2007年06月18日

ポール・ボウルズ『シェルタリング・スカイ』

ベルナルド・ベルトルッチ『シェルタリング・スカイ』(1990)

「ねえ、君」ポートが言った。その声は非現実的にひびいた。まるで静かな場所で、ながい沈黙のののちに押しだされる声は、ときとして、そうした調子を帯びる。「このへんの空は、じつにふしぎだね。ぼくはよく空を見ていると、それが何か堅固なものでできていて、その背後にあるものからぼくらを庇護してくれているような感じがする」
キットは、ほんのわずかな身ぶるいしながら言った。「背後にあるものから?」
「そう」
「でも、何が背後にあるの?」ささやくような声だった。
「何もない、と思う。暗黒があるばかりだ。まったくの夜だ」
ポール・ボウルズの『シェルタリング・スカイ』を読み直している。
10年以上前に一度読んだけれども、あまりに晦渋な訳文に辟易した記憶がある。いま読んでも古めかしい訳だ。大久保康雄による初訳(新鋭海外文学叢書)が1955年で、ほとんど改訳されていないから仕方ないだろうが。

にもかかわらず、ずいぶん集中して読んでいる。おそろしく陰鬱な小説なのに目をそらすことができない。

ポール・ボウルズ『シェルタリング・スカイ』シェルタリング・スカイ
ポール・ボウルズ Paul Bowles
大久保康雄(訳)

文庫: 447ページ
新潮社(新潮文庫)
1991-01
978-4102338018
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2007年06月11日

ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』

1908年のアフリカ全図から、コンゴ自由国周辺。

村上春樹の小説にはコンラッドの作品がときどき(ごくときどき)小道具として出てくる。もちろん意味がないわけではなく、それは主人公(つまり「ぼく」)の行く先を暗示している。たとえば『スプートニクの恋人』にはこうある。

 ぼくは本棚から大きな世界地図を引っぱり出して、ミュウの教えてくれた島の位置を調べてみた。ロードス島の近くというヒントがあるにせよ、エーゲ海に散らばっている大小無数の島の中からそれを見つけ出すのは簡単な作業ではなかった。でも小さな活字で印刷されたその名前をようやく探しあてることができた。トルコとの国境に近い小さな島だった。あまりにも小さくて、かたちもよくわからない。
 引き出しからパスポートを出して、まだ有効期限が切れていないことを確認した。家のなかにある現金を集めて財布につめた。たいした額ではないが、あとは朝になったら銀行のカードで引き出せばいい。口座には以前からの預金にあわせて、たまたま夏のボーナスがほとんど手つかずで残っている。クレジット・カードもあるし、ギリシャ行きの飛行機の往復切符くらいは買える。ジムに行くときに使うビニールのスポーツ・バッグに着替えをつめ、洗面用具を入れた。いつか機会があったら読み返そうと思っていたジョゼフ・コンラッドの小説を二冊入れた。
たぶん、そのうちの1冊は『闇の奥』だろう。

 背後でかすかな、鈴でも鳴るような音がして、ぼくは振り返った。黒奴が六人、喘ぎながら小径を一列になって上って来る。土を一ぱい入れた小さな籠を頭に載せ、棒を呑んだような姿勢で、のろのろと上って来る。一足踏むごとに、鈴のような音が鳴る。腰のあたりに黒い布片を纏っただけで、その端が尻尾のようにブラブラ揺れていた。肋骨といえば、一本一本数えられるし、手足の関節は、まるで綱の結び目のように膨れ上がっている。一人一人、首に鉄鎖をはめられ、それが互いに鎖で繋ぎ合わされて、弛んだ部分が歩くたびに揺れては、あの韻律的な響をたてるのだった。断崖の方で、またしてもハッパが鳴った。そのとき僕はふと、あの大陸に向って砲弾を射ち込んでいた軍艦のことを思い出した。あれもこれも、同じ不吉な響だった。しかしこの人間どもを、どう考えてみても、敵だとは言いえまい。ただ彼等は罪人と呼ばれ、彼等の破った法が、あたかもあの炸裂する砲弾のように、彼等の頭上に臨んでいるだけだった、――彼等にとっては、それこそ海の向うから来た永久に解き難い神秘だったろう。痩せ衰えた胸は苦痛に喘ぎ、激しく開いた鼻孔は震え、目は石のように丘の上を凝視していた。不幸な蛮人どもは、チラとも見ないで、まるで死のような無関心さをもって、僕の傍をすれすれに通って行った。
この小説の語り手、マーロウが、アフリカで見たものは、その後の彼の世界を規定することになる。闇の前に人はひれ伏さざるを得ない。
闇とはなにか。それは喪失だ。クルツがいまわの際に言うように、またマーロウが物語の最後に悟るように、喪失をした者はまさに「地獄」に生きることになる。そして「これしきのことで天は落ちないのだ」。

コンラッド『闇の奥』闇の奥
コンラッド Joseph Conrad
中野好夫(訳)

174ページ 14.8 x 10.6 x 1 cm
岩波書店(岩波文庫)
1958-01
978-4003224816
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村上春樹『スプートニクの恋人』スプートニクの恋人
村上春樹

318ページ 14.8 x 10.6 x 1.6 cm
講談社(講談社文庫)
2001-04
978-4062731294
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2007年05月05日

年老いた樹と小さな草とともに

散る花。

  夕照から

紅ゐの夕陽あび
薄くれなゐの雲がゆく
なにを 私は祈りなにに呆けてゐたのだらう
かたへのあぢさゐの花は
犇めきあつて稚い唇に口々に
さうださうだしづかなるこの夕暮れのひとときに・・・と
そのあとは昏れてゆくけはいに含まれて
また深まつてゆく夕べ底知れぬ時の移りよ

 雲がゆく
 ゆくともなく
 しかし つひに
 ゆく

さうして夜へ
ああこのうつりかはりのあひまあひまを
あやまたずいのちがつなぐとは!
これらすべての
これらすべての深く尨大な準備は何の為だらう
答へともなく
問ひにもあらで
われらが死ぬるために
われらが生きるために

星辰あきらかにきらめく
この天空の下でこの夜は
窓あけたままねむらう
年老いた樹と小さな草とともに

夕べには夕べの風
朝には朝の風のそのなかで
枯葉を振り落しつつ
いつかわれらは
永劫に
もらひとられてゐた と
巨大きな松が巨きな声で歌つてくれる
わが身の変移幻影よ
+ + +

20代の堀田善衛による詩。戦中に書かれたせいもあって、死の感覚、透明な死の感覚が浸み透っている。堀田もどこかで20代の頃の日常かつ非日常としての死について述べていたと思う。

堀田善衛『別離と邂逅の詩』別離と邂逅の詩
堀田善衛

単行本: 197ページ
集英社
2001-05
ISBN-13: 978-4087745153
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2007年04月18日

アビリーン

夕暮れ

別のとき、私は、父と一緒に、
ケープ・コッドのウェルフリートの海岸にいる。
私はまだ幼くて、父が私にくれた贈りものが
私の人生なのだと理解できない。浜辺が暗くなる。
怖くなって、私は父の手をとる。テキサスについて
父は冗談をとばす。父はアビリーンを憎んでいる。

あれから数年経って、私は
アビリーンのオレンジ色のホテルの部屋にいる。
私の旅は気休めにすぎない。私にはわかっている。
手をふれただけの見知らぬ人間でも、父は
かまわなかったのだ。お父さん、
いまもあなたは、闇を怖がる子どものままなのですね。
あなたの人生は、何だったのですか?

少年のとき、あなたの写真が、ライフに掲載された。
「アビリーンでもっともかわいい少年」として。
夏の白い服のせいで、あなたの目はとても暗く見える。
あなたの母親の目や、私自身の目のように。
あなたは母親と父親を、ついに許すことができない。
母親はあなたを折檻し、父親は見て見ぬふりをした。

私が恋におちるのは、きまっていいかげんな男たちだ。
男のいいかげんさが、私の母の人生をほろぼした。
あなたは、あなたの父親に似ず、酒も飲めなかった。
あなたはアビリーンを離れると、すでに決めていた。
それでも、私の母を悦ばそうと、最初は懸命になった。
しかし、孤独は灯台のように、闇を照らしだす。

闇のなかの海の響きは、手を握りあう
恋人たちの囁きのようだ。誤って私に与えられた
時のことを、私は考えないようにしてきた。
まして、じぶんが一つの生をやどらせるかどうか、
考えないようにしてきた。アビリーンに、海はない。
私は、あなたが私の父親になったときより、一歳若い。

私は自分の子どもを、闇の外につれだしたい。
しかし、一人の父親も、私は見つけられないだろう。
ときどき、そう考える。あなたにのこされ、あなたが
私にのこした辛い秘密が、アビリーンにある。
人生の淵に悲しみがある。時のほかに、
あなたから私を、自由にしてくれるものはない。

アビリーンの、ある暗い冬の夜、
私の父は、ニューヨーク・タイムズを読んでいた。
そして突然、その手で、人生を絶った。

 ヴィクトリア・コーン「アビリーン」
 Victoria Korn "Abilene"
長田弘の『詩は友人を数える方法』を読む。アメリカの地方詩人の詩を取り上げた紀行文。いや、全体としてどこか散文詩の印象もある。
ヴィクトリア・コーンはテキサスの地方詩人らしいが、それ以上のことは分からない。この詩は、おそらく長田弘による部分訳だろう。陰鬱な詩だが、心をうつ。

長田弘『詩は友人を数える方法』詩は友人を数える方法
長田弘

文庫: 336ページ 15 x 10.6 x 1.6 cm
講談社
1999-06
ISBN-13: 978-4061976696
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2007年04月05日

プラトンのミュートス

プラトー・クレーター
プラトー・クレーター

國方栄二著『プラトンのミュートス』を読む。

近代のプラトン研究者たちを悩ましつづけたのは、プラトンが『国家』において、ホメロスやヘシオドスなどの詩人のミュートスを理想国家から追放したことはよく知られているが、そのプラトンが対話篇において問答的な議論と並べて(あるいはその代わりに)ミュートスを(散文のかたちであるとはいえ)採用したことである。
プラトンの著作におけるミュートス(神話)は、近代以降たしかに思想史家たちからは軽視されがちであった。有名な『饗宴』のミュートス「人間球体説」なども、わたせせいぞうの作品『菜』に引用されるほど人口に膾炙していながら、実際のところプラトンのテキストの中でどのように機能しているか(機能するようにセットされているか)よく分かっていなかった。
ぼくが最初に読んだプラトンの著作は『パイドロス』だったけれども、対話中突然現れるミュートスに困惑した記憶がある。明晰な論理のなか突然現れる物語にどんな意味があるのか。訳注を読んでも、なぜここに挿入されたのか判然としなかった。

プラトンのテキストに現れるミュートスが軽視されたのは、ロゴス至上主義化した西洋哲学が自らの出自に対して持つ幻想に起因している。哲学の創生はロゴスとミュートスの峻別よりはじまる。その峻別はプラトンより始まるはずだ(あるいはタレスのイオニア自然哲学から、あるいはホメロスから・・・) ヘーゲルが言うように、ミュートスは「神話」(すなわち虚言)でしかなく、ゆえに近代哲学からは排斥されなくてはならない、云々。

そもそもプラトンはミュートスをどのように機能させようとしたのか。新プラトン派の哲学者たちの解釈のようにミュートスとはアレゴリーであったのか。あるいはピエ−ル・ヴィダル=ナケの言うように、そこに何らかの〈構造〉があるのか。國方栄二氏はプラトンのミュートスを解析するにあたってこう書く。

神話学に関するシェリングの主張でよく知られるのは、ミュートスをアレゴリーではなくむしろタウテゴリー(Tautegorie)、「寓意」的でなくいわば「自意」的に解釈することを主張したことである。つまり、ミュートス「それ自体」をして語らしめよという趣旨である。
國方栄二氏は、プラトン以前のミュートスやロゴスという語の用法から丁寧に分析をはじめ、次にプラトンのミュートスの分析に移る。たいへん丁寧で、ロジカルで、興味深い。
彼はプラトンのミュートスをとりあえず「真実に似た虚偽」と定義する。語られる事柄が事実であるかないかわれわれが知ることができないことを対象とするがゆえ、ミュートスを検証することはできない。また、ミュートスが優れたものであるためには、語られる対象に関する真実を正しく伝えるものでなくてはならない。したがって、ホメロスやヘシオドスの真実らしくないミュートスは若者に悪い影響を与える。よって理想国家より追放されなくてはならない。
なおかつミュートスは、よりよいミュートスに置換することが可能である。「ミュートスは仮の表現であって、より適切な説明の仕方があれば、それと取って代わられるべき性質のものである。」

何故、プラトンは「真実に似た虚偽」を必要としたのか。
國方栄二氏によると、対話の相手が、論理では納得できても情念ではまだ納得しきれていないとき、その説得のためにミュートスが提起されるという。対話篇のなかで唐突に、しかも対話を切断するようなかたちで挿入されるのはそのためだ。人間の悪の起源、自由意志の問題、歴史とは何か、そういった重要な問題系においてミュートスは多用される。

死後の魂の運命にまつわる物語も(中略)、自然および人類の歴史を扱ったミュートスも、その内容はそもそも「論証」されるべき性質のものではない。ミュートスはこの点においていわゆるロゴスとは異なっていて、むしろそれらは「信じる」べきものである。それはまた大きな危険κίνδυνοςを伴うことにもなる。すなわち、ロゴスの力がどれほど強くとも、ミュートスで語られていることを信じるのは一種の「賭け」なのである。
『プラトンのミュートス』國方栄二プラトンのミュートス
國方栄二

単行本: 340ページ
京都大学学術出版会
2007-02
ISBN-13: 978-4876987078
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2007年03月11日

謎のカティリーナ。

Cicero Denounces Catiline by Cesare Maccari
"Cicero Denounces Catiline" by Cesare Maccari

Quo usque tandem abutere, Catilina, patientia nostra? quam diu etiam furor iste tuus nos eludet? quem ad finem sese effrenata iactabit audacia? Nihilne te nocturnum praesidium Palati, nihil urbis vigiliae, nihil timor populi, nihil concursus bonorum omnium, nihil hic munitissimus habendi senatus locus, nihil horum ora voltusque moverunt? Patere tua consilia non sentis, constrictam iam horum omnium scientia teneri coniurationem tuam non vides?

いったいどこまで、カティリーナよ、われわれの忍耐につけ込むつもりだ。 その狂気じみたおまえの行動がいつまでわれわれを翻弄できようか。どこまでおまえは、放埓で不敵な態度を見せびらかすつもりだ。おまえはいささかもうろたえなかったのか。パラーディウム丘を守る夜の警備隊にも、都を回る偵察隊にも、民衆の恐怖にも。おまえには何の動揺も与えなかったのか。あらゆる良識ある人々が集まってきて、厳重に警護されたこのような場所で元老院が召集されたことが。そして、ここにいる人々の顔つきと眼差しが。おまえの計画は暴かれている。それに気づかないのか。おまえの陰謀はすでに、ここにいるすべての人々に知れ渡り、食いとめられている。それが、お前にはわからないのか。
ぼくはこのルキウス・セルギウス・カティリーナという人物に、ずいぶん以前から惹かれてきた。カティリーナはまったく一方的に貶められているように思えたからだ。イプセンはこう書いている。

カティリーナの性格と行動に対する私の意見は、古代ローマの作家たちとは異なっていた。キケロは絶えず多数派の意見を代弁し、カティリーナとの対決は攻撃しても危険ではないという状況になるまで回避したが、キケロにそうさせた男には、何か普通の人が及ばない偉大なものが備わっていたに違いないと、今でも思う。また、カティリーナほど死後の評判が自分の政敵によって左右された歴史上の人物はほとんどいないことも忘れてはいけない。
同時代の資料としては、このキケローによる「カティリーナ弾劾」の演説とサッルスティウスの『カティリーナ戦記』(同時代といっても、すでに書かれたのはカティリーナ事件の20年後のことである)くらいだ。キケローの弾劾演説をもとに、カティリーナは共和制の転覆を企てたというだけではなく、本質的な無政府主義者であらゆる悪徳を兼ね備えた粗野な人物として伝えられているんだけれども、ぼくにはどうもそんな風には思えない。キケローの演説の中にも、カティリーナをずいぶん歪曲したかたちで非難しているのが明白な箇所がある。サッルスティウスの『カティリーナ戦記』は邦訳がないので(誰でもいいです。なにがなんでも翻訳してください!)ぼくも実際に読んだわけではないけど、カティリーナについてサッルスティウスはこう記述しているという。

ルキウス=カティリーナは名門の出自で、精神面でも身体面でも大きな力を持っていたが、性根は邪悪で歪んでいた。この男は、若年期から、内戦、殺人、略奪、市民の不和を好んでいて、それらの中で自らの青年期を過ごした。身体は、他人には信じられない程、飢えや寒さや不眠に耐えた。精神は、大胆で狡猾で捕らえ所が無く、いかなることをも偽り隠すことができ、他人の物を欲しがり、自分の物を浪費し、様々な欲望に燃えていた。弁舌には長けていたが、分別はあまりなかった。
ルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクスの独裁官時代、彼の民衆派大量粛清にカティリーナは協力した。スッラは民衆派の政敵ガイウス・マリウスによる軍隊の私兵化(すなわち共和制を崩壊させようとする動き)に対抗したのである。カティリーナがなぜスッラに同調したのか、それが日和見主義的な(あるいは現実主義的な)判断によるものであったのか、それとも政治的な信念であったのかわからない。ともかくも、自分の妻の兄弟や自分の姉妹の夫らも殺害したといわれている。マリウスと同様、カティリーナの政敵であったキケローは、先祖に元老院議員のいない「新人novus homo」であった。ゆえにキケローに反感を抱いたことはありえる。(しかも彼に執政官選挙に破れてもいるのだ。)
結果的にキケローは、カティリーナを排除した功績により元老院から「祖国の父pater patriae」の称号を得ることになる。皮肉なことだ。

この時期のローマ史をじっくり検討してみたいけど、とにかく資料の翻訳を待っているところだったりする。カティリーナという、まったく正体不明の人物だっていることだし。誰か一緒にラテン語の勉強する人いませんか?

Marcus Tullius Cicero, B.C.106 - 43
Marcus Tullius Cicero(B.C.106 - 43)

キケロー(著)『キケロー弁論集』キケロー弁論集
キケロー(著)
小川正広・谷栄一郎・山沢孝至(訳)

文庫: 435ページ 14.8 x 10.6 x 2 cm
岩波書店
2005-08
ISBN-13: 978-4003361160
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H. イプセン(著)『イプセン戯曲全集〈第1巻〉』イプセン戯曲全集〈第1巻〉
H. イプセン(著)
原千代海(訳)

単行本: 533ページ
未来社
1989-06
ISBN-13: 978-4624931018
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2006年12月14日

共和主義とはなにか――レジス・ドゥブレ 『思想としての「共和国」』

Regis Debray(1940- )
Regis Debray(1940- )

フランスではジャコバン共和主義者(!!)として知られるレジス・ドゥブレの『思想としての〈共和国〉』を読む。メディオロジーの創始者としても知られるドゥブレだけれども、本書では共和主義者と自由主義者(デモクラット)の根本的な相違について、皮肉たっぷりに、しかし危機感もあらわに訴える。

冒頭のドゥブレの論文「あなたはデモクラットか、共和主義者か」は1989年に発表されたものだが、アメリカを代表とする自由経済主義に根本的な異議を唱える重要なもの。
「共和制」「ライシテ」「シトワイアン」「自律」など、非常に重要なタームがちりばめられているので、いずれまとめてエントリーしたい。とりあえず若干の引用を。ちなみに以下の引用で「デモクラシー」とあるのは、民主主義ではなく自由経済主義と訳したほうが分かりやすい。

共和制においては、各人はみずからを市民としてとらえている。そしてすべての市民によって構成されているのが「ネーション」、すなわち「共通の法のもとで生き、同じ立法者によって代表される、仲間・同輩者たちの一団」(シエース)である。翻って、デモクラシーにおいては、各人は自分を自分が属している「コミュニティ」によって定義する。そしてすべてのコミュニティの総和が「社会」を作っているのである。共和制の人間がみな兄弟なのは、彼らが同じ権利を持っているからである。ところがデモクラシーにおける人間は、彼らがみな同じ祖先を持っているからこそ、兄弟なのである。共和国では、黒人だから市長になったとか、黄色人種のゆえに上院議員であるとか、ユダヤ人だから大臣であるとか、無神論者なので学校の校長になったというようなことはありえない。黒人という市各での知事、白人という資格での市長、モルモン教徒という資格による上院議員といった事態が可能なのは、デモクラシーにおいてである。同国市民は同宗者と同じではない。
レジス・ドゥブレ Regis Debray『思想としての「共和国」―日本のデモクラシーのために』思想としての“共和国”―日本のデモクラシーのために
レジス・ドゥブレ Regis Debray
三浦信孝・樋口陽一ほか編訳

単行本: 276ページ サイズ (cm): 19 x 13
みすず書房
2006-07
ASIN: 4622072211
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2006年12月01日

谷沢永一 『書物耽溺』

 
闘う書誌学者・谷沢永一が、堀口大学の『月下の一群』についてこんなことを書いている。

ところが『月下の一群』には格別の稀覯本が作られている旨を佐々木桔梗が伝えている。『月下の一群』にはまず二部本がある。初版のうち、訳者および刊行者用として各一部宛、特染バックスキンで作った総革装の贅沢本である。訳者本はくすんだ銀鼠色に近い染のもの。市販本同様図柄が背や平に金箔で押され、純金による三方金であるという。
七部本も初版のうちで、和紙表紙に和紙刷である。長谷川潔画伯の挿絵作品中の花と瞳の図が表紙にあしらわれ、外函も同じデザインで、極めて清潔な然も軽い書物として仕上げられている由である。私は未だかつて古書店の目録で見かけたことがない。せめて書映だけでも心ゆくまで眺めたいものである。
『月下の一群』は大正14年、第一書房刊、限定1200部。ただ、まだ市場には結構出回っていて、コンディション極良で20万円前後だと思う(それでも稀覯本であるのに間違いないが)。
しかしこの豪華二部本と七部本ははじめて聞く。『月下の一群』の2刷目は和紙装だったと思う。七部本はそのプロトタイプ的なものなんだろうか。

ぼくも本好きだけど、もっともっと精進して、谷沢永一師のような書痴になるのが夢です。
この『書物耽溺』も書物(とくに「雑書」)に対する愛に満ちていて、素晴らしい。どのテキストも紙を無駄にしないように目一杯文字が叩き込まれている。すごい情報量。濃いです。

谷沢先生、「新しい歴史教科書をつくる会」のノータリンたちとあまり激しくケンカしないようにしてください。長生きして、たくさん本の本を書いてください。

谷沢永一『書物耽溺』書物耽溺
谷沢永一

単行本: 238ページ サイズ (cm): 19 x 13
講談社
2002-08
ASIN: 4062110962
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2006年11月21日

ダナ・ハラウェイ 『サイボーグ・フェミニズム 増補版』

Ghost in the Shell
Ghost in the Shell

草薙素子(=少佐)の記憶はサイボーグ以前、とくに「家族」について、何故隠されているのだろうか。あるいはバトーもサイトウもバズもボーマもイシカワも。完全義体化したメンバーは特に、だ。義体化が十分ではない荒巻やトグサのエピソードの中には、家族をめぐる物語があるけれども。

「少佐の過去」がテーマのひとつだった『Stand Alone Complex 2nd Gig』でも、過去に関係する者として登場するのは、義体適応に苦労した「同志」であって、父親や母親あるいは兄弟姉妹では、ない。
それは何故か?

+ + +

ダナ・ハラウェイの『サイボーグ・フェミニズム』を読んでいる。いまさら? そんなことはない。「サイボーグ宣言」は一読すると、文体の破格なスピードに引きずられて「読み飛ばし」てしまいがちだけれども、ゆっくり味読するとヤバイ。とりあえず引用。

サイボーグ――それはサイバネティック・オーガニズムの略であり、機械と生物のハイブリッドだ。架空の生物であるとともに、現実社会の産物でもある。だがそもそも現実社会そのものが、リアルな社会関係であるとともに、何にも増して「政治的工作物」であり世界変革に必要なフィクションであろう。国際規模で拡がった女性解放運動は、その意味で、「女性の経験」を重要な集団事象として暴露ないし発見しつつも、まさしくそれを工作してきたとみられる。「女性の経験」ほど、ファクトでもありフィクションでもある装置として政治的に意義深いものもあるまい。解放のためには、抑圧や可能性に関する意識をどう解釈するか、抑圧や可能性をどう想像力たくましく理解するかが条件となる。このとき、サイボーグという架空にして現実のイメージが浮上してくる。そのような性格を持つサイボーグこそが、20世紀後半における女性経験の意義を変容させるからである。これは、生死を賭けた闘争だ。けれども同時に、このような社会的現実としてのリアリティといわゆるサイエンス・フィクションとのあいだが五十歩百歩であるのも、忘れてはならない。

フランケンシュタインの怪物が期待したようには、サイボーグは自らの父親の手で復楽園をもたらしてくれると思っていない。すなわち、自分の創造者がさらに異性の配偶者を創造することで、ひとつの世界を――都市や宇宙を――完成させてくれることなど、期待しない。サイボーグは、生物家族をモデルに社会を築くことなど夢見ないし、エディプス神話さえ持ち合わせない。サイボーグは、エデンの園を認識することもない。サイボーグは泥から造られたのでもなければ、塵に還ろうと夢見ることもできはしないからだ。現代世界は「悪」を仮想したい狂躁にかられるあまり、すべてを核の灰燼に帰してしまうような終末を迎えるかもしれない。けれども、だからこそわたしは期待するのである、サイボーグならば、そのような黙示的プロセス自体を破壊できるのではないか、と。
サイボーグが敬虔でないのは、彼らには宇宙を回想=再構築することなどないからだ。サイボーグたちは全体論に対しては警戒するが、関係性は熱望する。彼らは統一戦線の政略については自然な理解を示すが、主導的な党派を必要とはしない。サイボーグに関する問題点は、彼らが国家社会主義をはじめ軍国制度や家父長制資本主義の私生児であるということだ。しかし、私生児たちは、しばしばあきれるほどに、自分たちの親たちに対して不義理を働く。彼らにとって、父親など何ら重要な存在ではないのである。
ダナ・ハラウェイ Donna Haraway『サイボーグ・フェミニズム 増補版』サイボーグ・フェミニズム 増補版
ダナ・ハラウェイ Donna Haraway ほか
巽孝之・小谷真理(編訳)

単行本: 349ページ サイズ (cm): 19 x 13
水声社
2001-08
ASIN: 4891764465
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2006年11月16日

牧野富太郎 『植物一日一題』

牧野富太郎(1862 - 1957)
牧野富太郎(1862 - 1957)

しかしこの花(ヒマワリ)はこの文(『秘伝花鏡』の「向日葵」項)にあるように日に向かって回ることはけっしてなく、東に向かって咲いている花はいつまでも東に向かっており、西に向かって咲いている花はいつまでも西向きになっていて、敢て動くことがない。ウソだと思えば花の傍に一日立ちつくして、朝から晩まで花を見つめておれば、成るほどと始めて合点がゆき、古人が吾らを欺いていたことに気がつくであろう。しかし花がまだ咲かず、それがなお極く嫩(わか)い蕾のときは蕾を持った幼嫩(ようどん)な梢が日に向かって多少傾くことがないでもないが、これは他の植物にも見られる普通の向日現象で、なにもヒマワリに限ったことではない。しかしとにかく世間では反対説を唱えて他人の説にケチを付けたがる癖があるので、このヒマワリの嫩梢が多少日に傾く現象を鬼の首を取ったかのように言い立てて、ヒマワリの花が日に回らぬとはウソだというネジケモノが時々あるようだが、しかしついに厳然たる事実には打ち勝てないで仕舞いはついに泣き寝入りサ。
+ + +

中学校には『牧野植物図鑑』が何冊もあって、よくパラパラ見ていた。ちょうどその頃、荒俣宏が徐々に活動し始めていて、博物学ブームを巻き起こす直前くらいだったと思う。いまでこそ「ボタニカルアート」とかいう用語もあるけれども、当時そういう目で図鑑類を読むなんてことは少なかったように思う。

『植物一日一題』は、牧野富太郎84歳の頃に書いたエッセイ集。彼は小学校中退という学歴しかもたなかったために、高名なわりには長く不遇であった(博士号を得たのは65歳の頃である)。そのためか、学界の誤りを正すのに仮借ない言葉を使っていて、その苛烈さがむしろ痛快だったり。
それに、やはり明治時代に活躍した人の博識は驚異的だとも思う。牧野博士は単なる自然学者ではなく、「名物学」的な漢籍考証までも行っている。おもしろい。

数年前『牧野植物図鑑の謎』という本が出版されて、面白く読んだ。一部で牧野批判も起こったけれども、たいがいは的外れではないか。ラテン語の素養が無かったとか、英語が書けなかったとか、『大言海』の悪口を言ったとか、小野嵐山を批判したとか、そんなことは実に瑣末なことだ。(ちなみに、この本には小野嵐山へ無条件なオマージュを捧げている項がある。)
そもそも『牧野植物図鑑の謎』は、牧野批判の書でもないし。

あ、そうだ。牧野博士は「馬糞蕈」の項にこんな戯れ句を書いている。楽しいので引用しておく。マグソタケはその名の通り馬糞の上に好んで生えるキノコらしい。しかも名のわりに食用とも。

食うときに名をば忘れよマグソダケ
その名をば忘れて食へよマグソダケ
見てみれば毒ありそうなマグソダケ
恐はごわと食べてみる皿のマグソダケ
食て見れば成るほどうまいマグソダケ
マグソダケ食って皆んなに冷かされ
家内中誰も嫌だとマグソダケ
嫌なればおれ一人食うマグソダケ
勇敢に食っては見たがマグソダケ
牧野富太郎 『植物一日一題』植物一日一題
牧野富太郎

単行本: 275ページ サイズ (cm): 19cm B6
博品社
1998-04-25
ASIN: 493870661X


俵浩三『牧野植物図鑑の謎』牧野植物図鑑の謎
俵浩三

新書: 182ページ
平凡社新書(平凡社)
1999-09
ASIN: 4582850170
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2006年11月09日

鷲田清一 『感覚の幽い風景』

大阿蘇の夕暮れ

いまここにある意識がいまここにはないものに向かって意識を張りめぐらす、そういう関係のなかで震えは起こる。たとえばなにか得体のしれないことが起こる、なにか壊滅的なことが起こるという予感のなかで、不安や恐怖よりも先にからだのほうが自体を察知したかのように震えだす。感極まったところでひとはがくがく痙攣するが、その寸前、さざ波のように押し寄せるその予感のなかでもからだは震える。快感、激痛、大泣き・大笑いの寸前に。
わたしたちの感覚には、なにかの予兆に、からだが先に反応してしまうところがある。感覚は、その意味で、現在に閉じこもってはいない。いまここに与えられているもの(データ、つまり与件)に感覚が閉じ込められていて、それを、未来や過去、あるいはいまここにはない物、つまりは不在のものへと関係づけるのが意識のはたらき(想像力や記憶)だとする考え方、それは感覚のあり方にそぐわない。不在への関係は感覚そのものに含まれている。いいかえると、感覚という身体的な出来事そのものがいまここにないものとの関係、つまりは記憶や想像といった契機を孕んでいるのだ。
+ + +

鷲田清一の、エッセイとも哲学書ともいえる本を読む。
すばらしい美文。ため息をつきながらあっというまに読んでしまった。再読、再々読すること。

鷲田清一『感覚の幽い風景』感覚の幽い風景
鷲田清一

単行本: 211ページ サイズ (cm): 19 x 13
紀伊國屋書店
2006-06
ASIN: 431401007X
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2006年10月31日

〈それ〉は作動している。

廃墟。

それは膜ではない。界面である。AからBへ、瞬時に切り替わる。
あるいは閾値を越えると、突然、これまでとは異なる秩序が生成し成長し始める。自己組織化といえようか。
『アンチ・オイディプス』の冒頭にはこうある。

〈それ〉は作動している。ときには流れるように、ときには時々とまりながら、いたるところで〈それ〉は作動している。〈それ〉は呼吸し、〈それ〉は熱を出し、〈それ〉は食べる。〈それ〉は大便をし、〈それ〉は肉体関係を結ぶ。にもかかわらず、これらをひとまとめに総称して〈それ〉と呼んでしまったことは、何たる誤りであることか。いたるところで、これらは種々の諸機械なのである。しかも、決して隠喩的に機械であるというのではない。これらは、互いに連結し、接続して、他の機械を動かし、他の機械に動かされる機械の機械なのである。
見えないのではなく、普段は存在しないのだ。だが在る。それがたち現れるとぼくは異なる秩序の中に放り出されることになる。そこはいまだ見たことがない場所だ。ここにはかつて立ったことがない。そしてすぐにその不快に順応する。新しい秩序を、さらに拡大/編成するために。

気がつくと、ぼくは昨日と連続した世界にいる。あんな嵐を経験したというのに。ぼくは呆然とする。
すこしずつ世界は変わる、界面を不断に越えながら。

ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze、フェリックス・ガタリ Felix Guattari『アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症』アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症
ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze、フェリックス・ガタリ Felix Guattari
宇野邦一(訳)

文庫: 416ページ サイズ (cm): 15 x 11
河出書房新社
2006-10-05
ASIN: 4309462804
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ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze、フェリックス・ガタリ Felix Guattari『アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症』アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症
ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze、フェリックス・ガタリ Felix Guattari
宇野邦一(訳)

文庫: 416ページ  サイズ (cm): 15 x 11
河出書房新社
2006-10-05
ASIN: 4309462812
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2006年10月18日

新しい学を!

もしも、あの朝、そこに爆弾が落とされなければ、まだ幼い娘たちの柔らかい皮膚と肉は切り裂かれもせず、骨も砕けず、傷口からおびただしい血が流れ出ることもなかった。そう、流れ出なかったならば、彼女たちの体の内を血液は一瞬一瞬、一刻一刻、さらに巡り続け、あらゆる体液は分泌し続けただろう。飲む水やお茶や果汁などの水分を摂り、食べる野菜や肉や魚からもその成分中の水分を摂り、それが血液をはじめ体液の糧ともなり、生命の恒常性(ホメオスタシス)を保つ新陳代謝が繰り返されただろう。
そして幼女は、少女へ、乙女へ、女へと成長し、初潮も訪れ、月経の周期を幾たびも経て、いつか結ばれて性愛の時が至り、新しい生命を宿せば子宮に羊水をたたえただろう。そして出産のとき、破水して羊水が流れ出すとともに新しい生命をこの世に送り出しただろう。
人間の体液の循環、水分の摂取・吸収・排出という新陳代謝の繰り返し、次の世代への継承とつながり。人の生は体液と水とともにあると言っていいかもしれない。その巡りを、つながりを、爆弾やミサイルで断たれて失われるものの大きさを考えてみる。その失われるものを「ネセサリー・コスト」や「付随的被害」と呼ぶことは、やはり歪んでいるとしか思えない。
そうだ、この怒りは正しい。正当だ。ぼくもその怒りを共有する。ぼくはあなたのように戦場で死線を越えたことはない。だけど〈ここ〉で共有している。
しかし、何かが違う。この違和感・・・

「ネセサリー・コスト(necessary cost)」とは、直訳すれば「必要経費」もしくは「やむをえない犠牲」だ。戦争において、民間人の犠牲がゼロになることはありえない。戦争における民間人の犠牲のことを、イラク戦争に従軍したアメリカ兵は、こう表現したという。

政府文書内にも同様の表現はあるかもしれない。もう少しわかりにくい表現で「付随的被害(collateral damage)」という同じ意味の言葉がある。
得るべき国益を量り、リスクを分析し、戦争を企画する者たちにとって、それは「コスト」なのだ。

死者とコストは、おなじ現実(リアル)のふたつの〈相〉だ。このふたつの〈相〉が引き裂かれてしまっている。これは、社会(世界)の複雑さ、価値観の変化、高度化したテクノロジーや富の不均衡によってもたらされている。
ふたつの〈相〉をひとつのリアルに統合するのに必要なのは、絶対に情念ではない。構想力に支えられた知でしかありえない。

新しい学を!

『反空爆の思想』吉田敏浩反空爆の思想
吉田敏浩

単行本: 308ページ サイズ (cm): 19 x 13
日本放送出版協会
2006-08
ASIN: 4140910658
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タグ:戦争 読書
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2006年10月17日

高山博・池上俊一編『西洋中世学入門』

『西洋中世学入門』(高山博・池上俊一編)を読了。これは「西洋中世史」の教科書ではない。「西洋中世学」の教科書。

どんなふうに違うのかというと、目次を見るとよくわかるんじゃないだろうか。

序 論 西洋中世学の世界

第一部 西洋中世研究に必要な技術と知識
 第1章 古書体学・古書冊学
 第2章 文書形式学
 第3章 碑文学
 第4章 暦学
 第5章 度量学
 第6章 古銭学
 第7章 印章学・紋章学
 第8章 固有名詞学
 第9章 歴史図像学
 第10章 中世考古学

第二部 西洋中世社会を読み解くための史料
 第11章 統治・行政文書
 第12章 法典・法集成
 第13章 叙述史料
 第14章 私文書
 第15章 教会文書

アペンディクス
第一部
 1 研究入門/2 学術専門誌/3 文書館・図書館/4 辞書・事典類
第二部
 1 暦/2 度量衡・貨幣/3 人名対照表/4 地名対照表
なぜこのような補助学の教科書が書かれねばならなかったか。序論にはこうある。

中世ヨーロッパ研究に関して、日本にくらべてはるかに長い伝統を有する欧米においては、ラテン語原史料を読み解くための基礎的技術・情報が学会の共有財産となっており、大学・大学院教育で体系的に教えられている。また、そのようなノウハウに関わる研究の蓄積も厚く、研究者の数も多い。わが国の場合は、こうした基礎的技術・知識に携わる研究者がほとんどいないというだけでなく、ラテン語原史料を読み解くために不可欠な古書体学や暦学などの歴史補助学の成果も、体系的に整理されていない。これまで、日本のいるかぎりこのような技術・知識を習得するのは極めて困難であった、と言わざるをえない。
理論ではなく、そこに行き着くまでの学、実践としての学。
この本は各分野の要約だけでなく最新の成果も簡単に紹介されていて、ぼくみたいな西洋中世史を専門に学ばなかった人間にも面白く読める。さらに豊富な資料(アペンディクス)がついていてありがたい。度量衡の比較対照表や聖人祝日一覧、文献一覧などはかなり有益。古典文学を読んでいると、実は度量衡の解説が不親切だったりする。これだけコンパクトで「使える」度量衡対照表はこれまでなかったんじゃないか。

ネットをつうじて原史料にあたることが、比較的簡単に出来るようになってきた。
これまでの日本での西洋中世史は、原史料に触れることが困難だったため、どちらかといえば本場での学説紹介という側面が多かった。ようやく日本でも本格的な西欧中世史研究が展開されるようになりつつある。たとえば佐藤彰一の『修道院と農民』のような労作も生まれているわけで、これからがずいぶん楽しみな分野だったりする。こんな教科書で勉強したかった。

『西洋中世学入門』高山博・池上俊一(編)西洋中世学入門
高山博・池上俊一(編)

単行本: 395ページ サイズ (cm): 21 x 15
東京大学出版会
2005-12
ASIN: 4130220195
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『修道院と農民―会計文書から見た中世形成期ロワール地方』佐藤彰一修道院と農民―会計文書から見た中世形成期ロワール地方
佐藤彰一

単行本: 775ページ
名古屋大学出版会
1997-02
ASIN: 4815803110
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2006年10月03日

読書の秋に田中芳樹。

写真にあまり意味なし。

高校生の頃、ずいぶん田中芳樹の本を読んだ。高2の秋くらいかなあ。『銀河英雄伝説』10巻をボンバー君に借りてあっというまに読んでしまった。とてもよく出来たスペースオペラだった。
田中芳樹はタイヘン遅筆な作家ではあったけど、なんせ貧乏学生だったから、出るもの全て読めるわけではなかった。とりわけぼくは偏った読者で、スペースオペラ中心に読んでいた。たとえば『銀河英雄伝説』以外では『タイタニア』(未完)や『七都市物語』(これも未完。他作家によるアンソロジーが出ている)など。

ほかにはファンタジー系の小説をよく読んだ。『自転地球儀世界』シリーズ(未完、というよりは他の作家にプロットまる投げ状態)とか『夏の魔術』シリーズとか。とくに『夏の魔術』シリーズはとてもよく出来たファンタジーだった(4巻で完結したが、惜しむらくは最終巻の出来の悪さ。ほんとうにひどいもんだ。読むんだったら最初の3巻でとどめて欲しい)。

友だちYにはずいぶん受けが悪かった。「またこんな本読んでるの?」とずいぶん冷たい視線を投げつけられたものだ。まあ、俗な本ではあるが。

 左の胸ポケットに三週間の休暇、右の胸ポケットに二十万円、それが能戸耕平の自由を、さしあたりは保障していた。この両ポケットが空になったとき、彼は、散文的な日常に、大学の勉強とアルバイトの生活に、もどっていかねばならない。だが、まあ、あまり思いわずらうのはよそう。まだ旅は、はじまったばかりなのだから。
『夏の魔術』の冒頭。
耕平はひとり旅の途中、12歳の快活な少女、立花来夢と出会い、異界と現実のはざまにある「黄昏荘園」へおもむく。ここからはもう、熱血青年が女の子をかばいながら困難に立ち向かう王道ファンタジーが展開していくわけだ。

田中芳樹の文体は読みやすい。しかも一読して田中芳樹だとわかる。「気の利いた」直喩の効果的な使用、独特の「軽口」や「かけあい」、内心の表出。

 梯子がやってきた。伸ばせば五メートルにも達するであろう折りたたまれた木製の梯子だ。それを執事は肩にかついで、何万人もの兵士を指揮する将軍のように足どりでサロンにはいってきた。彼の視線がフランス窓に向き、耕平に向けられた。落ち着きは失われなかったが、かるい溜息が漏れた。
「これはいささか乱暴なことをなさいましたな。このカーテンは多少は由来もあり、当家の自慢でございましたが」
「悪かった。来夢を助けだしたらきちんと話をつけるから、そのときのことにしてくれ」
「ではそういうことにさせていただきます。ところでこの梯子はどういたしましょうか。あいにくと当家には絵具がございませんので、お役に立てないかもしれませんが」
 表情をまったく崩さずに執事は言い、耕平が口を開きつつも言葉につまったとき、北本氏が助け舟を出した。
「予定変更だ。外壁に梯子をかけて三階に上りたい。手伝ってくれんかね」
「この雨と風の中をでございますか。せめてもうすこし天候が回復してからになさってはいかがでしょう。いえ、出すぎた申しようではございますか、お客さまのおためを思いましてのことでございます」
「天気予報はどう言ってる?」
「存じません。当家にはテレビやらラジオやらといった俗なものはございませんので」
それにキャラクターの造形にも特徴がある。田中芳樹の小説は、年齢が離れた2人がコンビとなって主役となることが多い。
たとえば、『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリーとユリアン・ミンツ。『自転地球儀世界』の周一郎と多夢。『夏の魔術』の耕平と来夢、もうひとりの重要な登場人物、北本氏など。
毒舌家も多く登場する。『銀河英雄伝説』はヤン・ウェンリーをはじめ毒舌家だらけだし、『薬師寺涼子』シリーズの主役も超毒舌家だ

まあ、彼の『蒼龍伝』シリーズも、『アルスラーン戦記』も、『薬師寺涼子』シリーズも、最近の中国関係の作品も、全部読破したわけじゃない。なにも考えずぼんやり読むには、田中芳樹はとても気持ちのいい作家だ。また読み始めてみるかな、と思っている今日この頃。

『夏の魔術』田中芳樹夏の魔術
田中芳樹

単行本(ソフトカバー): 210ページ
講談社
2000-07
ASIN: 4061821423
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『窓辺には夜の歌』田中芳樹窓辺には夜の歌
田中芳樹

単行本(ソフトカバー): 207ページ
講談社
2000-10
ASIN: 4061821539
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『白い迷宮』田中芳樹白い迷宮
田中芳樹

新書: 213ページ
講談社
2001-01
ASIN: 4061821636
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『春の魔術』田中芳樹春の魔術
田中芳樹

新書: 190ページ
講談社
2002-09
ASIN: 4061822497
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2006年10月01日

生田耕作・訳 『愛書家鑑』

 「君は奴の蔵書のすばらしさを知らんのか?」当惑顔の代理人を李(すもも)の木のように揺さぶって、ギュマールは怒鳴りつけるような調子で。「そう知るわけがない。まず第一に、奴はなにからなにまで揃えとった! いやそれだけじゃない、奴が仕舞い込んどった飛切り貴重な手写本や揺籃期本(インキュナビュラ)のなかには、グーテンベルクよりもはるか以前に印刷された十五世紀最初の本、断食と宴会を歌にした、木版画入りの詩集、『でぶと痩せっぽちの言葉』Le Dict de gras et de maigreも混じっとるんだ、わかるかね? しかも1405年、ライデン刊となっとる! 十六世紀に製本された『聖書』をばらした際に発見された、保存状態も完璧の、世界に二つとない珍本なのだ。
 それにシジスモンのやつはグーテンベルクが最初につくった本も持っていたんだ、可動式活字を使って印刷された最初の本、奴が発見するまでは知られてもいなかった本で、ストラスブルグの店が1438年に開かれていたことはこれで初めてわかったんだ。あらゆる疑惑、あらゆる否定を顔色なからしむる、刊行年月と発行者名が印された『黙示録』・・・おわかりかな、1438年刊のグーテンベルク本! ああ! あの世界に二つとない奇跡的な1438年刊グーテンベルク本を手に入れるためなら、なにを投げ出しても惜しくはない! なんでも呉れてやる! 十年や十五年寿命が縮まろうとも!」
今は亡き生田耕作が訳した『愛書家鑑』を読む。オクターヴ・ユザンヌのこのコントは、紀田順一郎の編んだ『書物愛』(晶文社刊)にも収録されている(無論、生田訳ではあるが「シジスモンの遺産」と改題している)。

ギュマールというビブリオフィル(愛書狂)が死んだライバルの遺した蔵書を狙って四苦八苦するコントなんだけど、これがまあおもしろい。愛書狂かくあるべし、という熱情が迸る。
たとえば、上の引用後も数ページに渡ってウンチク交じりなビブリオフィルの魂の叫びが続き痛快。ごく短い40Pほどのコントだけど、その悲喜劇的な結末には身につまされるものがある。

+ + +

もちろん、ぼくはビブリオフィルじゃあない。本は好きだけど。
見ず知らずのアラビアの王様から何故か油田かガス田かを譲られて、湯水の如くお金を使えるようになったらそうなっちゃうかもしれないが、今のところビブリオフィルになる兆候はないみたい。ともちゃんも安心してください。

でもぼくが学生のころ古書店で働いていたとき、あきらかにビブリオフィルとおぼしきおっさんたちをよく目にしていた。目録を発送するとすぐに電話をよこして、何万円も何十万円も買いつけるのだ。

とくに大内版『聚分韻略』を目録に載せたときは大騒ぎだった。15世紀末の木版印刷本で、超稀覯本。200万円だったか300万円だったか、とにかく車1台分くらいの値段をつけていたと思う。それでもすぐにこの本目当ての電話がじゃんじゃん鳴ったので、新米かつ貧乏学生だったぼくはびっくりしたのだった(ちなみに大内版『聚分韻略』は、いまじゃこの値段では買えないと思う)。

中原中也の『山羊の歌』文圃堂初版本も扱ったことがある。箱に入っていて(これは前の持ち主が特別に作らせたものだった)開けると樟脳の匂いがした。高村光太郎の装幀だったか。保存状態も完璧な大変な美本で、息をかけるのがはばかられるほどだった(さすがにこの本は地方の古書店では扱いかね、「市」に流したのだった)。

+ + +

『愛書家鑑』は、生田耕作が主宰した奢覇都館でまだ扱っている。できれば奢覇都館版をオススメする。装幀などがさすがに凝っている。アルベール・ロビダの挿画も目玉だ。アルベール・ロビダについては、エントリーを改めて書こうと思っている。

奢覇都館オフィシャル・ホームページ

『愛書家鑑』オクターヴ・ユザンヌ Octave Uzannne愛書家鑑
オクターヴ・ユザンヌ Octave Uzannne
生田耕作(訳)

単行本:B5変型 上製本 カバー装
奢覇都館
1991-01



『書物愛 海外篇』紀田順一郎(編)書物愛 海外篇
紀田順一郎(編)

単行本: 354ページ サイズ (cm): 19 x 13
晶文社
2005-04
ASIN: 4794966644
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2006年09月14日

パメラ・D. シュルツ 『9人の児童性虐待者』

雨に濡れた鍵

個人的レベルにおいては、被害者・加害者両方のセルフ・ナラティヴを解釈することが、児童性虐待が自己イメージや自己表現に与える影響を理解する手段と考えられる。ただし、これらのナラティヴは、互いに無関係に存在してはならない。なぜなら、被害者側と加害者側、その両方のナラティヴが、事件の現実を構成し、反映しているからだ。両者のナラティヴに進んで耳を傾け、身を入れて聞きとれば、児童性虐待についての新しい文化的理解が構築できるだろう。こうしたナラティヴは、児童性虐待が社会の中でどのように機能しているかについての情報源となる。なぜなら、性、性的傾向、性習慣が権力の手段となる方法を伝えてくれるからである。性虐待のシステムがどのように自己永続的であるかを認識すれば、うわべばかりの外部的な対抗手段から目をそらし、本当に着目すべきところに注意を集中させられるだろう。着目すべきは、被害者であり、かつて被害者であった大人であり、彼らが黙って虐待のサイクルをくり返すやり方なのだ。
+ + +

著者のパメラ・D・シュルツ自身も児童性虐待の被害者である。

性暴力は「マクロな政治」の手段として使われることも多いし、家庭内の「ミクロな政治」の手段として使われることも多い。ゆえに、それらが端的に「暴力」として露見することは少ない(「わたしは彼女/彼を愛していたのだ」云々)。
だから、これは当たり前のことだが、性暴力を抑止するにはそれが社会の中でどのように機能しているか、あるいはそれらがどのように「権力の手段」と化するかを分析する必要がある。被害者のナラティヴと同時に加害者のナラティヴも、常に分析の対象としなくてはならない。

日本ではこういう基礎的な研究がまだまだ少ない。「イエ制度」との関わりもあるだろう。研究の進展を望む。

『9人の児童性虐待者』パメラ・D. シュルツ9人の児童性虐待者
パメラ・D. シュルツ Pamela D. Schultz
颯田あきら(訳)

単行本: 441ページ
牧野出版
2006-08
ASIN: 4895000923
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舞城王太郎 『好き好き大好き超愛してる。』


雨の日の景色

・・・「ゲラゲラ笑いながら小説書いたとか言って適当に仕事しすぎなんじゃん?もっとまじめにやったら?」「は?あのなあ。おめえ分かってねーようだから言ってやるけど、真面目な顔してりゃ真面目なんじゃねーんだぞ」「宇宙人とか魔法とかそんなことばっかり書いてて、それが真面目とは言えないだろ」「何言ってんだ知りもしないこと中途半端な想像だけで判断しやがってバカ。そういう宇宙人とか魔法とかを本気で信じるのと一緒にするなよ。そういう、宇宙人とか魔法とかってのは、比喩みたいなもんなんだよ。宇宙人とか魔法とか、そういうもんが表す何かが重要なんだよ」「宇宙人とか魔法とか、そんな子供騙しくせーもんがいったい何表すんだって」「子供臭い何かを表すんだよ」「・・・?」「ないもんをないとして諦める前の、ないけどあったらいいよな、とか、あったら困るよな、とかそういうことを思える気持ちとか、そういうふうに思う奴がいる世界を俺は小説ん中に持ち込んでんだよ。って言うのは、まあ例えばだけど」・・・
+ + +

これが「ライトノベルズ」って奴か? マジ? ま、どうでもいいけど。

さすが斎藤環先生が推薦するだけある。
舞城王太郎、すさまじい筆力だ。(これまで)文学に必要だと思われていた「構想力」ってもんを徹底的に無視して、ただ文体だけで文学している。こんなもんを10代が読んでいるんだとしたら、学校の先生たちは何を教えたらいいというのか。

文体は己の中にしかない。自閉した世界で、子どもたちは何を見つけるのか。

『好き好き大好き超愛してる。』舞城王太郎好き好き大好き超愛してる。
舞城王太郎

単行本: 274ページ
講談社
2004-08-07
ASIN: 4062125684
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2006年09月13日

デイヴィッド・グロスマン 『ライオンの蜂蜜』

レンブラント『目をえぐられるサムソン』、1636年
レンブラント『目をえぐられるサムソン』、1636年

・・・サムソンの人生は神の手中にある巨大な鐘(バアモン)で、その意のままに不思議な音色をとり混ぜてチリチリ鳴ったり、ときには音楽のようにひびきわたったが、たいていはキイキイきしんだり、がなりたてたり、不協和な音をたてたりした。不幸な鐘は力のかぎりにたわまず、はげしく揺れ、その音はダン族の村からペリシテの町までこだましたのだった。
だが、鳴り止む前、記憶に、神話に、芸術に刻み込まれた瞬間、サムソンは二本の柱を抱えて押し倒し、建物を、ペリシテ人を、自分自身を倒した。最後の一瞬は――それまでのサムソンの驚異的な行動同様に――鋭く透徹した言葉「私の魂を殺してください、その生をつねに生きたごとく」に凝縮される。真に寄り添う魂ひとつなく、孤独に、倦むことなく彼を傷つけ裏切り嘲ったよそ者たちのなかで。どうか、わたしをペリシテ人たちとともに死なせてください。
+ + +

サムソンは旧約聖書の士師記13章から16章に登場する。彼は怪力をもち、粗暴で、好色だが、じつに哀しい人物だ。『ライオンの蜂蜜』は、このサムソンを主題としている。(上に引用したのは、この本の最後の部分なんだけれども、読みながら正直泣きそうになった。)

イスラエルの作家デイヴィッド・グロスマンが、サムソンの神話を新しく解釈しなおし提示する。方法論はいくぶんデリダ的だが、より平易な(そのぶん「綱渡り」的な)論旨で読み易い。

わたしと神。わたしとわたしの周りにいるよそ者。
神はわたしをこの世に投げ出し、よそ者たちは、みな私を裏切る。わたしは裏切りの意図を知りながら、わたしを裏切るはずのよそ者を信じ、その結果眼を抉られ、髪を切られ、神より与えられた膂力を奪われる。
しかしサムソンは、かつてそのありあまる膂力で、ペリシテ人1000人を撲殺していたのだった。

グロスマンは、パレスチナにおけるユダヤ人についてだけではなく、自爆テロで死んでいくイスラムの若者たちのことも念頭においている。
「真に寄り添う魂ひとつなく、孤独に、倦むことなく彼を傷つけ裏切り嘲ったよそ者たちのなかで」、サムソンはペリシテ人と呼ばれるよそ者たちを道連れにして、独り死ぬ。彼は自爆テロを起こした、おそらく最初のひととして、歴史に描かれているのだ。

『ライオンの蜂蜜』デイヴィッド・グロスマン David Grossmanライオンの蜂蜜
デイヴィッド・グロスマン David Grossman
母袋夏生(訳)

単行本: 166ページ
角川書店
2006-08
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2006年09月04日

フランシス・キング 『家畜』

雨の日

私は自分のことを、外科的処置にせよ薬にせよ、また転地にせよ休息にせよ、どんな治療を施しても、症状が一時的にやわらぐことはあっても、決して完治することのない病に冒された人間であると思っている。もちろんそのような病気を患う人間の常として、私も「奇跡」を願わぬわけではない――ごく希な事例として、病が自然治癒していくことがあるのは、医者でさえ認めている。深く肉体に根を張っていた病巣がとつぜん解体し始め、長い間抑えられていた本来の働きを主張する組織の中へ吸収されるのである。だが、そんな僥倖が私に訪れることはまずなかろう。病は終生、私の中に棲みつづける。それは消滅を私と分かち合うものであり、今では私の一部となり、取り除くことの叶わぬものであるので、それなくして私は、自分の未来を描くことができない。
フランシス・キングの『家畜』を読んでいる。とくに若いひとにはあまり馴染みがないかもしれない。イギリス文壇では長老とされる作家で、三島由紀夫とも親交があった。最近、「具体」(1950年代〜60年代にかけて阪神を中心に活動した現代美術家たちのグループ)とキングの関係について新しい研究がされていて、文学フェチの間で話題になった。

『家畜』はスキャンダラスな内容で当時の文壇を騒がせた小説だ。結局出版社は、キングに対して圧力をかけ、そのプロットを変更し刊行させた。もちろんぼくの読んでいるのは、当初の構想に基づいたバージョンの翻訳である。

『家畜』フランシス・キング家畜
フランシス・キング Francis King
横島昇(訳)

体裁=単行本: 332ページ
みすず書房
2006-04
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