2007年04月22日

Midnight in a Perfect World

DJ Shadowなんぞを聴きながら夜が明けた。そんな日曜日の朝。
「Midnight in a Perfect World」には心の底から震わされる。


DJ Shadow - Midnight in a Perfect World
Directed by B+ (aka Brian Cross)


DJ Shadow - High Noon
Directed by Brian Cross


DJ Shadow - Six Days
Directed by Wong Kar-wai


DJ Shadow - Giving Up The Ghost
Directed by Anthony Arnold, Bob Benedict and Doug Poulson


DJ Shadow - Number Song
Live

で、これがニューシングル。ファンクマニアの面目躍如な快作。おもしろいのになぜこれを誰も認めないのか理由が分からない。これまでの「音響」がないから?
DJ ShadowはPVを公募していたらしく、この動画はコンペに出した一般人(?)の作品のようだ。


Dj Shadow This Time (I'm Gonna Try It My Way)

DJ Shadow「Endtroducing...」Endtroducing...
DJ Shadow

Mo' Wax
1996-11-19
ASIN: B000005DQR
by G-Tools


DJ Shadow「Private Press」Private Press
DJ Shadow

Mca
2002-06-04
ASIN: B000067AT9
by G-Tools


DJ Shadow「The Outsider」The Outsider
DJ Shadow

Universal Motown
2006-09-19
ASIN: B000HCO8IG
by G-Tools

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2007年04月18日

アビリーン

夕暮れ

別のとき、私は、父と一緒に、
ケープ・コッドのウェルフリートの海岸にいる。
私はまだ幼くて、父が私にくれた贈りものが
私の人生なのだと理解できない。浜辺が暗くなる。
怖くなって、私は父の手をとる。テキサスについて
父は冗談をとばす。父はアビリーンを憎んでいる。

あれから数年経って、私は
アビリーンのオレンジ色のホテルの部屋にいる。
私の旅は気休めにすぎない。私にはわかっている。
手をふれただけの見知らぬ人間でも、父は
かまわなかったのだ。お父さん、
いまもあなたは、闇を怖がる子どものままなのですね。
あなたの人生は、何だったのですか?

少年のとき、あなたの写真が、ライフに掲載された。
「アビリーンでもっともかわいい少年」として。
夏の白い服のせいで、あなたの目はとても暗く見える。
あなたの母親の目や、私自身の目のように。
あなたは母親と父親を、ついに許すことができない。
母親はあなたを折檻し、父親は見て見ぬふりをした。

私が恋におちるのは、きまっていいかげんな男たちだ。
男のいいかげんさが、私の母の人生をほろぼした。
あなたは、あなたの父親に似ず、酒も飲めなかった。
あなたはアビリーンを離れると、すでに決めていた。
それでも、私の母を悦ばそうと、最初は懸命になった。
しかし、孤独は灯台のように、闇を照らしだす。

闇のなかの海の響きは、手を握りあう
恋人たちの囁きのようだ。誤って私に与えられた
時のことを、私は考えないようにしてきた。
まして、じぶんが一つの生をやどらせるかどうか、
考えないようにしてきた。アビリーンに、海はない。
私は、あなたが私の父親になったときより、一歳若い。

私は自分の子どもを、闇の外につれだしたい。
しかし、一人の父親も、私は見つけられないだろう。
ときどき、そう考える。あなたにのこされ、あなたが
私にのこした辛い秘密が、アビリーンにある。
人生の淵に悲しみがある。時のほかに、
あなたから私を、自由にしてくれるものはない。

アビリーンの、ある暗い冬の夜、
私の父は、ニューヨーク・タイムズを読んでいた。
そして突然、その手で、人生を絶った。

 ヴィクトリア・コーン「アビリーン」
 Victoria Korn "Abilene"
長田弘の『詩は友人を数える方法』を読む。アメリカの地方詩人の詩を取り上げた紀行文。いや、全体としてどこか散文詩の印象もある。
ヴィクトリア・コーンはテキサスの地方詩人らしいが、それ以上のことは分からない。この詩は、おそらく長田弘による部分訳だろう。陰鬱な詩だが、心をうつ。

長田弘『詩は友人を数える方法』詩は友人を数える方法
長田弘

文庫: 336ページ 15 x 10.6 x 1.6 cm
講談社
1999-06
ISBN-13: 978-4061976696
by G-Tools

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2007年04月11日

わたしは涙と音楽を区別できない――松浦寿輝『謎・死・閾―フランス文学論集成』

Emile Michel Cioran(1911 - 1995)
Emile Michel Cioran(1911 - 1995)

E.M.シオランとミシェル・レリスは高校生の頃知った。シオランは『崩壊概論』で、レリスは『闘牛鑑』で。

シオランの思考が絶えず立ち戻ってゆくのは題名が示す通り「涙」と「聖者」という二つの固定観念である。「私たちを聖者たちに近づけるものは認識ではない、それは私たち自身の最深部に眠っている涙の目覚めである」という冒頭の一文がいわば書物全体の主題とトーンを決定しており、ここで批判の対象となっている「認識」とは、一つには宗教的教義、もう一つには哲学のことだと言ってよい。超越的絶対者の存在と対峙しながらキリスト教のイデオロギーには甘んじられず、また他方、明晰な認識に憑かれながら講壇哲学者のキャリアを受け入れることを肯んじえなかったシオランにとって、聖者とは、死と絶望からの超脱を現世のただなかで自分の身に実現してしまった存在、すなわち不可能性を端的に体現している究極のモデルである。その境地へといかにして近づくか。涙によって、と彼は言う。だがそれは、単なる苦しみとか嘆きといった心理の表現のことではない。彼はそれを「内面の雪崩」とも言い直しているが、涙とはいわば此岸の仮象にも彼岸への信仰にも満ち足りることのできぬ永遠の不服従者を襲う、心理的ならざる形而上的な――つまり心のではなく魂の――絶望の発作のようなものだ。シオランの聖者が、揺るぎない信仰の喜びに自足している求道者などではないことに注意しよう。この種のいわば神学的聖者たちに対する憎悪を彼は隠さない。『涙と聖者』はほとんど『マルドロールの歌』でも思わせるような超越者に対する闘争宣言の書であって、聖者とは断乎たる意思でこの苛酷な闘いを持ち堪えている一人の反=神学的な闘士なのである。「懐疑的魂の中の絶対への情熱! 癩病患者に移植された賢者!」
『崩壊概論』は高校の図書室の書棚の、それもいちばん下に見つけた。図書室は半地下の構造だったから、書棚の下の部分にはなかなか光が届きにくい。うっすら埃をかぶる棚を、かがんで見ていてこの印象的なタイトルの本を見つけたのだった。

まったく奇妙な本だった。呵責ない文明批判と現世への呪詛の繰り返し。合間に綴られる不眠と音楽への賛歌。閉塞感と開放感が同居するテキストに、ずいぶん衝撃を受けた。その後、学校近くの大きな図書館の閉架で見つけたシオランの本を読み漁った。それこそ金井裕と出口裕弘の訳した本。たしか『崩壊概論』以外に『苦渋の三段論法』、『実存の誘惑』、『歴史とユートピア』、『時間への失墜』 を読んだはずだ。どの本にも現世への呪詛に満ちていた。書かれた年は違うはずなのに。
シオランの本を読んでいたぼくを、図書館の司書の先生はずいぶん心配していたが。

十代に、本来なら生に輝くはずの時期にシオランのテキストに触れたのは、けっして不幸なことではなかった。ぼくがその後哲学なんぞを学んだのは、シオランの反-哲学がこころのどこかでずっと鳴り響いていたからに違いない。

Michel Leiris(1901 - 1990)
Michel Leiris(1901 - 1990)
"Portrait of Michel Leiris" by Francis Bacon

ミシェル・レリスの『闘牛鑑』は、美術の先生に貸してもらった本だった。もともとアンドレ・マッソンの絵を見たがっていたぼくに貸してくれたのだったが。もちろんマッソンの絵は素晴らしかったが、それ以上に幻想的なレリスのテキストにやられたのだった。その後『幻のアフリカ』を見つけて、これも夢中で読んだ。エチオピアの憑依現象の記述は途方もなかった。まったく途方もないテキストだった。

エクリチュールの闘牛士レリス。だが、まことに奇妙な闘牛士ではある。男性的な攻撃性を欠き、自分からは積極的な突きを入れることなく飽きずに〈パセ〉を繰り返し、その緩慢な反復のリズムに耽溺しかけているかに見えながら、しかし絶えず神経を研ぎ澄まして眼前の牛の角の脅威に怯えつつ、しかもゲームを放棄して競技場から逃れ去ろうとは夢にも思わず、踏みとどまって闘いならさる闘いを持ち堪え続けているマタドール。彼が手にしている剣ならざるペンは、死の身体には決して触れることはない。死の直前でいつでも逡巡し、回避し、周囲を迂回し、ひとたび離れてはまたゆるやかに接近してくるのだ。機敏さも豪胆さも備えていない、緩慢で内気な闘牛士。そう、彼は臆病なのではなく、内気なのだ。つねにおずおずとしているのである。死が怖くないわけではない。死は恐ろしい。だが他方、いつか死という名のその暗い灼熱の太陽に素手で触れてみたいというタナトスの欲望もまた内に秘めていないわけではない。真の問題は、だから臆病を克服することではなく、あまり距離を縮めすぎてしまいたくなる誘惑をみずからに禁じ、今にも触れそうでいて決して触れ合わず、直前で身をかわすという境界線上の演技をいよいよ上完璧なものへと練りあげてゆくことだ。内気さとは、そのつど自分に逆らって直前で身を引くために人が備えていなければならない慎みの徳のことである。行き過ぎた一歩を踏み出すことを思いとどまって危険という名の曖昧さの時空を維持し続けるために必須の、過激で官能的な資質のことなのだ。内気であることをもしやめたら、そのとたんにユディットが出現して彼の首を切りにかかるだろう。
松浦寿輝の『謎・死・閾―フランス文学論集成』を読んでいて、シオランとレリスの間に浮かび上がる線に気がつく。死をめぐっての所作だ。
シオランはベケットについて「感嘆すべきは彼が動かなかったことであり、いったん壁を前にしてもつねに変わらぬ雄々しさを失わずにいることである」と書いている。シオランもまたベケット同様に、自殺の自由について何度もその魅惑を説きながら、とどまり続けた。レリスが闘牛を愛したのもまた、松浦寿輝が書いているように、死を前にした注意深くしかも緩慢たる所作にほかならない。

シオランにしろレリスにしろベケットにしろ、ある意味「ヨーロッパそのもの」な思考ではないか。このような死の観念は日本にあるのだろうか。いまだに文学の主題としては、汲みつくされていないように思う。

松浦寿輝『謎・死・閾―フランス文学論集成』謎・死・閾―フランス文学論集成
松浦寿輝

単行本: 327ページ 21 x 15.2 x 3.2 cm
筑摩書房
1997-10
ISBN-13: 978-4480838032
by G-Tools

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2007年04月08日

キルフェボン@天神

キルフェボン

これも少し遅くなったけど、キルフェボンへ行ったレポート。
天神のキルフェボン、なかなかの盛況。あまり席数が多くないせいもあって40分ほど待たされたものの、美味いねえ。

日向夏のタルト

ペリカン・マンゴープリンのタルト

日向夏のタルトとペリカン・マンゴープリンのタルト。
特にペリカン・マンゴープリンのタルトは秀逸。マンゴーの香りとプリンの食感がかなり好み。

「いきなり!黄金伝説。」で第1位とったのもなるほど頷ける・・・ってほどじゃあないかもしれないが、同じタルト系が得意のカフェ・コムサよりはじゅうぶんに美味い。カフェ・コムサはカスタード・クリームが一本調子なので、食べてて飽きる(でかいし)。キルフェボンのタルトはカスタード・クリームが軽いし、タルトごとに変えている感じがして悪くない。
タルト専門店のなかには、異様に硬いタルト生地のお店がある。ぼくの苦手なタルトだ。かといってボロボロのサブレ生地でも困る。キルフェボンのタルト生地はちょうどいい硬さ。ぼくにとっては結構重要な要素です。

もうちょっとドリンクに気を使ってもらえばなお良し。とくに紅茶のレベルが高ければ、イートインでもお値打ち感が出るんだけどね。
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2007年04月06日

未羅来留亭@西新

未羅来留亭のラーメン

ずいぶん前に行ったんだけれど、西新の「未羅来留亭」のラーメンのことをエントリーしておく。

かなり強烈なトンコツ臭が店外にも漂っているんだけど、スープそのものはあっさりすっきり。脂濃くはないけれども、コクがある。奥行きのある味。
トッピングはネギとキクラゲ、それにチャーシューとシンプル。チャーシューは茹で豚系で少し厚めにスライスされている。細麺だけど長浜ラーメン系にしては太めでなかなか旨い。食べ応えのある麺。後から来たお客さんがハリガネでオーダーしていたけど、固麺ではオーダーしないほうがいいと思う。

いまどきの味じゃあない。「普通」。だけどこれは、なかなかない「普通さ」だなあ。しかもメニューにはギョウザもなし。大将がラーメンに打ち込んでいる感じがする。自宅の近くにあったら週一で通うかもしれない。
西新には「しばらく」もあるけど、こっちのほうが好みだ。実際、14時くらいに行ったんだけど、ひっきりなしにお客さんが入っていた。子ども連れも多いのは旨い店の証拠でしょうね。あゆむさんも絶賛。

蜂楽饅頭

同じビルには「蜂楽饅頭」もあって、これも旨い。子どもの頃、よく食べていたんだよなあ。ぼくは粒あんが好き。いろいろ旨そうなお店があって、西新は侮れないです。
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2007年04月05日

プラトンのミュートス

プラトー・クレーター
プラトー・クレーター

國方栄二著『プラトンのミュートス』を読む。

近代のプラトン研究者たちを悩ましつづけたのは、プラトンが『国家』において、ホメロスやヘシオドスなどの詩人のミュートスを理想国家から追放したことはよく知られているが、そのプラトンが対話篇において問答的な議論と並べて(あるいはその代わりに)ミュートスを(散文のかたちであるとはいえ)採用したことである。
プラトンの著作におけるミュートス(神話)は、近代以降たしかに思想史家たちからは軽視されがちであった。有名な『饗宴』のミュートス「人間球体説」なども、わたせせいぞうの作品『菜』に引用されるほど人口に膾炙していながら、実際のところプラトンのテキストの中でどのように機能しているか(機能するようにセットされているか)よく分かっていなかった。
ぼくが最初に読んだプラトンの著作は『パイドロス』だったけれども、対話中突然現れるミュートスに困惑した記憶がある。明晰な論理のなか突然現れる物語にどんな意味があるのか。訳注を読んでも、なぜここに挿入されたのか判然としなかった。

プラトンのテキストに現れるミュートスが軽視されたのは、ロゴス至上主義化した西洋哲学が自らの出自に対して持つ幻想に起因している。哲学の創生はロゴスとミュートスの峻別よりはじまる。その峻別はプラトンより始まるはずだ(あるいはタレスのイオニア自然哲学から、あるいはホメロスから・・・) ヘーゲルが言うように、ミュートスは「神話」(すなわち虚言)でしかなく、ゆえに近代哲学からは排斥されなくてはならない、云々。

そもそもプラトンはミュートスをどのように機能させようとしたのか。新プラトン派の哲学者たちの解釈のようにミュートスとはアレゴリーであったのか。あるいはピエ−ル・ヴィダル=ナケの言うように、そこに何らかの〈構造〉があるのか。國方栄二氏はプラトンのミュートスを解析するにあたってこう書く。

神話学に関するシェリングの主張でよく知られるのは、ミュートスをアレゴリーではなくむしろタウテゴリー(Tautegorie)、「寓意」的でなくいわば「自意」的に解釈することを主張したことである。つまり、ミュートス「それ自体」をして語らしめよという趣旨である。
國方栄二氏は、プラトン以前のミュートスやロゴスという語の用法から丁寧に分析をはじめ、次にプラトンのミュートスの分析に移る。たいへん丁寧で、ロジカルで、興味深い。
彼はプラトンのミュートスをとりあえず「真実に似た虚偽」と定義する。語られる事柄が事実であるかないかわれわれが知ることができないことを対象とするがゆえ、ミュートスを検証することはできない。また、ミュートスが優れたものであるためには、語られる対象に関する真実を正しく伝えるものでなくてはならない。したがって、ホメロスやヘシオドスの真実らしくないミュートスは若者に悪い影響を与える。よって理想国家より追放されなくてはならない。
なおかつミュートスは、よりよいミュートスに置換することが可能である。「ミュートスは仮の表現であって、より適切な説明の仕方があれば、それと取って代わられるべき性質のものである。」

何故、プラトンは「真実に似た虚偽」を必要としたのか。
國方栄二氏によると、対話の相手が、論理では納得できても情念ではまだ納得しきれていないとき、その説得のためにミュートスが提起されるという。対話篇のなかで唐突に、しかも対話を切断するようなかたちで挿入されるのはそのためだ。人間の悪の起源、自由意志の問題、歴史とは何か、そういった重要な問題系においてミュートスは多用される。

死後の魂の運命にまつわる物語も(中略)、自然および人類の歴史を扱ったミュートスも、その内容はそもそも「論証」されるべき性質のものではない。ミュートスはこの点においていわゆるロゴスとは異なっていて、むしろそれらは「信じる」べきものである。それはまた大きな危険κίνδυνοςを伴うことにもなる。すなわち、ロゴスの力がどれほど強くとも、ミュートスで語られていることを信じるのは一種の「賭け」なのである。
『プラトンのミュートス』國方栄二プラトンのミュートス
國方栄二

単行本: 340ページ
京都大学学術出版会
2007-02
ISBN-13: 978-4876987078
by G-Tools
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2007年04月02日

香りの人工楽園――トム・ティクヴァ『パフューム ある人殺しの物語』

パフューム ある人殺しの物語 (2006/独=仏=スペイン)

『パフューム ある人殺しの物語』を観る。
監督はトム・ティクヴァ。『ラン・ローラ・ラン』のひとだ。原作はパトリック・ジュースキントの『香水』。ずいぶん前の出版されたのでまったく忘れていたけど、池内紀訳で少し話題になった本だ。たしか読んだような(あんまり記憶にない)。

まあ、ある種「ト学会ネタ」的な発想を膨らませて出来た映画なんだけれども、その感じがどうしようもなく鼻につくのは、やっぱりサスペンス側に寄り過ぎてしまってるからだ。なんでもかんでも人殺しの話にすれば良いというものではあるまい。それならそれでゴダールみたく徹底的にかつ簡潔にやるべきだ。この映画しかり、『ダ・ヴィンチ・コード』しかり。

香りを世界の把捉のほとんど唯一の手段としている〈異邦人〉をせっかく主役にしているのに、出自が悪臭紛々たる魚市場出身だからといって連続殺人鬼にしちゃあまりにかわいそうじゃないか。〈異邦人〉の主人公ジャン=バティスト・グルヌイユには、ほとんど無限の可能性があるはずだった。

グルヌイユは、香りを保存するために連続殺人を行う。その過程で自分自身に体臭がないことを知り、また大衆を洗脳する香り(フェロモン?)の調合にすら成功する。このあたりの展開がどうしようもなく滑稽で、しかも金を湯水のごとく使ってそれを映像化した監督とプロデューサーたちもおかしいんじゃない?

パフューム ある人殺しの物語 (2006/独=仏=スペイン)

世界の中心に立ちたかったグルヌイユは、最終的に彼の生み出した魔法の香りによってその位置に立つことができる。だが、彼自身気づくように、彼自身まるで空虚のままだ。

殺した娘ローラの父親リシに、グルヌイユは殺して欲しいと願うがそれも叶わない。リシは香りに惑わされ、グルヌイユを「我が息子」と呼び泣きながら抱きしめる。
ここに近親相姦の構図も指摘しておきたい。リシが惑わされた香りは、娘ローラの肉体の放っていた香りである。近親相姦の幻想のなかで、グルヌイユはどんなにひどいことをしても、憎まれもせず愛されもしない。
ずっと空虚なまま世界の中心に立ち尽くす。まるでこの国の〈天皇制〉のようだ。

パフューム ある人殺しの物語 (2006/独=仏=スペイン)

まあ、このお話自体、近親相姦やらカニバリスムやら、批評家ウケのよさそうなギミック満載なので、そんなところにいちいち反応してしまうのもどうかと思うわけだ。
この手のギミックにはアンドリュー・バーキンの嗜好が出ているようにも思える。こんなに予算を使って、こんなにいい俳優をそろえて、こんなおバカ映画を、こんなに大真面目に撮るってのもアンドリュー・バーキンっぽいと言えなくもない。

グルヌイユ役のベン・ウィショウはとても巧い俳優だと思う。ドニ・ラヴァンの再来か。リシ役のアラン・リックマン(『ハリー・ポッター』のスネイブ先生)も存在感がある。ローラ役のレイチェル・ハード・ウッドが美しい。この映画を撮ったとき14歳くらい? 正直そうは見えないが。ダスティン・ホフマンも相変わらずよし(このひとのちょっとした仕種にコミックを感じてしまうのは、ぼくの思い入れ故なんだろうか)。

パフューム ある人殺しの物語 (2006/独=仏=スペイン)

香り。
ぼくが思い浮かべるのは当然、ユイスマンスの『さかしま』だし、デ・ゼッサントの創造する香りの人工楽園だ。この映画を観ながら、ぼくがずっと考えていたのは「もし主人公がデ・ゼッサントだったら」ということだった。

とてつもない、崇高なる自然、本物ではなく、魅力的で、全く逆説的であって、熱帯地方の唐辛子、中国白檀の胡椒の効いたような息吹、ジャマイカのエディオスミアを、ジャスミンのフランスの香り、セイヨウサンザシ、クマヅラと結び合わせ、季節や気候に関わらず、様々なエッセンスの木々、色とりどりで、最も対立する芳香を持った花々を生じさせ、これら全ての調子を溶けさせ合い、ぶつけ合って、普遍的で、名づけようのなく、奇妙な香りを作り出し、その中に、執拗なリフレインのように、始めの装飾的文句、リラとボダイジュの香りに満ちた広い牧場の香りが再び現れて来るのである。
どうせ大金を使うんなら、誰か『さかしま』を映画化しないもんだろうか。

パフューム ある人殺しの物語 (2006/独=仏=スペイン)

パフューム ある人殺しの物語 (2006/独=仏=スペイン)
Perfume: The Story of a Murderer

製作総指揮 フリオ・フェルナンデス / アンドレアス・グロッシュ
   / サミュエル・ハディダ / マニュエル・マル / マルティン・モシュコヴィッツ
   / アンドレアス・シュミット
製作 ベルント・アイヒンガー
監督 トム・ティクヴァ
脚本 アンドリュー・バーキン / ベルント・アイヒンガー / トム・ティクヴァ
原作 パトリック・ジュースキント
撮影 フランク・グリーベ
美術 ウリ・ハニッシュ
音楽 ラインホルト・ハイル / ジョニー・クリメック / トム・ティクヴァ
衣装 ピエール・イヴ・ゲロー
特殊メイク ウォルド・メイソン
編集 アレクサンダー・バーナー
配給 ギャガ・コミュニケーションズ
出演 ベン・ウィショウ / ダスティン・ホフマン / アラン・リックマン
   / レイチェル・ハード・ウッド / コリンナ・ハルフォーフ / ジョン・ハート
   / カロリーネ・ヘアフルト / デヴィッド・コールダー / サイモン・チャンドラー
   / イェシカ・シュヴァルツ / パウル・ベロンド / ティモシー・デイヴィース
   / ハリス・ゴードン / サラ・フォレスティエ / ジョアンナ・グリフィス
   / ビルギット・ミニヒマイアー
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