2007年06月13日

春日武彦『無意味なものと不気味なもの』

ポジャギ

「無意味なもの」というのはどんな概念を指しているのだろう。文字通り「意味がないもの」という概念であれば、矛盾をはらんでいるではないか。
「無意味なもの」はつまるところ非在であろうが「存在しない」ということではない。非在とは、通常忘れ去られ、わたしの認知の外へ逃れ出て行くことどもではないか。昨日カフェで隣りに座ったのはどんな人であったか。昨夜食べた干菓子はどんな形であったか。世界から即座に退場していくほとんど無限なことども。たしかに在ったのだろうか。それらはすでに世界から退場してしまっている。非在はわたしの周囲に満ち溢れている。在と非在の境界は模糊としつつざらざらと私を取り巻いている。

また「無意味なもの」を「価値判定を留保した(留保せざるをえない)もの」と規定することもできるだろう。春日武彦の語る「無意味なもの」とはむしろこちらの意味に近いかもしれないが、それでもやはりずれてはいる。こんなふうにテキストにし、なかんずく本(商品)にまでしてしまったのであれば、無価値なはずがないじゃないか。もちろん彼はそんなことに気をとめるはずもなく(気にとめてしまったら筆を置かねばならなくなる)、積極的に定義をすることもしないわけだが。

『無意味なものと不気味なもの』は、雑誌「文藝界」に15回にわたって連載した書評(?)を集めたものだが、通読しているうちに筆者のなかで「無意味の意味」が少しずつ明確になっていく過程が透かし見える。単に「気味が悪い」あるいは「生理的に拒否する」「困惑する」ものであった手許のテキスト群が、「永遠」という世界の構造に関わる何かをあらわしているのではないかと予感する筆者の姿は暗く陰鬱である。それはときおり挟まれる精神医らしからぬ患者への本音にもあらわれているし、富岡多恵子の『遠い空』について書かれたこんなテキストにも感じられる。

世界に果てなどあるのだろうか。本当は世界なんて一ヘクタールがせいぜいで、しかしそれが壁紙の模様のように際限なく、それこそ永遠に繰り返されているだけではないのか。だからすぐ近くにいても声など届かない。世界の構造に気付いてしまった者だけが、永遠がもたらす孤独感と恐怖とを実感する。
安易な精神分析的解釈でお茶を濁さなかった筆者の姿勢は好ましいが、しかしまだ足りない。

まだ、足りないのだ。

春日武彦『無意味なものと不気味なもの』無意味なものと不気味なもの
春日武彦

単行本: 293ページ 19 x 12.8 x 3 cm
文藝春秋
2007-02
978-4163688701
by G-Tools
posted by Dr.DubWise at 17:33| Comment(0) | TrackBack(0) | cahier | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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