
なぜルワンダであれほどのジェノサイドが起きたのか。
ひとくちにジェノサイドと言っても、スターリンによる「大粛清」、ナチスによるユダヤ人の「最終解決」、クメール・ルージュによる「カンボジア・ゼロ年」、それにユーゴ内戦やルワンダでは、その原因も経過も異なる。冷戦終結後、政治の手段としての「強制的難民化と流出・誘導」や「民族浄化」などが先鋭化し始めたが、いずれにせよ、ジェノサイドはその土壌、計画、実行、そしてジェノサイドの結果を分析しなくては理解が深まらない。
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ルワンダの場合、ザイール(現コンゴ民主共和国)、タンザニア、ウガンダ、ブルンジなどの周辺国の内政状況によって自国の状況も変化する。われわれには実感しにくいことだが、周辺国からの難民・ゲリラの流入、あるいは道路の封鎖などによってめまぐるしく情勢が変わる国が世界には多数ある。
結果、その変化する情勢に即応するためにも、これらの国々は強権的にならざるを得ない(しかもそれは反体制組織も継続的に存在させることになる)。この中央集権体制がジェノサイドの重要な土壌ともなった。
『ホテル・ルワンダ』のエントリーでも書いたけれども、ルワンダ国内にはフツとツチという大きな「民族」集団があった。国民の90%弱ほどがフツで、残りがツチである(その他、少数のトゥワがいる)。
ベルギー宗主の時代、ツチが支配層として優遇され高度な教育も受けることができた(第二次大戦前は、首長職と官職の9割をツチが占めていた)。ツチの優遇は欧米人の「ハム仮説」による。ツチは背が高いという外見的な特徴があり、北方(エチオピア周辺)から移住してきたとされた(ちなみにこの説は考古学的に証明されていない)。ツチ、フツ、トゥワの中で、ツチが外見において最も欧州人に似ている。したがって最も優秀なのだというのがハム仮説である。
この疑似科学に基づく民族区分の導入によって、フツは被支配層に追いやられた。ルワンダのジェノサイドは、民兵(インテラハムウェ)化したフツの貧困層が多くを実行したといわれる。
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1994年4月6日、ハビャリマナ大統領が暗殺され、それをきっかけにジェノサイドが始まるわけだが、その準備は以前からなされていた。
1990年にツチ主体のルワンダ愛国戦線(RPF)の侵攻が始まると、フツ至上主義者が「フツ・パワー」という集団を形成する。『ホテル・ルワンダ』には、派手で特徴的なシャツを着ている商人が出ているが、彼はフツ・パワーに所属している。
フツ・パワーは軍や政権中枢、政権与党「開発国民革命運動(MRND)」にも多く食い込んでいて、その指導者の多くはハビャリマナ大統領暗殺後の臨時政府のメンバーに指名された(暗殺事件はフツ至上主義者によるものではないかという説の根拠である)。
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RPFの侵攻が進むと、フツ・パワーの影響力も深まった。フツ・パワーは「ミルコリンヌ自由ラジオ(《千の丘》自由ラジオ)」や「ミルコリンヌ・テレビジョン」、フツ系新聞「カンデラ」などを傘下に置き、プロパガンダを行っていく。
とくに、フツ・パワーの大多数を占めたフツ貧困層が聴取したラジオの影響力は大きかった。ルワンダは、決して識字率が高いわけではなく、テレビすら持っていない人々も多かったから、ラジオは重要な扇動メディアとなった。とくに、地方へのプロパガンダの徹底にラジオの果たした影響は大きい。
(以前NHKのドキュメンタリーで当時のミルコリンヌ・ラジオの放送を聴いたが、言葉の意味はわからないが、なんとも言えぬ不快な声での放送だった。「ゴキブリをさがせ」という字幕が実に恐ろしかった。)
プロパガンダの要旨はこのようなものだ。
1.フツならフツらしく行動せよ(ツチを殺せ)、行動できない者はフツではない(おまえもツチと同様殺されるだろう)。すなわち「アイデンティティーの絶対化」。
2.ツチはフツの富や権力を盗もうとしている。すなわち「対立構図の絶対化」。
3.したがってツチを殲滅しなくてはならない。すなわち「殺戮の正当化」。
その結果、饗場和彦によると、このようなジェノサイドが頻発することになった。
ルワンダのジェノサイドは量的に特筆されるが,殺害の質的な面でも衝撃が大きかった。ナタでずたずたに切られて殺されるので金を渡して銃で一思いに殺すように頼んだ,女性は強姦された後に殺された,幼児は岩にたたきつけられたり汚物槽に生きたまま落とされた,乳房や男性器を切り落とし部位ごとに整理して積み上げた,母親は助かりたかったら代わりに自分の子どもを殺すよう命じられた,妊娠後期の妻が夫の眼前で腹を割かれ,夫は「ほら,こいつを食え」と胎児を顔に押し付けられた―― といった行為が多発した。この悲惨な状況下で、もっとも人道的に行動しなくてはならなかったはずのカトリック教会もジェノサイドに積極的に関与した。教会としてジェノサイドを正当化したわけではなかったが、大司教がMRNDの幹部であり教会組織そのものが国家体制に組み込まれ、権力中枢に近かった。教会に避難した人々を、無差別に機関銃や手榴弾で殺したのを黙認したり、積極的に容認した聖職者もいたとされる。フツのキリスト教徒の多くはジェノサイドに加わることが、教会の意思に沿うことと考えていたのだ。
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1994年7月、RPFがキガリを占領し政権を奪取すると、今度はPRFによるフツへの報復虐殺が始まってしまう。ここまで国際社会は、人道支援も含めて、ほとんどなんの対応も取れなかったが、ようやくUNHCRも活動を開始する。その最中、報復虐殺が始まったのだ。緒方貞子の回想を読むとその陰惨さがよくわかる。
ブタレ州、キブンゴ州やキガリ州の一部などの南部および南東部の地方では、状況はいっそう熾烈であった。(ロバート・)ガーソニーの調査チームは春から初夏にかけて、旧政府軍と民兵集団が追放された直後に起きた、新たな殺戮の驚異的な証拠を明らかにした。ブタレ州とキブンゴ州にはさびれた広大な地区があり、そこには最近もしくは以前に帰国したツチ系帰還民一万人が、槍と弓矢で武装していた。RPFの犠牲にならないように逃れようとする者がいるほかは、敵対勢力もないこの地区では、同様なRPFの殺戮行為が報告されていた。老若男女を問わず、子供や高齢者や病人も含む、大規模な無差別殺戮が行われているという報告がしきりに寄せられていた。とくに集会を装った大量殺戮は手当たりしだいで残虐を極めた。安全や食料配布の情報提供といった名目で、地元住民を家族ぐるみで集会に呼び出し、住民が集まったとたん、銃を乱射して皆殺しにするケースや、建物に閉じ込めて鍵をかけてから手榴弾を投げ込むといったことが横行していた。このほかにもRPFは家々を次から次へと襲い、逃げ隠れる住民を殺害してまわり、多数の遺体を処分した。ガーソニーのチームは、四月下旬と五月から七月にかけて毎月五〇〇〇人以上、ことによると一万人が殺されたのではないかと推定した。UNHCRと緒方貞子はこの状況を公表することで苦境に立たされた。当然、ルワンダ新政府から非難され、PKO展開していた国連ルワンダ支援団(UNAMIR)からは虐殺の事実を明らかにできなかったことで面子をつぶされたと反発され、事務総長からは政治的解決を遅らせるつもりかと諭される事態となった。難民帰還も一時停止した。緒方貞子はこう回想している。
この一件からわれわれが学んだのはいささか苦い教訓であった。私は全力を尽くして慎重に協議したつもりであったが、国連のさまざまな部署や関係国政府から全面的な支持をとりつけるのがいかに難しいかを痛感した。+ + +
1994年以降の大湖地域の混乱はルワンダを中心とした。隣国ブルンジもフツ/ツチの対立を軸に政情不安に陥ったし、ザイールはルワンダ難民の受け入れをきっかけに内戦を起こし、1997年にモブツ政権が倒れてしまう。
ルワンダのジェノサイドをきっかけに、大湖地域では多数の難民が、政治や外交の道具にされ、伝染病やゲリラの攻撃にさらされることになった。この経緯についても、いずれまとめたい。
![]() | 紛争と難民 緒方貞子の回想 緒方貞子 単行本: 459ページ 集英社 2006-03 ASIN: 4087813290 by G-Tools |