともちゃん&あゆむさん@警固公園。
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2006年11月11日

あのホイッスルは反則だ――クォン・ジョングァン 『Sad movie サッド・ムービー』

クォン・ジョングァン 『Sad movie サッド・ムービー』

『ラヴ・アクチュアリー』と『マグノリア』を足して2で割ってそれをさらに劣化させたような脚本に、大味な韓流演出を施した映画。
いや、韓国の映画に繊細な演出なんてありえないんだけど。

ぼくが、恋愛モノで面白かったと心底思える韓流映画は『猟奇的な彼女』くらいだ(この映画の脚本は、たしかに欠陥があるとはいえパワーがあった)。だから別に、この映画を観て失敗したとか時間を損したとか、そんなことは思わない。これはこれで、いい。

ある雨の日、3組の男女と1組の母子が別れを迎える。この4組は、たとえば『マグノリア』における〈驚異の糸〉みたいな伏線によって結ばれているわけではない。伏線は映画の快楽を支える重要な要素のひとつだけど、この映画は最初っからそれを放棄しているように思える。監督や脚本家はそんなところにカタルシスを求めていたわけでもないんだろう。だから、これはこれで、いい。

クォン・ジョングァン 『Sad movie サッド・ムービー』

じゃあ、監督や脚本家がこの映画で目指したカタルシスはなにかというと、それは「涙」ってヤツだ。涙をいかに流させるか。その一点にのみ、その演出も台詞も動員される。

だから演出や脚本が大味であっても、たとえば雨が非常識なくらい土砂降りでも、登場人物の一人が消火器を振り回してどう考えても相手を怪我させているのに警察ざたにはならないことも、聾唖者がなぜか遊園地で着ぐるみを着て普通に働くことができることも、さほど問題ではない。それが涙につながるのなら、許されるのだ。

そういう思いっきりのよさが、これまで日本人には新鮮だったのだろう。韓流ドラマや映画は、その思いっきりのよさに支えられている。
が、そろそろ飽きないか? 韓国本国ではどうなんだろうなあ。新しい演出の傾向って生まれていないのかなあ。たとえば、演劇なんかはどうなってんだろう。日本ではほとんど韓国の演劇事情は紹介されないけれども。

クォン・ジョングァン 『Sad movie サッド・ムービー』

それでも相変わらずこの映画でも、すすり泣きが聴こえていた(主に女性)。かくいうぼくも、子どもが大雨のなか地団駄を踏んで泣くシーンにはやられてしまったクチだが。

聾唖の少女スウン役のシン・ミナがキュートだなあ。何年か前『火山高』っていうおバカ映画(だけど個人的には好きな映画)に出てたね。ずいぶん大人になりましたなあ。

Sad movie/サッド・ムービー (2005/韓)
Sad movie

制作 チョン・フンタク / クォン・ジョングァン
監督 クォン・ジョングァン
原案 オム・ジュヨン
脚本 ファン・ソング
出演 チョン・ウソン / チャ・テヒョン / イム・スジョン / シン・ミナ
   / ソン・テヨン / ヨム・ジョンア / イ・ギウ / ヨ・ジンウ
配給 ギャガ・コミュニケーションズ
クォン・ジョングァン 『Sad movie サッド・ムービー』
 
タグ:韓流 映画
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2006年11月10日

The Creator Has a Masterplan

Pharoah Sanders (1940 - )
Pharoah Sanders (1940 - )

ぼくは大事な音楽のほとんどに、中高生の頃出会っている。ファラオ・サンダースの「The Creator Has a Masterplan」をはじめて聴いたのも高校生の頃だった。

部活中の美術室は治外法権状態で、ありとあらゆる音楽がスピーカーから流されていた。ぼくは美術部じゃなかったけど美術室にいる時間が多かった。趣味の合う友人がいたからだ。
顧問の先生は若かったがジャズ好きで、なのにスウィングやビッグバンドジャズが大好きという「アナクロな」ひとだった。

マイルスの『On The Corner』や阿部薫を流すと「こりゃ雑音だね」と言って耳栓をして絵を描くような顧問だったが、珍しく「悪くないね」と言ってくれたのがファラオ・サンダースの「The Creator Has a Masterplan」だった。何故、顧問がそんなふうに思ったのか、いま考えてもよくわからないけど。

これはフリージャズ、じゃあない。ジャケットを見てもわかるように、徹頭徹尾コンセプチュアルな音楽だ。
もうひとつ。ファラオの「The Creator Has a Masterplan」を盲目的に信仰しているリスナーには申し訳ないけど、これってほんとに「スピリチュアル」かなあ? どちらかというと、ぼくにはサン・ラ的な大風呂敷系ハッタリの臭いがプンプンするのだが。

でもね、これはほんとに凄い音楽なんだ。マジでヤバイ。クールだけど熱い。
音楽の歓びをむちゃくちゃ感じる。コンセプチュアルでありながら、戸外で一心に遊ぶ子どもたちのような無垢さ。そんな子どもたちに天から光が降り注ぐ。スピリチュアルってよりも、サブライム!

+ + +

大学に入ってクラブ・ムーブメントが盛り上がると、UKのアシッド・ジャズ・レーベルDORADOからこの曲のカバーがリリースされた。Brooklyn Funk Essentialsによるこのカバーは、クラブで本当によくまわされてた。
軽薄かもしれないけど、この軽さ、いまでもぼくは大好きだ。

で、routine。
当時、日本のクラブシーンを牽引していたDJ、小林圭と荏開津広を中心に故・青木達之や鄭秀和(現amadanaデザイナー)、James Vyner、イリシット・ツボイなどが集ったコンピレーション。このアルバム、かつて竹村延和が激賞していたけど、いま聴いてもほんとに素晴らしい。なぜブッ○オフで380円で売っているのか、マジでよくわからない。3800円の間違いじゃないの?
このアルバムにも「The Creator Has a Masterplan」のカバーが収録されている。カバーしたのはNatural Calamity。う〜ん、いい。

+ + +

ファラオ・サンダースって、コルトレーンの亜流と思われてるのか、正統なジャズファンには敬遠されてるようだ。むしろクラブ系のリスナーからよく支持されている。
ま、誰が支持しているかなんてどうでもいいけど、なにものにも奉仕しない音楽、ただ「音楽で在る」ために存在している音には、素直に頭を垂れるしかないでしょう。ファラオ・サンダース(特にインパルス時代の彼)はそんな音楽を志向していると思う。って、オレもしっかり信仰してるじゃないかよ(^_^.)

Pharoah Sanders 『Karma』Karma
Pharoah Sanders

Impulse!
1995-11-07
ASIN: B000003N7C
by G-Tools


Brooklyn Funk Essentials 『The Creator Has a Masterplan』The Creator Has a Masterplan
Brooklyn Funk Essentials

Dorado
1994-05-01
ASIN: B00005726A
by G-Tools


routine 『routine』routine
routine

ビクターエンタテインメント
1994-11-23
ASIN: B000006ZJ2
by G-Tools

 
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2006年11月09日

鷲田清一 『感覚の幽い風景』

大阿蘇の夕暮れ

いまここにある意識がいまここにはないものに向かって意識を張りめぐらす、そういう関係のなかで震えは起こる。たとえばなにか得体のしれないことが起こる、なにか壊滅的なことが起こるという予感のなかで、不安や恐怖よりも先にからだのほうが自体を察知したかのように震えだす。感極まったところでひとはがくがく痙攣するが、その寸前、さざ波のように押し寄せるその予感のなかでもからだは震える。快感、激痛、大泣き・大笑いの寸前に。
わたしたちの感覚には、なにかの予兆に、からだが先に反応してしまうところがある。感覚は、その意味で、現在に閉じこもってはいない。いまここに与えられているもの(データ、つまり与件)に感覚が閉じ込められていて、それを、未来や過去、あるいはいまここにはない物、つまりは不在のものへと関係づけるのが意識のはたらき(想像力や記憶)だとする考え方、それは感覚のあり方にそぐわない。不在への関係は感覚そのものに含まれている。いいかえると、感覚という身体的な出来事そのものがいまここにないものとの関係、つまりは記憶や想像といった契機を孕んでいるのだ。
+ + +

鷲田清一の、エッセイとも哲学書ともいえる本を読む。
すばらしい美文。ため息をつきながらあっというまに読んでしまった。再読、再々読すること。

鷲田清一『感覚の幽い風景』感覚の幽い風景
鷲田清一

単行本: 211ページ サイズ (cm): 19 x 13
紀伊國屋書店
2006-06
ASIN: 431401007X
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2006年11月08日

自分を落としてしまった話。

「取られてゆきし山々を…」(稲垣足穂によるパステル画)
「取られてゆきし山々を…」(稲垣足穂によるパステル画)

ぼくは子どもの頃、かなりなオカルト愛好家だった。いま考えると笑っちゃうけど。澁澤龍彦をはじめて知ったのも『黒魔術の手帖』とか『秘密結社の手帖』とか、オカルティックな内容の本でだったし。雑誌「ムー」もお金があれば買っていた。たしか最初に買ったのは「超古代シリウス星人の地球植民計画」とかなんとかいう特集で、これでドゴン族とシュメールの名前をおぼえたのでした。恥ずかしいなあ。

で、その頃のぼくをおびえさせたオカルト情報に「ドッペルゲンガー」ってのがある。いわゆる「分身」ってやつ。wikipediaによるとこんな感じ。

ドッペルゲンガー(Doppelgänger)は、ドイツ語で、生きている人間の霊的な生き写しを意味する。

ドイツ語の「ドッペル (doppel)」は、英語の「ダブル (double)」に該当し、その存在は、自分と瓜二つではあるが、邪悪なものだという意味を含んでいる。また、自分の姿を第三者が見たように見えてしまう現象のことを言うときにも使われる。自ら自分の「ドッペルゲンガー」現象を体験した場合には、「その者の寿命が尽きる寸前の証」という民間伝承もあり、未確認ながら、数例あったということで、過去には恐れられていた現象でもある。
子どもの頃のぼくは、ドッペルゲンガーに心底おびえていた。
「もうひとりの自分がどこかにいる」という幻想も恐ろしかったけれども、もっと恐ろしかったのはその「もうひとりの自分」がどんな風に生まれるのか、「もうひとりの自分」の記憶はいったい何処に行くのか、何処に保存されているのかということだった。

あの恐ろしさ、得体の知れなさをどう表現したらいいんだろう。ぼくはとっくの昔にドッペルゲンガーへの恐怖を感じなくなったけれども、遠い昔のあの恐怖感は生々しく思い出せる。
ぼくを恐怖させたのは、ドッペルゲンガーを見たら死んでしまうという伝承ではない。恐ろしかったのは「もうひとりの自分」の発生の秘密だったし、その終わりの秘密だった。彼はどのように生まれ、死ぬのか。ぼくはそのとき何か感じるのか。
あのおびえ方は、いま考えると普通じゃなかった気がする。

だからぼくは『一千一秒物語』のこんなコントを、ドッペルゲンガーの生まれる瞬間だと思った。

  ポケットの中の月

 ある夕方 お月様がポケットの中に自分を入れて歩いていた 坂道で靴のひもがとけた 結ぼうとしてうつ向くと ポケットからお月様がころがり出て 俄雨にぬれたアスファルトの上をころころころころとどこまでもころがって行った お月様は追っかけたが お月様は加速度でころんでゆくので お月様とお月様との間隔が次第に遠くなった こうしてお月様はズーと下方の青い霞の中へ自分を見失ってしまった
これはドッペルゲンガーの生まれる様子なんだろうか?
そもそもドッペルゲンガーは、精神病理学的には「自己像幻視(オートスコピーAutoscopy)」として知られている。統合失調症(分裂症)の急性期に見られることが多いとされている症状である。

そういえば数年前、某地方都市の古本屋で、稲垣足穂の精神病理学的な分析を行っている本を発見した。書名は失念したが、高木隆郎によるものだったと思う。ひょっとすると自費出版の類だったろうか?
ぱらぱらと立ち読みしてみたが、足穂の分裂症気質を延々指摘した内容だった。ふ〜ん、と思ったものの購入しなかった。その後どの古本屋でも見かけない。ちょっと後悔している。

お月様は、靴ひもを結ぼうとして自分を落としてしまう。どちらが「本当の」お月様かぼくらにはわからない。落としたほうも転がったほうも、同じお月様であるように思える。
このコントの話者は、落としてしまったお月様でも転がってしまったお月様でもない。作者たる足穂である。

ぼくにとって重要なのは、靴ひもを結ぶなんてごく些細なことでドッペルゲンガーが生まれてしまうことだ。
実はぼくらは、常にドッペルゲンガーを生んでいるのではないか。つい居眠りしてしまったとき、石につまづいてしまったとき、トイレに入ったその瞬間、それと知らずにドッペルゲンガーが生まれているのではないか。そんな不穏さ、不安を感じてしまう。

ではこのコントはどうか。

  自分を落としてしまった話

 昨夜 メトロポリタンの前で電車からとび下りたはずみに 自分を落としてしまった
 ムーヴィのビラのまえでタバコに火をつけたのも―かどを曲がってきた電車にとび乗ったのも――窓からキラキラした灯と群集とを見たのも――むかい側に腰かけていたレディの香水の匂いも みんなハッキリ頭に残っているのだが 電車を飛び下りて気がつくと 自分がいなくなっていた
話者は誰か。「自分」ではない。「自分」はどこにもいないのだ。しかし〈自分〉でしかありえない。〈自分〉には記憶が残っているからだ。
もしかすると、この話者たる〈自分〉こそがドッペルゲンガーなのかもしれない。取り残された〈自分〉は偽者の「自分」である。話者であるからこそ〈自分〉は偽者であるのかもしれない。

  自分によく似た人

 星と三日月が糸でぶら下っている晩 ポプラが両側にならんでいる細い道を行くと その突きあたりに 自分によく似た人が住んでいるという真四角な家があった

 近づくと自分の家とそっくりなので どうもおかしいと思いながら戸口をあけて かまわずに二階に登ってゆくと 椅子にもたれて 背をこちらに向けて本をよんでいる人があった 「ボンソアール!」と大きな声で云うと向うはおどろいて立ち上ってこちらを見た その人とは自分自身であった
一見、典型的なドッペルゲンガーである。
しかし「よく似た人が住んでいる」と告げたのは誰か。まったくの第三者なのだろうか。だとしたら「その人」とは、物質化したドッペルゲンガーなのだろうか。(病理学的に自己像幻視において幻視される像は、確信的に自己であると認識される。たとえ影のようなドッペルゲンガーであっても。)

それにしても妙に平板な印象を与えるコントである。それは「近づくと自分の家とそっくりなので」という記述があるからか。かの世界は、おそらくこの世界の鏡像となっているのだ。
この世界には隣り合った鏡像世界があるということだろうか。鏡像世界、というよりも足穂用語を使って「薄板界」と言ったほうがすっきりする。「この世界は無数の薄板の重なりによって構成されている。薄板界はいわば夢の世界である。」(「タルホと虚空」)

  どうして酔よりさめたか?

 ある晩 唄をうたいながら歩いていると 井戸へ落ちた
 HELP!HELP! と叫ぶと たれかが綱を下ろしてくれた 自分は片手にぶら下げていた飲みさしのブランディびんの口から匍い出してきた
さらに世界は変容する。持っているビンが巨大化したのか、自身が小さくなってしまったのか。「飲みさしのブランディびん」は、いま誰が持っているのだろうか。「たれか」とは誰か。これもまた、ドッペルゲンガーに関するコントではないのか。

足穂のテキストは、常にモダニズムの文脈で語られてきた(阪神間モダニズムの旗手とされてきた)。たしかに初期の足穂のテキストは、情緒的なものを徹底的に排していて、お洒落でモダンでフラジャイルだ。
しかし、その根源的不穏はいまだに注目されていない。足穂はたしかに分裂症気質ではあったろうけれども、この根源的不穏はむしろ離人症的感覚ではないか。契機とはいえない契機をきっかけに、カチリと自己や世界が変容する。
解離性同一性障害(DID)と足穂という見方も刺激的ではないか。

「一千一秒物語」稲垣足穂コレクション(1) / 稲垣足穂「一千一秒物語」稲垣足穂コレクション(1)
稲垣足穂

体裁=文庫: 382ページ
ちくま文庫(筑摩書房)
2005-01
ASIN: 4480420266
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posted by Dr.DubWise at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | tarouphology | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

お屠蘇の話。

酒造の様子(画像石)
酒造の様子(画像石)

ぼくが子どもの頃は、正月にかならずお屠蘇を飲んだ。大晦日の夜、「赤酒」に屠蘇散という薬袋を入れておくと独特の香りのついたお屠蘇ができる。屠蘇散は暮れになると「赤酒」に付いて売られていた。
うちにあった屠蘇器は古い朱塗りのもので、お正月の朝、三段重ねのいちばん小さい杯でクスリ臭いお屠蘇を飲むわけだ。

この「赤酒」、普段はほとんど飲まなかった。お屠蘇以外で飲んだことがない。大人もあまり飲んでいなかったと思う。
社会人になって、郷土料理を出すお店で赤酒で煮た「くっぞこ(したびらめ)の煮つけ」を食べた。身がふっくらしていてずいぶん美味しかった記憶がある。

+ + +

「赤酒」について、最近、青木正児先生の『華国風味』を読んでいて、紹興酒について書かれたテキストにこんなものを見つけた。

我が国でも熊本の「あくも」と称する酒は、私の亡父の話では灰汁(あく)を入れて防腐してあり、年数を経るに従って色が赤くなり、味も甘さを増して好くなるとのことで、私も五高の学生時代これを「あかざけ」と呼んで、そのまだ余り赤くない安物を折々飲んだが、それでも普通の清酒よりは甘味が強く、口あたりは好かったように思う。こういう経験を持つ私は、紹興酒に石灰の入っているぐらいには驚かなかった。
「あくも」とあるのは「灰汁持酒」のこと。その製法等についてはwikipediaの項に譲るけれども、「赤酒」も製法の過程で防腐剤として木灰を混入させるとのことだ。青木先生は紹興酒も製法の過程で防腐のため石灰を用いる旨を指摘されている。もしそうなら、ぼくは灰汁持酒と紹興酒にはなにか関係があるんじゃないかと考えてしまう。が、少なくとも現在の紹興酒は加熱による殺菌を採用しているとのことで、青木先生の説をまだ裏づけていない。石灰を混入させるのは古い製法なのかもしれない。

+ + +

この赤酒について、いろいろ調べてみるのも楽しいのだけれど、今回はお屠蘇について。みなさんはどんなお屠蘇を飲んでいただろうか。
訊いてみると、ずいぶんひとそれぞれ違うもんだ。曰く、普通の日本酒、日本酒に薬袋で香りをつけたもの、どぶろく(たぶん濁り酒のことだろう)、ちょっと値段の高い味醂、味醂に薬袋で香りをつけたもの、などなど。

薬袋というのが屠蘇散のことだろう。興味のある方はwikipediaの「屠蘇」の項を読んでほしいけれども、屠蘇の由来は『三国志』にも出てくる華佗の処方した薬にあるという。
以前、なにかの本でも同じような記述を見た記憶がある。書名は失念したけど。

ところが最近古本屋で100円で入手した諸岡存の『茶とその文化』(昭和16年、大東出版社刊)には、かなりおもしろい説が書かれているので紹介してみよう。
まず諸岡存はこうはじめる。

唐陸羽の『茶経七之事』に、『晋書、藝術傳』を引いて、『敦煌の人、丹道開は寒暑を畏れず、常に小石子を服す。松、桂、蜜の氣あり。餘す處は茶蘇而巳』といふ文がある。
丹道開は西晋終わり頃の僧侶で西域の人。彼がモンゴルに茶の風習を広めた。モンゴルでは宋・明の時代に絶頂に達する。丹道開の逸話とともに、「小石子」について書かれている。諸岡によれば「小石子は、蒙古地方に見られる固形牛乳に松の實や、桂皮や、蜜、薑、茯キン(クサカンムリに今)等の藥品を混ぜた桐の實大の丸藥様のもので、一日に數丸を飲む」とある。さらに丹道開は、この小石子と「時々茶蘇一二升を飲むばかりである」と。

では「茶蘇」とは何か。茶の古い字体は「ト(クサカンムリに余)」である。すなわち茶蘇とは「ト蘇」のことである。

ト蘇は三國の魏から晋代にかけて、漸く廣く支那一般、特に南支で用ひられたものらしく特に佛事に關して多く用ひられ、又茶粥とも茶果ともいつたのである。ト蘇といふものは大體以上述べたやうな意味のものであるが、屠蘇とト蘇との間には頗る面白い關係が見出されるのである。
この「面白い關係」とは何か、諸岡はいくぶんもったいぶった書きっぷりでこう続ける。

先づ『屠』の字の意義から説明した方が便宜である。屠といふ字は、今でも地名や人名によく残つてゐる。地名としては、一般に蒙古に多く、特に陝西省や山西省に多い。例へば、陝西省コウ(*1)陽縣に屠谷といふ地名があるが、それは又ト山渡ともいふのである。
(中略)
屠蘇の『蘇』は、紫蘇、白蘇、鶏蘇といふやうに、野菜であつて、薄苛屬の香料が多い。ところで、後に『屠』は同音の『ト』に變わつたのである。
トは一般に苦菜といつて、苦味ある野菜をいひ、茶が未だない時代に茶の代用に立つたものと思はれる。これ等は何れも野菜の代りに蒙古人が使つてゐるものであるらしい。
そこで、其のトが更に變つて『茶蘇』になつた譯である。併し又一方屠蘇といふ字も其の儘保存されて、古い意味の酒に用ひられている。これはト(*2)酥とも書く。即ち西域の酒である。今日いふヨーグルトのやうなもので、獣類の乳汁を発酵させて造つた酒である。今日民間に用ひられて居る屠蘇酒の起源は、三國の魏の有名な醫者、華陀が始めたといふことであるが、後には粱の陶隠居や唐の孫眞人等がこれを擴めたものといはれてゐる。
そして、其の處方は、主に山椒や防風、烏頭などいふやうな、身體を温め、又毒を消す藥である。これを散藥と稱し、布の袋に入れて年末除夜の井中に吊し、元旦朝早く酒に浸して飲む事になつてゐた。

 (*1) 合にオオザト
 (*2) サケヘンに余
この説の真偽については少々疑わしくも思う。「屠」字と「ト(クサカンムリに余)」字が同音であるかどうか、ぼくは調べていないのでなんとも言えない。諸岡存も華佗について触れてはいるが、華佗と西域(あるいはモンゴル)医術との関係となると未知数だ。華佗はもともと雲南の人である。
それでもかなり興味深い説であるとは思う。

真偽を探求するには、当時の医術書を中心に文献を相当渉猟する必要があるだろう。今後の課題とする。
諸岡存は戦前の九州帝大医学部精神科の教授で、『ドグラマグラ』の夢野久作が取材した人物。食に関する著作、特にお茶に関する著作が多く、陸羽の『茶経』の評釈は戦前よく読まれた。彼も興味深い人物なんだけれども、エントリーはまたいつか。

青木正児『華国風味』華国風味
青木正児

単行本: 237ページ サイズ (cm): 19 x 13
岩波書店
2001-04
ASIN: 4000071831
by G-Tools

 
posted by Dr.DubWise at 00:32| Comment(0) | TrackBack(0) | buono ! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月05日

九重で秋を探す。

すすき野。

大観峰、九重、産山へ行く。暖かな秋の日。

大観峰にて。  サイヨウシャジンが綺麗。  大観峰のソフトはとても美味しい。

おにぎり。

すすき野のあゆむさん。  長者原のすすき。  すすき野を歩く。

長者原の椎林。  どんぐりを拾う。  アオクチブトカメムシ。

秋の日。

カワラタケ。

牧ノ戸にて。  紅葉をバックに。  産山牧場にて。
 
タグ:阿蘇 九重 写真
posted by Dr.DubWise at 12:39| Comment(2) | TrackBack(0) | day | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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