2007年03月11日

謎のカティリーナ。

Cicero Denounces Catiline by Cesare Maccari
"Cicero Denounces Catiline" by Cesare Maccari

Quo usque tandem abutere, Catilina, patientia nostra? quam diu etiam furor iste tuus nos eludet? quem ad finem sese effrenata iactabit audacia? Nihilne te nocturnum praesidium Palati, nihil urbis vigiliae, nihil timor populi, nihil concursus bonorum omnium, nihil hic munitissimus habendi senatus locus, nihil horum ora voltusque moverunt? Patere tua consilia non sentis, constrictam iam horum omnium scientia teneri coniurationem tuam non vides?

いったいどこまで、カティリーナよ、われわれの忍耐につけ込むつもりだ。 その狂気じみたおまえの行動がいつまでわれわれを翻弄できようか。どこまでおまえは、放埓で不敵な態度を見せびらかすつもりだ。おまえはいささかもうろたえなかったのか。パラーディウム丘を守る夜の警備隊にも、都を回る偵察隊にも、民衆の恐怖にも。おまえには何の動揺も与えなかったのか。あらゆる良識ある人々が集まってきて、厳重に警護されたこのような場所で元老院が召集されたことが。そして、ここにいる人々の顔つきと眼差しが。おまえの計画は暴かれている。それに気づかないのか。おまえの陰謀はすでに、ここにいるすべての人々に知れ渡り、食いとめられている。それが、お前にはわからないのか。
ぼくはこのルキウス・セルギウス・カティリーナという人物に、ずいぶん以前から惹かれてきた。カティリーナはまったく一方的に貶められているように思えたからだ。イプセンはこう書いている。

カティリーナの性格と行動に対する私の意見は、古代ローマの作家たちとは異なっていた。キケロは絶えず多数派の意見を代弁し、カティリーナとの対決は攻撃しても危険ではないという状況になるまで回避したが、キケロにそうさせた男には、何か普通の人が及ばない偉大なものが備わっていたに違いないと、今でも思う。また、カティリーナほど死後の評判が自分の政敵によって左右された歴史上の人物はほとんどいないことも忘れてはいけない。
同時代の資料としては、このキケローによる「カティリーナ弾劾」の演説とサッルスティウスの『カティリーナ戦記』(同時代といっても、すでに書かれたのはカティリーナ事件の20年後のことである)くらいだ。キケローの弾劾演説をもとに、カティリーナは共和制の転覆を企てたというだけではなく、本質的な無政府主義者であらゆる悪徳を兼ね備えた粗野な人物として伝えられているんだけれども、ぼくにはどうもそんな風には思えない。キケローの演説の中にも、カティリーナをずいぶん歪曲したかたちで非難しているのが明白な箇所がある。サッルスティウスの『カティリーナ戦記』は邦訳がないので(誰でもいいです。なにがなんでも翻訳してください!)ぼくも実際に読んだわけではないけど、カティリーナについてサッルスティウスはこう記述しているという。

ルキウス=カティリーナは名門の出自で、精神面でも身体面でも大きな力を持っていたが、性根は邪悪で歪んでいた。この男は、若年期から、内戦、殺人、略奪、市民の不和を好んでいて、それらの中で自らの青年期を過ごした。身体は、他人には信じられない程、飢えや寒さや不眠に耐えた。精神は、大胆で狡猾で捕らえ所が無く、いかなることをも偽り隠すことができ、他人の物を欲しがり、自分の物を浪費し、様々な欲望に燃えていた。弁舌には長けていたが、分別はあまりなかった。
ルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクスの独裁官時代、彼の民衆派大量粛清にカティリーナは協力した。スッラは民衆派の政敵ガイウス・マリウスによる軍隊の私兵化(すなわち共和制を崩壊させようとする動き)に対抗したのである。カティリーナがなぜスッラに同調したのか、それが日和見主義的な(あるいは現実主義的な)判断によるものであったのか、それとも政治的な信念であったのかわからない。ともかくも、自分の妻の兄弟や自分の姉妹の夫らも殺害したといわれている。マリウスと同様、カティリーナの政敵であったキケローは、先祖に元老院議員のいない「新人novus homo」であった。ゆえにキケローに反感を抱いたことはありえる。(しかも彼に執政官選挙に破れてもいるのだ。)
結果的にキケローは、カティリーナを排除した功績により元老院から「祖国の父pater patriae」の称号を得ることになる。皮肉なことだ。

この時期のローマ史をじっくり検討してみたいけど、とにかく資料の翻訳を待っているところだったりする。カティリーナという、まったく正体不明の人物だっていることだし。誰か一緒にラテン語の勉強する人いませんか?

Marcus Tullius Cicero, B.C.106 - 43
Marcus Tullius Cicero(B.C.106 - 43)

キケロー(著)『キケロー弁論集』キケロー弁論集
キケロー(著)
小川正広・谷栄一郎・山沢孝至(訳)

文庫: 435ページ 14.8 x 10.6 x 2 cm
岩波書店
2005-08
ISBN-13: 978-4003361160
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H. イプセン(著)『イプセン戯曲全集〈第1巻〉』イプセン戯曲全集〈第1巻〉
H. イプセン(著)
原千代海(訳)

単行本: 533ページ
未来社
1989-06
ISBN-13: 978-4624931018
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2007年03月07日

Jeff Bark

Untitled (Snap),2006
Untitled (Snap),2006

Untitled (Plug),2006
Untitled (Plug),2006

Untitled (Dusk),2006
Untitled (Dusk),2006

Untitled (Fawn),2006
Untitled (Fawn),2006

Untitled (Drag),2006
Untitled (Drag),2006

Jeff Barkというアメリカの画家の作品。
ほとんど無名なようだけど、古典的でどこか奇妙な画風が好み。ハイパーリアルタッチのバルテュスって感じか。
かなり残虐な(ogrish的な)モチーフの作品もある。このグロテスクが〈アメリカ〉なのかもしれない。
 
posted by Dr.DubWise at 22:04| Comment(0) | TrackBack(0) | imago mundi | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月04日

ぼくには〈私〉なんて必要ない。

駅にて

デイヴィッド・ヒュームの本とはじめて出合ったのは、祖父の家の納屋でだった。
狭くて暗い納屋に積まれたダンボール箱の山を片っ端に開けていて、古い岩波文庫の『人性論』を見つけたのだった。

この大量のダンボール箱にはいろんな雑多な本が入っていた。たとえば大量の月刊プレイボーイ誌、フィヒテとシェリングについての専門書、密教の関連書、加山又造の数冊の画集、ハンス・ベルメールの人形写真集、澁澤龍彦の本(とくに『エロティシズム』は衝撃だった)。
叔父の持ち物だったらしい。あまり好きになれない人だったが、本の趣味はよかった。

ヒュームの『人性論』を、何故叔父が読んでいたのかわからない。叔父の大学の卒論はフィヒテ研究だったから(草稿を見たことがある)、経験論だの懐疑主義だのとは無縁だったはずだ。しかし、赤鉛筆で傍線と書き込みが随所にしてある『人性論』は、深刻な〈なにか〉に駆られているようにも感じられた。若い頃の叔父の心の中でどんな嵐が起きていたのか、いまでも興味があるところではある。

+ + +

実は、ぼく自身ヒュームに接近した時期がある。大学で専攻したのはフランス現代思想で、ドゥルーズ哲学の基礎にある経験主義的思考がヒュームに起源することに興味を覚えたからだ。最近ドゥルーズ=ガタリの『哲学とは何か』を読み返していて、その念を強くする。

カントは、ヒュームという宿敵に衝撃を受けつつも、「哲学を独断論から救ったが、懐疑論という浅瀬に座礁させた」と切り捨てた。正確には「切り捨てようとした」というべきか。カントにとって経験論の涯ての懐疑主義は敗北だったからだが、ドゥルーズにとっての経験論は希望を意味する。

ヒュームは、習慣(ハビトゥス)が「私」を構成するとする。これはカントからハイデガーやサルトルにまでいたる大陸の超越論(〈私〉あってこその世界である!)に対する深刻な疑義であって、いまとなってはレヴィ=ストロース以降の構造主義のさきがけとも思える。

ドゥルーズの盟友フーコーは「人間は死んだ」と喝破した。これは古典主義時代の「人間」観の分析を通して、〈人間〉という概念が決して普遍的なものではないという(いまとなっては当たり前の)事実を示したのだった。これはこれまでの大陸の超越論的哲学への挑戦だったし、〈私〉にしばられたぼくらを解放しようとする試みだった。

ドゥルーズもまた。
さまざまな観念や出来事が集まりひとつのシステムを形成する。それが「私」であるということ。つまり「私」は変わりつづける。常に生まれ消える観念、突然に到来する出来事、連結し駆動する諸〈欲望機械〉が、「私」を生産し続ける。拓かれた「私」。ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』から引用する。

一体私はこれで何を言おうとしたのか。私たちがもがき続けているこの観念の世界から、新しい世界が出現しなければならないということでないとすれば。しかしこの世界は、受胎しなければ出現しないのである。そして受胎するには欲望しなければならない。
だからドゥルーズは「哲学とは何か」を考えるにあたって、精神医であるガタリとの共同作業を選んだのではなかったか。哲学とはそもそも「私」という生産物の相のひとつであり、であればこそガタリという他者が必要だったのだろう。

+ + +

ニューヨリカン・ソウルの永遠のクラシック「It's Alright, I Feel It」と「Runaway」を聴きながらこのブログを書いているわけだけれど、ここにも〈私〉の呪縛を離れたオンガクがあって実にたまらない気持ちになる。Masters At Workというニューヨークの天才的なDJチームと、同じニューヨークで活躍しているプエルトリカンのミュージシャンたちとのコラボレーション。他者たちがよってたかって作ったこのオンガクには、これっぽっちも〈私〉なんていやしない!

ジョセリン・ブラウンとインディアの天上にまで届くようなソウルフルで美しい声、ロイ・エアーズのブリリアントなヴァイブ、ケニー・ドープとルイ・ヴェガの素晴らしいアレンジメント。レコードの内ジャケを見てみよう。ディーヴァふたりと彼女を取り巻く陽気なおじさんたち(ほんとはスゴイひとたちなんだけど)、誇らしげなMasters At Workのふたり。
どんなに暗い気持ちになっていても、このオンガクのハイアーパワーで生きていける。

ぼくが〈私〉過剰ロックに否定的だったりするのは、ぼく自身経験論者だからに違いない。ぼくには〈私〉なんて必要ない。ぼくは、いつも生まれ変われる。

 Runaway

Yes I'm gonna mess around
Cause that's the way I want to be
Gonna try to get it down
Before I let it get to me
Don't want your love
Don't need it
That's the way I see it

Oh runaway
You better not hesitate
Better hurry don't wait now
Runaway
Before you find it's too late
Cause you know how love slows you down

And if I should change my mind
If I should want to turn around
You know it won't be hard to find
Find another loving clown
It's best to think what of it
The change you will love it

Oh runaway
You better not hesitate
Better hurry don't wait now
Runaway
Before you find it's too late
Cause you know how love slows you down

No I'll never settle down
Cause I'm just not the settling kind
I got places all over town
I knew just what is on my mind
Just look for those who want it
I should know I've done it

Oh runaway
You better not hesitate
Better hurry don't wait now
Runaway
Before you find it's too late
Cause you know how love slows you down

You better run
You better run run run away
Better hurry don't wait
You better run
You better run little girl
Come on ...
ジル・ドゥルーズ フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症』アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症
ジル・ドゥルーズ フェリックス・ガタリ
Gilles Deleuze Felix Guattari
宇野邦一(訳)

文庫: 416ページ 15 x 10.6 x 2.2 cm
河出書房新社
2006-10-05
ISBN-10: 4309462812
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ジル・ドゥルーズ フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症』アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症

ジル・ドゥルーズ フェリックス・ガタリ
Gilles Deleuze Felix Guattari
宇野邦一(訳)

文庫: 416ページ 14.8 x 10.4 x 1.4 cm
河出書房新社
2006-10-05
ISBN-10: 4309462804
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ジル・ドゥルーズ フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』哲学とは何か
ジル・ドゥルーズ フェリックス・ガタリ
Gilles Deleuze Felix Guattari
財津理(翻訳)

単行本: 318ページ 21.2 x 15 x 2.8 cm
河出書房新社
1997-10
ISBN-10: 4309241972
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Nuyorican Soul『Nuyorican Soul』Nuyorican Soul
Nuyorican Soul

Talkin Loud
2006-07-17

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