2007年04月11日

わたしは涙と音楽を区別できない――松浦寿輝『謎・死・閾―フランス文学論集成』

Emile Michel Cioran(1911 - 1995)
Emile Michel Cioran(1911 - 1995)

E.M.シオランとミシェル・レリスは高校生の頃知った。シオランは『崩壊概論』で、レリスは『闘牛鑑』で。

シオランの思考が絶えず立ち戻ってゆくのは題名が示す通り「涙」と「聖者」という二つの固定観念である。「私たちを聖者たちに近づけるものは認識ではない、それは私たち自身の最深部に眠っている涙の目覚めである」という冒頭の一文がいわば書物全体の主題とトーンを決定しており、ここで批判の対象となっている「認識」とは、一つには宗教的教義、もう一つには哲学のことだと言ってよい。超越的絶対者の存在と対峙しながらキリスト教のイデオロギーには甘んじられず、また他方、明晰な認識に憑かれながら講壇哲学者のキャリアを受け入れることを肯んじえなかったシオランにとって、聖者とは、死と絶望からの超脱を現世のただなかで自分の身に実現してしまった存在、すなわち不可能性を端的に体現している究極のモデルである。その境地へといかにして近づくか。涙によって、と彼は言う。だがそれは、単なる苦しみとか嘆きといった心理の表現のことではない。彼はそれを「内面の雪崩」とも言い直しているが、涙とはいわば此岸の仮象にも彼岸への信仰にも満ち足りることのできぬ永遠の不服従者を襲う、心理的ならざる形而上的な――つまり心のではなく魂の――絶望の発作のようなものだ。シオランの聖者が、揺るぎない信仰の喜びに自足している求道者などではないことに注意しよう。この種のいわば神学的聖者たちに対する憎悪を彼は隠さない。『涙と聖者』はほとんど『マルドロールの歌』でも思わせるような超越者に対する闘争宣言の書であって、聖者とは断乎たる意思でこの苛酷な闘いを持ち堪えている一人の反=神学的な闘士なのである。「懐疑的魂の中の絶対への情熱! 癩病患者に移植された賢者!」
『崩壊概論』は高校の図書室の書棚の、それもいちばん下に見つけた。図書室は半地下の構造だったから、書棚の下の部分にはなかなか光が届きにくい。うっすら埃をかぶる棚を、かがんで見ていてこの印象的なタイトルの本を見つけたのだった。

まったく奇妙な本だった。呵責ない文明批判と現世への呪詛の繰り返し。合間に綴られる不眠と音楽への賛歌。閉塞感と開放感が同居するテキストに、ずいぶん衝撃を受けた。その後、学校近くの大きな図書館の閉架で見つけたシオランの本を読み漁った。それこそ金井裕と出口裕弘の訳した本。たしか『崩壊概論』以外に『苦渋の三段論法』、『実存の誘惑』、『歴史とユートピア』、『時間への失墜』 を読んだはずだ。どの本にも現世への呪詛に満ちていた。書かれた年は違うはずなのに。
シオランの本を読んでいたぼくを、図書館の司書の先生はずいぶん心配していたが。

十代に、本来なら生に輝くはずの時期にシオランのテキストに触れたのは、けっして不幸なことではなかった。ぼくがその後哲学なんぞを学んだのは、シオランの反-哲学がこころのどこかでずっと鳴り響いていたからに違いない。

Michel Leiris(1901 - 1990)
Michel Leiris(1901 - 1990)
"Portrait of Michel Leiris" by Francis Bacon

ミシェル・レリスの『闘牛鑑』は、美術の先生に貸してもらった本だった。もともとアンドレ・マッソンの絵を見たがっていたぼくに貸してくれたのだったが。もちろんマッソンの絵は素晴らしかったが、それ以上に幻想的なレリスのテキストにやられたのだった。その後『幻のアフリカ』を見つけて、これも夢中で読んだ。エチオピアの憑依現象の記述は途方もなかった。まったく途方もないテキストだった。

エクリチュールの闘牛士レリス。だが、まことに奇妙な闘牛士ではある。男性的な攻撃性を欠き、自分からは積極的な突きを入れることなく飽きずに〈パセ〉を繰り返し、その緩慢な反復のリズムに耽溺しかけているかに見えながら、しかし絶えず神経を研ぎ澄まして眼前の牛の角の脅威に怯えつつ、しかもゲームを放棄して競技場から逃れ去ろうとは夢にも思わず、踏みとどまって闘いならさる闘いを持ち堪え続けているマタドール。彼が手にしている剣ならざるペンは、死の身体には決して触れることはない。死の直前でいつでも逡巡し、回避し、周囲を迂回し、ひとたび離れてはまたゆるやかに接近してくるのだ。機敏さも豪胆さも備えていない、緩慢で内気な闘牛士。そう、彼は臆病なのではなく、内気なのだ。つねにおずおずとしているのである。死が怖くないわけではない。死は恐ろしい。だが他方、いつか死という名のその暗い灼熱の太陽に素手で触れてみたいというタナトスの欲望もまた内に秘めていないわけではない。真の問題は、だから臆病を克服することではなく、あまり距離を縮めすぎてしまいたくなる誘惑をみずからに禁じ、今にも触れそうでいて決して触れ合わず、直前で身をかわすという境界線上の演技をいよいよ上完璧なものへと練りあげてゆくことだ。内気さとは、そのつど自分に逆らって直前で身を引くために人が備えていなければならない慎みの徳のことである。行き過ぎた一歩を踏み出すことを思いとどまって危険という名の曖昧さの時空を維持し続けるために必須の、過激で官能的な資質のことなのだ。内気であることをもしやめたら、そのとたんにユディットが出現して彼の首を切りにかかるだろう。
松浦寿輝の『謎・死・閾―フランス文学論集成』を読んでいて、シオランとレリスの間に浮かび上がる線に気がつく。死をめぐっての所作だ。
シオランはベケットについて「感嘆すべきは彼が動かなかったことであり、いったん壁を前にしてもつねに変わらぬ雄々しさを失わずにいることである」と書いている。シオランもまたベケット同様に、自殺の自由について何度もその魅惑を説きながら、とどまり続けた。レリスが闘牛を愛したのもまた、松浦寿輝が書いているように、死を前にした注意深くしかも緩慢たる所作にほかならない。

シオランにしろレリスにしろベケットにしろ、ある意味「ヨーロッパそのもの」な思考ではないか。このような死の観念は日本にあるのだろうか。いまだに文学の主題としては、汲みつくされていないように思う。

松浦寿輝『謎・死・閾―フランス文学論集成』謎・死・閾―フランス文学論集成
松浦寿輝

単行本: 327ページ 21 x 15.2 x 3.2 cm
筑摩書房
1997-10
ISBN-13: 978-4480838032
by G-Tools

posted by Dr.DubWise at 00:43| Comment(0) | TrackBack(0) | cahier | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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