2007年04月02日

香りの人工楽園――トム・ティクヴァ『パフューム ある人殺しの物語』

パフューム ある人殺しの物語 (2006/独=仏=スペイン)

『パフューム ある人殺しの物語』を観る。
監督はトム・ティクヴァ。『ラン・ローラ・ラン』のひとだ。原作はパトリック・ジュースキントの『香水』。ずいぶん前の出版されたのでまったく忘れていたけど、池内紀訳で少し話題になった本だ。たしか読んだような(あんまり記憶にない)。

まあ、ある種「ト学会ネタ」的な発想を膨らませて出来た映画なんだけれども、その感じがどうしようもなく鼻につくのは、やっぱりサスペンス側に寄り過ぎてしまってるからだ。なんでもかんでも人殺しの話にすれば良いというものではあるまい。それならそれでゴダールみたく徹底的にかつ簡潔にやるべきだ。この映画しかり、『ダ・ヴィンチ・コード』しかり。

香りを世界の把捉のほとんど唯一の手段としている〈異邦人〉をせっかく主役にしているのに、出自が悪臭紛々たる魚市場出身だからといって連続殺人鬼にしちゃあまりにかわいそうじゃないか。〈異邦人〉の主人公ジャン=バティスト・グルヌイユには、ほとんど無限の可能性があるはずだった。

グルヌイユは、香りを保存するために連続殺人を行う。その過程で自分自身に体臭がないことを知り、また大衆を洗脳する香り(フェロモン?)の調合にすら成功する。このあたりの展開がどうしようもなく滑稽で、しかも金を湯水のごとく使ってそれを映像化した監督とプロデューサーたちもおかしいんじゃない?

パフューム ある人殺しの物語 (2006/独=仏=スペイン)

世界の中心に立ちたかったグルヌイユは、最終的に彼の生み出した魔法の香りによってその位置に立つことができる。だが、彼自身気づくように、彼自身まるで空虚のままだ。

殺した娘ローラの父親リシに、グルヌイユは殺して欲しいと願うがそれも叶わない。リシは香りに惑わされ、グルヌイユを「我が息子」と呼び泣きながら抱きしめる。
ここに近親相姦の構図も指摘しておきたい。リシが惑わされた香りは、娘ローラの肉体の放っていた香りである。近親相姦の幻想のなかで、グルヌイユはどんなにひどいことをしても、憎まれもせず愛されもしない。
ずっと空虚なまま世界の中心に立ち尽くす。まるでこの国の〈天皇制〉のようだ。

パフューム ある人殺しの物語 (2006/独=仏=スペイン)

まあ、このお話自体、近親相姦やらカニバリスムやら、批評家ウケのよさそうなギミック満載なので、そんなところにいちいち反応してしまうのもどうかと思うわけだ。
この手のギミックにはアンドリュー・バーキンの嗜好が出ているようにも思える。こんなに予算を使って、こんなにいい俳優をそろえて、こんなおバカ映画を、こんなに大真面目に撮るってのもアンドリュー・バーキンっぽいと言えなくもない。

グルヌイユ役のベン・ウィショウはとても巧い俳優だと思う。ドニ・ラヴァンの再来か。リシ役のアラン・リックマン(『ハリー・ポッター』のスネイブ先生)も存在感がある。ローラ役のレイチェル・ハード・ウッドが美しい。この映画を撮ったとき14歳くらい? 正直そうは見えないが。ダスティン・ホフマンも相変わらずよし(このひとのちょっとした仕種にコミックを感じてしまうのは、ぼくの思い入れ故なんだろうか)。

パフューム ある人殺しの物語 (2006/独=仏=スペイン)

香り。
ぼくが思い浮かべるのは当然、ユイスマンスの『さかしま』だし、デ・ゼッサントの創造する香りの人工楽園だ。この映画を観ながら、ぼくがずっと考えていたのは「もし主人公がデ・ゼッサントだったら」ということだった。

とてつもない、崇高なる自然、本物ではなく、魅力的で、全く逆説的であって、熱帯地方の唐辛子、中国白檀の胡椒の効いたような息吹、ジャマイカのエディオスミアを、ジャスミンのフランスの香り、セイヨウサンザシ、クマヅラと結び合わせ、季節や気候に関わらず、様々なエッセンスの木々、色とりどりで、最も対立する芳香を持った花々を生じさせ、これら全ての調子を溶けさせ合い、ぶつけ合って、普遍的で、名づけようのなく、奇妙な香りを作り出し、その中に、執拗なリフレインのように、始めの装飾的文句、リラとボダイジュの香りに満ちた広い牧場の香りが再び現れて来るのである。
どうせ大金を使うんなら、誰か『さかしま』を映画化しないもんだろうか。

パフューム ある人殺しの物語 (2006/独=仏=スペイン)

パフューム ある人殺しの物語 (2006/独=仏=スペイン)
Perfume: The Story of a Murderer

製作総指揮 フリオ・フェルナンデス / アンドレアス・グロッシュ
   / サミュエル・ハディダ / マニュエル・マル / マルティン・モシュコヴィッツ
   / アンドレアス・シュミット
製作 ベルント・アイヒンガー
監督 トム・ティクヴァ
脚本 アンドリュー・バーキン / ベルント・アイヒンガー / トム・ティクヴァ
原作 パトリック・ジュースキント
撮影 フランク・グリーベ
美術 ウリ・ハニッシュ
音楽 ラインホルト・ハイル / ジョニー・クリメック / トム・ティクヴァ
衣装 ピエール・イヴ・ゲロー
特殊メイク ウォルド・メイソン
編集 アレクサンダー・バーナー
配給 ギャガ・コミュニケーションズ
出演 ベン・ウィショウ / ダスティン・ホフマン / アラン・リックマン
   / レイチェル・ハード・ウッド / コリンナ・ハルフォーフ / ジョン・ハート
   / カロリーネ・ヘアフルト / デヴィッド・コールダー / サイモン・チャンドラー
   / イェシカ・シュヴァルツ / パウル・ベロンド / ティモシー・デイヴィース
   / ハリス・ゴードン / サラ・フォレスティエ / ジョアンナ・グリフィス
   / ビルギット・ミニヒマイアー
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2007年01月02日

我々は自らを律するルールの中で不条理に立ち向かっていくしかない――神山健治『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society』

神山健治『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society』

昨年末は仕事に忙しくて、ろくにDVDをチェックする暇もなく過ごしていた。『攻殻機動隊 Solid State Society』なんて1ヶ月も前に発売されていたのに、だ。ありえねぇよ。
で、ようやく通して観る。さすがに作画等映像のクォリティは素晴らしいし、これだけ見事なプロットを書ける人は、宮崎駿が衰弱してしまった現在、押井守と神山健治くらいじゃないか。

神山健治といえば、フリーとはいえProduction I.G.を拠点とする押井塾出身のクリエイター。前シリーズ2作は「押井守を意識的にコピーした」とどこかで発言していたように、「社会」そのものが持つ怪物的で不条理で〈無意識的〉力を描くのが得意だ。押井の発想の延長上に〈スタンド・アローン・コンプレックス〉があるわけで、それを見出した(創造した)神山健治は、押井以上に押井的だ。
この『攻殻機動隊 Solid State Society』について言えば、これまで以上に押井の志向する方向性を推し進め、ついに「具体的な未来像」までをも提示出来得ているのではないかと思う。

たとえば、公安9課の追う超ウィザード級ハッカー「傀儡廻」の正体は三重である。まず、ソリッド・ステイト・システムを構築したコシキというリモート義体遣いの官僚、同時にネットを彷徨していた少佐が並列化を繰り返した結果一人歩きをはじめた「少佐の無意識」、そして真の正体はおそらく、ネットに泡のように生まれたり死んだりしながら拡大し続ける〈ソサエティ〉とよばれる何かである。

神山健治『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society』

〈ソサエティ〉とはなにか。
貴腐老人のひとりは「ソリッド・ステイトに住む者たちの総意」を口にし、ゴースト・ハックされたテロリストは傀儡廻のことを「誘拐のインフラ」と言う。
〈ソサエティ〉は、単に無意識的で目に見えないものではない。それはたしかに無意識的な諸欲動を備給され駆動の糧とするが、なにより機構でありインフラである。
〈ソサエティ〉の概念として、おそらくフェリックス・ガタリのいう「機械状無意識」がいちばん近い。ガタリの『機械状無意識』には、つぎのように定義されている。

それ(機械状無意識 l'inconscint machinique)は、単にそこに宿されているものがイメージや言葉だけではなく、あらゆる種類の機械装置であり、これらの機械装置によって無意識はこれらのイメージや言葉を産出したり、再現したりするように仕向けられるということを強調する・・・

個人の内側にあって、その人が世界を知覚したり、自分の身体、自分の領土や自分の性を体験するやり方においてのみ働くだけでなく、夫婦や家族や学校や近所や工場や競技場や大学等の内側にあっても働くものなのである。
「機械状無意識」の相のひとつは、ナショナルな共同体やさまざまな様態をした抑圧の主体として出現する。が、それは基本的に(すくなくともその出現の当初においては)法や官僚組織というプロセスを通して現れる。
しかし、未来の電脳化された世界においては、機械状無意識はリアルワールドにごく容易にその姿を現すことになるだろう。当初は、コシキや少佐のような〈個〉からはじまるのかもしれない。しかし、それがハブを介し〈ソサエティ〉へと拡大していく。

神山健治『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society』

傀儡廻は、「誘拐のインフラ」の着想についてこう語っている。

傀儡廻
この国はいい加減、誰かが何とかしなければいけない状態に来ている。600万を超える貴腐老人、失業率の増加と反比例するように減少を続ける労働人口、そして少子化。挙げ始めたらきりが無い。
知っているか? これだけ少子化が叫ばれる中、年間5万人もの6歳未満の子どもが無意味に命を落としていることを。その内の3割はドメスティックな暴力による虐待死、しかもその内の8割は児童相談所や警察など関係機関が自体を把握していたにも関わらず防ぐことができなかったものだ。この国のシステムは既に崩壊し、〈個〉のポテンシャルは著しく低下してしまっている。
そこで私は無意味に損なわれてしまうゴーストのリサイクルを思いついた。虐待監視ネットから危険な子供を見つけ出し、戸籍をロンダリングする。それで新しい人生を歩ませようと考えたわけだ。

少佐
それがソリッド・ステイト・システムの基本概念か?

傀儡廻
そうだ。だがそれには貴腐老人たちの協力は不可欠だった。彼らは自分たちの存在意義を見出すことに対しては貪欲だ。DNAを残せなかった代わりに、記録上のポスタリティを作り財産を譲り渡す。それで資産を国に没収されることなく、経済行為に加担し続けることが出来るわけだ。彼らは喜んで賛同してくれた。

少佐
それって犯罪行為って分かってる?!

傀儡廻
ああ。だが結果を優先した場合それはやむを得ない選択だった。危機的状況にある子どもを一刻もはやく救うことのほうが先決だったからだ。それで自分の人生を棒に振ったとしても後悔はない。いやむしろ官僚になった意味があるというものだ。あとはソリッド・ステイト・システムが永久機関となるよう、構造を強化してやればそれで良かった。
もともと、犯罪とはいえ、善意のインフラとして出発したソリッド・ステイト・システムは、筋金入りのナショナリストである宗井代議士によってパワーエリートを養成する非公然の国家組織と化し、カルマ将軍率いるテロ組織の大規模な細菌テロ計画に利用されそうにもなる。
傀儡廻はまずカルマ将軍とその一派のパージに成功し、さらに宗井をもパージしようとするが公安9課による介入で失敗。そこで、当の公安9課(というよりも少佐)を利用して宗井のパージを画策する。

神山健治『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society』

〈個〉から生まれた〈ソサエティ〉の暴走を抑えるのは、結局〈個〉でしかない。だから傀儡廻は少佐を選ぶ。傀儡廻が、少佐の並列化の結果生まれたゴーストだからではない。(ところで傀儡廻は、はたしてゴーストといえるのだろうか? 結局物語の中では明かされないが。)

トグサは最後にこう独りつぶやく。

願わくば成長した彼らが、将来〈個〉のポテンシャルを上げて我々の出せない答えを見つけ出してくれることを祈るばかりだ・・・
ヴィリリオのいう「速度の政治」や「遅延のテロル」だけが未来の主問題ではなかろう。S.A.C.を機械状無意識と絡めて考えたテキストが見当たらないのはちょっと残念だ。電脳化世界に生まれる機械状無意識の様態を、詳しく分析することのほうが先ではないか。

+ + +

おまけ。
このプロットでテレビ・シリーズをやって欲しかった気がする。細部へのこだわりと錯綜する伏線こそが『攻殻機動隊 Stand Alone Complex』シリーズの楽しみだ。100分では到底足りない。

+ + +

もうひとつ。「Solid State Society」という言葉で思い出すのは、YMOの「Solid State Survivor」。中期YMOのパンキッシュで素晴らしい曲。おそらくこの音楽も神山健治の念頭にあったんじゃなかろうか。

 Solid State Survivor
 Lyrics:Chris Mosdell Music:Yukihiro Takahashi

The strangeness of the strangers
Second hand teenagers
Face to face they face
A chemical race.

Minds blind
Empty eyes
Blank tongues ablaze
No names
Breath in dreams
Stand in lines, cracked smile.
Life to life collides
Solid state survivor.

And Marilyn Monroe’s not home
So I sit alone with the video
And Tokyo Rose is on the phone
Dressed to kill in her skin tight clothes
Here’s to a humanoid boy
Smiling, happy and void
Solid state survivor.
士郎正宗・原作 神山健治・監督『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society』攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society
士郎正宗・原作 神山健治・監督

Color, Widescreen, Dolby
バンダイビジュアル
2006-11-24
ASIN: B000GLKNO6
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フェリックス・ガタリ Felix Guattari『機械状無意識―スキゾ分析』機械状無意識―スキゾ分析
フェリックス・ガタリ Felix Guattari
高岡幸一(訳)

単行本: 418ページ
叢書ウニベルシタス 308
法政大学出版局
1990-10
ASIN: 4588003089
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Yellow Magic Orchestra『Solid State Survivor』Solid State Survivor
Yellow Magic Orchestra

Virgin
2004-02-02
ASIN: B0000DEL9V
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2006年12月17日

Coming From Above――ゲイリー・ウィニック『シャーロットのおくりもの』

ゲイリー・ウィニック『シャーロットのおくりもの』(2006/米)

児童向けファンタジーの古典『シャーロットのおくりもの』の映画化。FBSさんの試写会にあゆむさんとペアで招待された。西鉄ホール。ちなみに吹き替え版です。女の子二人、カップル、年配の夫婦、子ども連れの親子など、なかなか客層は広そう。

+ + +

ゲイリー・ウィニックという名に記憶がないので検索してみると、ヴェンダースが撮った『ランド・オブ・プレンティ』(2004)に製作としてタッチしている。いくつか自身が監督している作品もあるけれども、ぼくはすべて未見。
どちらかというとこの映画、ダコタ・ファニングに期待していたが、実際観てみるとあまり彼女が出る必然性はない。むしろもっと無名の子役のほうが良かったような気がする。ストーリーは原作に忠実でヘンなひねりはない。だからこそファンタジーのエッセンスが凝縮されているように思う。

たしかに動物が主人公の映画ってのは、アントロポモルフィズムやオリエンタリズムに陥る可能性が指摘されてなかなか楽しめなかったりもする。そりゃあこのご時勢、オリエンタリズムに敏感にならざるを得ない。映画は資本主義(というか消費主義)とグローバリゼーションにモロにつながった芸術だ。だけど、こういう友愛を謳う映画は、そんなムズカシイことはいったん棚上げにして、子どもと一緒に楽しんでもいい。

ゲイリー・ウィニック『シャーロットのおくりもの』(2006/米)

『シャーロットのおくりもの』は、ブタのウィルバーとクモのシャーロットの友愛のお話。
ウィルバーは、シャーロットの名前を「いい名前!」と言う。いやウィルバーにとってはどんな名前も「いい名前!」 ここに名前と友愛の秘密があるように思う。

挨拶のはじまり、つまり目の前に彼女/彼の名前を呼ぶこと。クモのシャーロット、ネズミのテンプルトン、羊のサミュエル、ガチョウのグッシーとゴリー、馬のアイク、牛のベッツィー。この世界にひとつしかない名前を呼ばれて、友愛が始まる。(そう、ぼくは師レヴィナスを思い浮かべている。だけどあんまり難しく考える野暮はよそう。)

アイクにはシャーロットの醜さが耐え難い。姿形だけではなく、ハエのような小虫を網で捕らえ「血」を吸うということも、アイクにとって倒れてしまうほど忌まわしいことだ。
しかし、そんなアイクの隣で、ウィルバーはシャーロットの名を呼び、その姿を「綺麗だ!」と誉める。シャーロットは、自身がいい名前を持ち美しい存在であることを、おそらく生まれてはじめて意識したのだろう。だからウィルバーの命を守ろうとする。

ゲイリー・ウィニック『シャーロットのおくりもの』(2006/米)

映画が終わって館内が明るくなると、後ろに座っていた女の子たちが、涙声で、でも笑いながら「〈ぴかぴか〉と〈ひかえめ〉はないよねえ」と言っていた。ぼくもそれを聞きながら笑ってしまった。
シャーロットが紡ぐ〈とくべつなブタ〉〈さいこう〉〈ぴかぴか〉〈ひかえめ〉というユーモラスで美しいことばたち。みんなウィルバーのことだ。そこに紡いだことばについて、シャーロットは「あなたそのものを表したことば」とウィルバーに伝える。名前を呼んでくれたお礼に空に架けられたのは、キラキラ輝くことば。まるで大切な秘密を明かすように、彼女はそっとウィルバーに伝えた。

与えることば、与えられたことば、そしてその神秘。
人間の大人たちはシャーロットがどんな風に生きたか知らない。だけど、たしかにその神秘は人間にも伝えられた。
納屋の仲間たちは皆、アイクやテンプルトンも、ウィルバーと同じように彼女を愛し、彼女の子どもたちの命を愛する。ブタがクモの名前を呼ぶことからはじまった「小さくてよいこと」が、少しだけその町を変えていく。

+ + +

Help Is Coming From Above.
アメリカでのポスターには、こうコピーが書いてあった。これは決して宗教的な文句じゃない。
ぼくの信念は「幸せは突然のプレゼントのようなもの」。このフレーズとおりだ。空から降ってくる幸せ。雪を見ることができる幸せ。

+ + +

あゆむさんにはちょっと難しい映画だったかな?
でもパパとママは、シャーロットのようにいたいのだよ、いつでもね。

ゲイリー・ウィニック『シャーロットのおくりもの』(2006/米)

ちなみに字幕版にはジュリア・ロバーツやスティーヴ・ブシェミ、ロバート・レッドフォードが声優として参加している。どんな感じなんだろう。特にブシェミの声って!
吹き替えのシャーロット役の声、鶴田真由が素晴らしい。思慮深く賢く誠実なシャーロットをよく演じていると思う。

動物たちのシーンが必然的に多いけれども、この手の映画で感心するのはやっぱりCG。おおよそ実写で撮って、それをモーフィングで動かしている。クモのシャーロットだけはオールCGなはずだけど質感にほとんど差が感じられない。ただでさえ自然が多い背景なんだけど、CGと違和感がないのはたいしたもんだ。
エンディングのアニメーションが本当に素晴らしい。テーマ曲サラ・マクラクランが歌う「オーディナリー・ミラクル」がまたよくって、涙腺がうるんでしまう。だから最後まで席は立たないこと。

『シャーロットのおくりもの』公式サイト

ゲイリー・ウィニック『シャーロットのおくりもの』(2006/米)

シャーロットのおくりもの(2006/米)
Charlotte's Web

製作総指揮 ポール・ニーサン / バーニー・ウィリアムズ
  / エドガー・M・ブロンフマン / ジュリア・ピスター
製作 ジョーダン・カーナー / パラマウント・ピクチャーズ
監督 ゲイリー・ウィニック
脚色 カレイ・カークパトリック / スザンナ・グラント
原作 E・B・ホワイト
撮影 シーマス・マッガーヴェイ
音楽 ダニー・エルフマン
編曲 ピート・アンソニー / スティーヴ・バーテック
衣装 リタ・アイラック
編集 スーザン・リッテンバーグ
特撮 ティペット・スタジオ
出演 ダコタ・ファニング / ケビン・アンダーソン / エシー・デイビス
声 ジュリア・ロバーツ / オプラ・ウィンフリー / スティーヴ・ブシェミ
  / ジョン・クリーズ / セドリック・ジ・エンターテイナー
  / キャシー・ベイツ / レバ・マッケンタイア / ロバート・レッドフォード
  / トーマス・ヘイデン・チャーチ / アンドレ・ベンジャミン
  / サム・シェパード
吹替 鶴田真由 / 福田麻由子 / 山寺宏一 / 松本伊代 / ヒロミ
  / LiLICo / 千原兄弟・靖史 / 千原兄弟・ジュニア / 高橋英樹
配給 パラマウント・ピクチャーズ / UIP
E.B. ホワイト『シャーロットのおくりもの』シャーロットのおくりもの
E.B. ホワイト E.B. White(作)
ガース・ウィリアムス Garth Williams(絵)
さくまゆみこ(訳)

単行本: 223ページ サイズ (cm): 21 x 15
あすなろ書房
2001-02
ASIN: 4751518895
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2006年12月11日

そして狼は、赤ずきんを食べた――沖浦啓之『人狼 JIN-ROH』

沖浦啓之『人狼 JIN-ROH』(1999/日)

この物語は、ドイツに占領統治された歴史を持つ、架空の日本を舞台としている。

高度経済成長期を迎え国際社会に復帰しつつある日本だったが、セクトと呼ばれる都市ゲリラによるテロが頻発しいまだ社会情勢は不安定だった。
首都圏に限定された警察力である「首都圏治安警察機構」(通称、首都警)、そのなかでも特にプロテクトギアで武装した「特機隊」が、セクトと暗闘している。しかし数年前よりセクトの武装闘争も退潮。マスコミも首都警の存在意義を問い、警察庁内部にも首都警解体論が公然と議論され始めている。
首都警内部ですら一枚岩ではない。首都警幹部の半田は非公然の諜報組織「人狼」を組織し、首都警解体の動きへひそかに抵抗を開始している。一方、首都警公安部の室戸は首都警と警察庁の統合を画策している。

特機隊隊員の伏は、セクトに所属する少女・七生を追い詰め自爆死させてしまったことから、首都警公安部・辺見の陰謀に巻き込まれていく。

沖浦啓之『人狼 JIN-ROH』(1999/日)

おそらくこの世界の東京は空襲による無差別爆撃を受けていない設定なのだろう。レトロなビル街の谷間に機動隊が整列し、デモ隊の火炎瓶が飛び交う。
特機隊は、ゲリラの兵站部隊を追って地下水道を捜索する。赤レンガで出来た地下水路網。プロテクトギアには暗視装置がついていて、いわゆる「紅い眼鏡」が光る。まるで狼の群れのように。彼らはゲリラを狩る。

童話「赤ずきん」が物語の中に挿入されるのだが、実に謎めいている。この挿入された「赤ずきん」の冒頭はこんなものだ。

昔、ひとりの女の子がいて母親に七年も会っていませんでした。女の子は鉄の服を着せられて、たえずこう言い聞かされていました。服がすり切れたらきっと母さんへ会いに行けるよ。女の子は必死に服を壁へすりつけて破こうとしました。とうとう服が破けミルクとパンそれにチーズとバターを少しもらって母親の許へ帰ることになった女の子は、森の中で狼に出会い、なにを持っているのかと訊かれました。
まるで七生の生まれ変わりのように伏の前に現れた、「七生の姉」を名乗る雨宮。彼女が語る赤ずきんの物語は異様に暗くエロティックだ。ペローの「赤ずきん」以前のバージョンだと思う。鉄の服云々は処女性のことだろう。
赤ずきんが母親の家に着くと、狼がすでに待ち構えている。

「お母さん、お腹がぺこぺこよ」
「戸棚に肉があるからおあがり」
それは、狼が殺した母親の肉でした。棚の上に大きな猫が来て、こう言いました。
「お前が食べているのはお母さんの肉だよ」
「お母さん。棚の上に猫がいて、私がお母さんの肉を食べている、そう言ってるわ」
「嘘に決まってるさ。そんな猫には、木靴を投げてやるがいい」
この映画のテーマのひとつにカニバリズムがある。

沖浦啓之『人狼 JIN-ROH』(1999/日)

伏はテロリストを狩る。同じ組織の友人であっても、必要であれば狩る。狼のように群れで狩る。伏の夢の中、狼たちが少女を襲うシーンはカニバリズムの最たるものだ。
しかし、伏の上官である巽は「我々は犬の皮を被った人間じゃない。人の皮を被った、狼なのさ」と言う。狼の皮をかぶった人ではない。人ではないひとである。カニバリズムの否定たるカニバリズム。

だからこの映画が恋愛を描いているとは、到底言えない。同じように戦争を描いている『ハウルの動く城』はまごうかたなきメロドラマだが、この映画と比較はできない。
『ハウル』は戦争や国家を矮小化する。恋愛のなかに戦争を閉じ込め、個人の幻想の中で消化させようとする。911以後の世界でそんな戦争と国家の矮小化をなしたのは、もちろん戦略的なことだ。(それにしても、何故それを誰も指摘しようとしないのか。)

一方、脚本を書いた押井守や演出を担当した神山健治は、戦争や国家を「理解できないもの/得体の知れないもの」として提示する。たしかどこかで押井自身、ぼくは伏のことを理解できない、とか書いていたと思う。〈狼〉や〈群れ〉という感覚(概念ではない)を、ぼくは理解することが出来ない。雪吹きすさぶ冬山の狼の心の中など、いったい人間が知りうることだろうか。
しかし、そんな〈狼〉たちは、いまでも国家や戦争の前衛にいるはずだ。

+ + +

この映画は、地味で男くさくPG-12指定をくらっていながら、オール・セル・アニメ映画としては最高度の完成度を誇っていると思う。押井作品独特の説明調な台詞もクセになる。いまのところ沖浦啓之の唯一の監督作品。次作はまだか?

人狼 JIN-ROH (1999/日)
Jin-roh

製作総指揮 渡辺繁 / 石川光久
製作 杉田敦 / 寺川英和
監督 沖浦啓之
脚本 押井守
原作 押井守
演出 神山健治
撮影 白井久男
作画 西尾鉄也
原画 岡村天斎 / 逢坂浩司
動画 トランス・アーツ / Production I.G
設定・デザイン 高田明美 / 沖浦啓之 / 黄瀬和哉 / 出渕裕
美術 小倉宏昌
編集 掛須秀一
音楽 溝口肇 / 佐々木史朗 / 石川吉元
出演 藤木義勝 / 武藤寿美 / 木下浩之 / 廣田行生 / 吉田幸紘
   / 堀部隆一 / 仙台エリ / 中川謙二 / 大木民夫 / 坂口芳貞
   / 古本新之輔 / 松尾銀三 / 松山鷹志 / 岸田修治
沖浦啓之『人狼 JIN-ROH』(1999/日)

沖浦啓之『人狼 JIN-ROH』人狼 JIN-ROH
沖浦啓之

Color, Dolby
バンダイビジュアル
2002-02-25
ASIN: B00005V1D6
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2006年12月08日

あんた、でかすぎ――市川崑『犬神家の一族』

市川崑『犬神家の一族』(2006・日)

市川崑監督の『犬神家の一族』をRKBさんの試写会で観る。
「素晴らしい!」と言いたいところだけど、率直に言って旧作には及ばない。完全に衰弱してしまった感が強い。まったく残念なことだけれども。(以下ネタバレ多々あり、注意。)

石坂浩二も加藤武もすっかり歳をとってしまい、とくに石坂には「天から来たみたい」な金田一耕助の透明感がもはやない。
じゃあ、若手はどうだったかといえば、尾上菊之助の爬虫類顔にぼくはなじめず(ただ、マスクをかぶったときの、あのヘビのような目の存在感は良し)、ヒロイン松嶋菜々子の大根役者っぷりと着物の似合わなさに萎え萎え。そもそも松嶋菜々子(身長173.8cm、wikipediaによる)の巨大さはどうだろう。身長が155cmしかない奥菜恵と並べて出したらイカンでしょう。

むしろ端役のアマチュア役者たちのほうが印象的だったりする。木久蔵師匠と中村玉緒(このひとは職業俳優だけど)の掛け合いの絶妙さ。1960年代のコメディ映画を観ているみたい。ほんのワンシーンかそこいらの出演だけど三谷幸喜もちょっといい。奥菜恵がぶっ倒れるシーンもいい。

ただ富司純子はすごいです。(尾上菊之助は彼女の実の息子だからこの作品は親子競演ということになる。かつ、寺島しのぶの母でもある。)
ラスト、金田一との緊迫感溢れる対話。富司の落ち着き払った顔が驚愕の表情へと瞬時に変わる。フラッシュバックする父(仲代達矢)の顔と富司純子の顔、石坂浩二の顔、つぎつぎに挿入される顔(表情)の氾濫。まさに映画的なショット。旧作に引き続いて長田千鶴子による編集が効いている。

ついでにちょっとマニアックなこともメモしておく。
調色は70年代的。ひょっとしてフィルムはデッドストックな古いものを使っているのか?? フィルタも多用しているっぽい。

市川崑『犬神家の一族』(2006・日)

市川崑監督って、もう91歳なんだよね。日本では現役最高齢の映画監督ではないだろうか。
90歳超の高齢監督というと、ポルトガルのマノエル・ド・オリヴェイラが思い浮かぶけれども、オリヴェイラと市川崑ってのは、ずいぶん創作の姿勢が違う。オリヴェイラはこの年齢にして1年に1本のペースで撮り続け、しかも作風をすべて変えてくるというアグレッシヴさ。1999年の『クレーヴの奥方』と2002年の『家宝』じゃ、まったく志向性が異なっている。にもかかわらずオリヴェイラだと一目で分かるのは何故か。

市川崑は良くも悪くもスタイル先行な作家だ。市川崑マニエリスムは、1976年から79年にかけての金田一シリーズ(『犬神家の一族』『獄門島』『女王蜂』『悪魔の手毬唄』『病院坂の首縊りの家』)で練られ、『細雪』(1983年)でついに完成する。市川自身は『竹取物語』(1987年)や『四十七人の刺客』(1994年)でそのマニエリスムを捨てようとするも失敗、ふたたびマニエリスムに戻るために『八つ墓村』(1996年、トヨエツが出ていた例のアレ)を撮るがさらに華々しく失敗してしまう。新『犬神家の一族』もマニエリスム復帰失敗の系譜に連なる映画かもしれない。

市川崑の作品は様式美(マニエリスム)こそが見どころなのであって、ということはキャスティングをミスしてしまうと終わりだということです。尾上菊之助はミスキャストだ。松嶋菜々子はさらに救いようもなくミスキャストだ。どんなに岸部一徳や萬田久子が地味にいい演技をしていてもダメだ。ダメなものはダメだ。

市川崑『犬神家の一族』(2006・日)

脚本について。
プロット自体は、まさに精神分析学的な〈症候〉をテーマとしている。他者の欲望をそれと知らずに欲望する人間のすがた。今は亡き犬神佐兵衛の欲望を、それと知らず娘・松子が欲望し実現していく。まるで自分ではないように、同時に自分(母)であるために、殺人を犯す。フラッシュバックする父の顔。抑圧の主体を憎悪しつつ、娘はその欲望を達しようとする。

物語の中心には佐兵衛の欲望があるのだ。しかしこの映画でその深さ/闇はよく描かれない。老いた神社の神官(大滝秀治)のわずかな言葉の中にほのめかされるだけだ。なぜ、佐兵衛の欲望が曖昧なままなのか。
たしかに物足りなく感じなくもないが、市川崑はあえてそのようにしたとも思われる。物語の中心には佐兵衛の欲望がある。しかし、あくまで主役は生者なのだ。欲望の起源は常に曖昧なまま、あるいは空虚なまま、宙吊りとなる。

精神分析とはそういうものだ。金田一は分析医のような立場にいる。彼は汽車を乗り継いで那須に来たわけだが、すべての殺人は佐兵衛の欲望どおり起こってしまう。
探偵物語とはそういうものだ。一度起動した欲望は完結するまで駆動し続ける。探偵(分析医)はそれを事後解読するしかない。
市川崑はこの原則に忠実だ。この点がハリウッド的論理とは異なるところだと思う。ハリウッド映画に分析医は登場しない。ハリウッドにおける分析医は、批評家である。

市川崑『犬神家の一族』(2006・日)

ちょっと気になった点を3つばかり。

1.中盤、金田一と古館弁護士とが事務所で会話するシーンで、壁の振り子式時計が動いていないのがどうしても気になる。
2.米軍払い下げのジープのナンバープレートがあからさまに現代のもの。本当だったら、草色地に黒文字(輸入車の場合)か黒地に白文字(事業車の場合)であるべきはず。
3、あんなモーターボートが、あの当時(舞台は昭和23年だ)あるわけない。

いろいろネガティヴなことを書きまくったけれども、いつかテレビでやっていた稲垣吾郎の金田一よりはずっとマシだ。比較するのも失礼だろうが。

『犬神家の一族』公式HP

犬神家の一族 (2006/日)

製作 黒井和男 / 一瀬隆重 / 近藤邦勝 / TBS
監督 市川崑
脚本 市川崑 / 日高真也 / 長田紀生
原作 横溝正史
撮影 五十畑幸勇
美術 櫻木晶
音楽 谷川賢作 / 大野雄二
特撮 橋本満明
編集 長田千鶴子
助監督 手塚昌明
録音・調音 大橋鉄矢
配給 東宝
出演 石坂浩二 / 松嶋菜々子 / 尾上菊之助 / 富司純子 / 松坂慶子
   / 萬田久子 / 葛山信吾 / 池内万作 / 螢雪次朗 / 永澤俊矢
   / 奥菜恵 / 深田恭子 / 石倉三郎 / 尾藤イサオ / 岸部一徳
   / 大滝秀治 / 草笛光子 / 三條美紀 / 三谷幸喜 / 林家木久蔵
   / 中村玉緒 / 加藤武 / 中村敦夫 / 仲代達矢
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2006年11月11日

あのホイッスルは反則だ――クォン・ジョングァン 『Sad movie サッド・ムービー』

クォン・ジョングァン 『Sad movie サッド・ムービー』

『ラヴ・アクチュアリー』と『マグノリア』を足して2で割ってそれをさらに劣化させたような脚本に、大味な韓流演出を施した映画。
いや、韓国の映画に繊細な演出なんてありえないんだけど。

ぼくが、恋愛モノで面白かったと心底思える韓流映画は『猟奇的な彼女』くらいだ(この映画の脚本は、たしかに欠陥があるとはいえパワーがあった)。だから別に、この映画を観て失敗したとか時間を損したとか、そんなことは思わない。これはこれで、いい。

ある雨の日、3組の男女と1組の母子が別れを迎える。この4組は、たとえば『マグノリア』における〈驚異の糸〉みたいな伏線によって結ばれているわけではない。伏線は映画の快楽を支える重要な要素のひとつだけど、この映画は最初っからそれを放棄しているように思える。監督や脚本家はそんなところにカタルシスを求めていたわけでもないんだろう。だから、これはこれで、いい。

クォン・ジョングァン 『Sad movie サッド・ムービー』

じゃあ、監督や脚本家がこの映画で目指したカタルシスはなにかというと、それは「涙」ってヤツだ。涙をいかに流させるか。その一点にのみ、その演出も台詞も動員される。

だから演出や脚本が大味であっても、たとえば雨が非常識なくらい土砂降りでも、登場人物の一人が消火器を振り回してどう考えても相手を怪我させているのに警察ざたにはならないことも、聾唖者がなぜか遊園地で着ぐるみを着て普通に働くことができることも、さほど問題ではない。それが涙につながるのなら、許されるのだ。

そういう思いっきりのよさが、これまで日本人には新鮮だったのだろう。韓流ドラマや映画は、その思いっきりのよさに支えられている。
が、そろそろ飽きないか? 韓国本国ではどうなんだろうなあ。新しい演出の傾向って生まれていないのかなあ。たとえば、演劇なんかはどうなってんだろう。日本ではほとんど韓国の演劇事情は紹介されないけれども。

クォン・ジョングァン 『Sad movie サッド・ムービー』

それでも相変わらずこの映画でも、すすり泣きが聴こえていた(主に女性)。かくいうぼくも、子どもが大雨のなか地団駄を踏んで泣くシーンにはやられてしまったクチだが。

聾唖の少女スウン役のシン・ミナがキュートだなあ。何年か前『火山高』っていうおバカ映画(だけど個人的には好きな映画)に出てたね。ずいぶん大人になりましたなあ。

Sad movie/サッド・ムービー (2005/韓)
Sad movie

制作 チョン・フンタク / クォン・ジョングァン
監督 クォン・ジョングァン
原案 オム・ジュヨン
脚本 ファン・ソング
出演 チョン・ウソン / チャ・テヒョン / イム・スジョン / シン・ミナ
   / ソン・テヨン / ヨム・ジョンア / イ・ギウ / ヨ・ジンウ
配給 ギャガ・コミュニケーションズ
クォン・ジョングァン 『Sad movie サッド・ムービー』
 
タグ:韓流 映画
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2006年11月02日

ジョナサン・リーベスマン 『テキサス・チェーンソー ビギニング』

The Texas Chainsaw Massacre: The Beginning

R-15指定の『テキサス・チェーンソー ビギニング』を試写会で観る。
実はこれは続編であって、前作の『テキサス・チェーンソー』をぼくは観ていない。前作も今作もマイケル・ベイのプロデュースなわけで、ほんとは両方とも観ておいたほうがいいんだろうけど、ま、監督も違っているようだし、独立した映画だと考えていいだろう。

まあ、えぐいのなんの。さすがR-15指定。オープニング終了後、数分ほどで殺戮場面に突入。あとはずーっと、ガシャッグシャッベチャッヌチャッギャギャギャギャギャ〜状態。
ということは脚本もなにもあったもんじゃない映画なんだけれども、それでもなんだか矛盾している部分が多々ある(なぜ保安官が行方不明なのに、他の警官が探しに来ないんだ?等々)。笑い(?)がないわけでもない。レザーフェイスの家族も後半は、もう無茶苦茶だ。狂気を通り越して笑えてくる(このあたりが『悪魔のいけにえ』への最大のオマージュか)。

The Texas Chainsaw Massacre: The Beginning

フィルムがセピア系に調色してあるので、ショッキングな血の赤色に吐き気を催すこともなく、しかもねっとりした体液の感触は十分伝わってくる。
ほとんどのスプラッタシーンは、地下室か夜の薄暗がりのなかで行われるが、上手なライティングのおかげで特殊効果がちゃちく見えないところもよい。

しかし褒められるのはここまでで、酔いそうになる手持ちキャメラの揺れ具合といい、常識の域を出ない演出といい、ある意味主役なはずのレザーフェイスは案外影が薄くて、かつその人物造形(?)が薄っぺらいことといい、なんだかなあ。
いろんな映画からの引用、元ネタの『悪魔のいけにえ』も、『13日の金曜日』シリーズ、『羊たちの沈黙』『キャリー』『ハンニバル』などなども、映画への愛情からというよりも単に「引用してみました」的感じがして残念な気もする。

The Texas Chainsaw Massacre: The Beginning

まあ、この手の映画は「いかに生理的な嫌悪感が大きいか」に価値があるのだろうから、難しいことを考えずその観点からだけ観たほうがいいわけだ(とくにマイケル・ベイの映画だし)。
実際どうだったか? いやあ、恐かったよ。ぼくには十分恐かった。だから成功なんだろう。

「音」の効果が大きいのだと思う。突然の金属音、打撃音、何かが落ちる音、刃の擦れ合う音、肉をまさぐったり切ったりする音、血が床に落ちる音。登場人物の絶叫よりも、そういった音響のほうがぼくは恐い。
絵だけではそれほど恐くないのだ。映像が無音であれば、きっとそれほど恐くないだろう。だけど偏執的に作りこまれた音響があると途端に恐ろしくなる。次のショットで何が起るかわかっているにも関わらず恐いのは、そこで生理的に聴きたくない音が発せられるはずだからだ。

+ + +

でも、たとえば、ムルナウがいまの時代に生きていてこの原案を与えられたら、どんな映画を撮るんだろうなあ。ひょっとすると、ドルビー・サラウンドを意図的に採用せず、音響に頼らない恐怖映画(そう、ホラームービーじゃなく)を撮るんじゃないだろうか。

ぼくは観念的な恐怖映画を観たい。ムルナウのようなヒッチコックのような恐怖映画を。ダリオ・アルジェントやジョージ・A・ロメロのようなホラー映画を。でも、それってもう贅沢な悩みなんでしょうか。

テキサス・チェーンソー ビギニング (2006/米)
The Texas Chainsaw Massacre: The Beginning

製作総指揮 トビー・エメリッヒ 
製作 マイケル・ベイ / アンドリュー・フォーム / ブラッド・フラー
監督 ジョナサン・リーベスマン
脚本 シェルダン・ターナー
原案 シェルダン・ターナー / デヴィッド・J・スコウ
撮影 ルーカス・エトリン
音楽 スティーヴ・ジャブロンスキー
特殊メイク グレゴリー・ニコテロ / ジェイク・ガーバー
編集 ジム・メイ
出演: ジョルダーナ・ブリュースター / テイラー・ハンドリー / ディオラ・ベアード
    / マット・ボーマー / アンドリュー・ブリニアースキー / R.リー・アーメイ
    / リー・ターゲセン
The Texas Chainsaw Massacre: The Beginning
 
タグ:映画 ホラー
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2006年10月04日

それでもミハルコフを愛している。

蓮實重彦(1936年 - )
蓮實重彦(1936年 - )

 蓮實先生は父の映画の好みを熟知された上でお話なさっているようで、この対談を、単なる映画作品の誉め合い、けなし合い、或いは崇高な芸術論にしないために、常にとてもわかり易く、そしてちょっと悪戯っぽくそれぞれの話題に入られています。私が最も面白いと思ったのはニキータ・ミハルコフに関するやり取り。父がミハルコフのファンであることを知っている私には、いきなり「ミハルコフは初めからどうも嫌いなんです。」と蓮實先生に言われた時の父の苦笑する顔が目に浮かぶようです。本当はミハルコフがとっても好きなはずの父が、「僕は割合に好きな方なんです。」と、初めからやや弱気。そして自分がなぜ好きかを必死に語っても蓮實先生は全く動じない。それどころかミハルコフが『ヴァーリャ!』のことを「女性に対する謝罪の映画だ。」と言ったことに対し「彼はようするに女たらしなんじゃないでしょうか。自分でやったわるさを自分で処理するという・・・」とまで言ってしまう。ますますトーン・ダウンしていく父。なんとか最終ラウンドまで闘ってはいますが、完全に父の判定負けです。
『シネマの快楽』をなめるように読んでいる。すでに読了したんだけれども、どうしても自分の身近から離すことができないでいる。折々にパラパラと目を通すような感じ。

武満徹の娘、武満眞樹によるあとがきもおもしろい。武満徹はミハルコフが好きだったのか! どうりでミハルコフの『ヴァーリャ!』をめぐる二人の対談は妙な緊張感があるわけか。

映画と映画史への愛に満ちた対談。そりゃあ蓮實先生も武満先生も、独断と偏見の塊りかもしれないけれども、愛に裏打ちされているからこんなにも楽しい。

武満徹(1930年 - 1996年)
武満徹(1930年 - 1996年)

『シネマの快楽』蓮實重彦・武満徹シネマの快楽
蓮實重彦・武満徹

文庫: 301ページ サイズ (cm): 15 x 11
河出書房新社
2001-05
ASIN: 4309474152
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蓮實重彦公式サイト
 
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宇宙論的飛翔の刺激

『ノスタルジア』アンドレイ・タルコフスキー

蓮實 この映画で、タルコフスキーは、知性と感性といったものを分けて考えることがばかばかしいような映画づくりの地点に初めて到達したんじゃないかという気がします。空間性と時間性に関して戦略がやや弱く、知性を通して感性の同調を求めていたような感じだった彼が、この作品は、まさしく戦略だけで映画をつくっちゃったという何とも頼もしい感じがします。
武満 アンゲロプロスに肉迫しつつあるような映画ですよね。
蓮實 雰囲気としてひたひたと肉迫してくるという感じが、映画を見終わってからでも迫ってくるんです。だけど、あそこまでつくっちゃうと、今後どうするんだろうという気がするんですけれどもね。これは、合作ということだけれども、もはやソ連映画でもイタリー映画でもない。これは国籍を越えて世界が喜ぶべき映画ですよね。
武満 ええ、ぼくは、映画史的にもモニュメンタルなものになり得る映画なんじゃないかと思いますね。力強いですよね。これまでは、どこか成功しない文学性みたいなものがあって、何かひ弱さがあったけれど、今度はそういうものはかなりふっ切れている。
蓮實 これまでのタルコフスキーの映画にあった文学的趣味みたいなものが、ここでは、きれいに映画の方に引きつけられて消えている。
武満 ぼくも全く同じ意見ですね。
蓮實 宇宙を相手に仕事をしていますよ。
武満 そうですね。非常に宇宙的です。
蓮實 宇宙論的なイメージを追及する映画はたくさんあると思うんですけれども、この作品は、いかにして映画が宇宙に達するかという一つの答えを出したと思うんです。宇宙を見せなくとも宇宙的映画になり得るし、サイエンスを見せなくてもSFになり得るということですね。ここに出ている絶望感、頽廃、そして単に絶望の中に自足しているわけではない困難な未来の模索――ノスタルジアは決して過去への埋没ではないという映画の現在を宇宙論的に表現し得ている。その意味では、映画史的にモニュメンタルであると同時に、人間の思考に直接働きかけて反省を強いるような映画でもあると思うんです。単なる映画好きだけでなく、思想家でも科学者でもいい、あらゆる人が、これを見て率直に驚いて欲しいという気がするんですよ。20世紀の知に自足している人たちが、この映画の前で揺らいでほしい。例えば米ソの対立といった政治的な前提なんかが非常につまらないことであって、国籍を越えて一挙に宇宙論的な飛翔を可能にした人が出て、ぼくたちを刺激しつづけているんだ――彼が亡命したからソ連だめとか、そんなケチな発想ではなしに、多分いまの文学では動かし得ないようなところまで人々の心を動かすところに映画が達し得たということに、あらゆる分野の人が率直に驚くべきだと思いますね。
蓮實先生がタルコフスキーの『ノスタルジア』を手放しで誉めている。
このインタビューの初出は、リブロポートから出版されていた「CINE VIVANT」というパンフ。翌号にはゴダールの『カルメンという名の女』をめぐる対談が掲載されているけれども、冒頭から武満徹が「この前の『ノスタルジア』で巷間うわさが流布していまして、ぼくと蓮見さんが、『ノスタルジア』の試写を見終わったとたん、二人で抱き合ってさめざめと泣いた、というんですが(笑)」と語っている。

もともと蓮實重彦は、タルコフスキーにすら厳しかった。たとえば、『ぼくの村は戦場だった』については「安易な編集至上主義」、『アンドレイ・ルブリョフ』については「一つ間違えば形式主義美学」、『惑星ソラリス』は「アイデア先行型で絵が弱い」、などなど。

たしかにタルコフスキーの最高傑作は『ノスタルジア』だと思われる。珍しくロマンティックにタルコフスキーを語る蓮實先生の言葉に、ぼくも同意する。
狂ったドメニコが炎に包まれる場面、アンドレイがロウソクを手に広場を渡る場面の緊張感は、〈映画〉にしかありえない体験だと思う。

この映画については、またエントリーしたいと思っている。とりあえず蓮實・武満両先生の素晴らしいお言葉を引用しておく。

『シネマの快楽』蓮實重彦・武満徹シネマの快楽
蓮實重彦・武満徹

文庫: 301ページ サイズ (cm): 15 x 11
河出書房新社
2001-05
ASIN: 4309474152
by G-Tools


『ノスタルジア』アンドレイ・タルコフスキーノスタルジア
アンドレイ・タルコフスキー

Color, Widescreen, Letterboxed, Dolby
ジェネオン・エンタテインメント
2002-11-22
ASIN: B00006S25R
by G-Tools

 
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2006年09月29日

体験としての映画

蓮實 山口昌男さんは教養がないから20年代のウィーンの作曲家で日本ではあまり知られていないコーンゴールドなんてことをつい言っちゃうわけですが、ダニエル・シュミットが『ラ・パロマ』でコーンゴールドの「死の都」を奇妙なかたちで使った時、われわれにとってはどうしてもエロール・フリンのコーンゴールドの前身ってことになるわけですよね。ですから山口さんの教養では、シュミットとの悪戯は読めない。エロール・フリンのコーンゴールドの記憶を持っていないというのが彼の最大の弱みだって気がするな。
武満 ぼくは山口さんとは親しいし、映画の話などして、共感することは多くある。教えてもらうこともたくさんありますが、でも、言わせてもらえば、なにしろぼくは、映画を観ることが考えたりものを識ったりする以前から始まっているので、蓮見さんの書いておられることで共感する部分は、視線が先にあるということなんですね。思考は、自分で眼にしたことからはじまるべきだと思うんです。映画のほんとに素晴らしい体験は、観たことを考えるんで、山口さんのように、考えてから見るのはよくないんじゃないでしょうか。
蓮實重彦と武満徹の対談集。300ページ、まるまる映画の話。
両者ともこの当時、年間150本ほどの映画を観るシネフィルであった。というわけで丁々発止な、恐るべき「映画体験」と「教養」の取っ組み合いになっちゃって、読むほうも陶酔してしまう。っていうか、蓮實さんの途方もない知識の渦におぼれず自分のペースを守り続ける武満さんが超クール。

読んでて楽しいのは「映像と音の誘惑」と「映画・夢十夜」の2つの対談(放談?)。好き勝手言っていて、もう時効とはいえヒヤヒヤする。けれども、こういう内幕話だって「教養」の一部だったりするのだ。

+ + +

ここ10年ほど東大では教養学部を中心に「教養の見直し」が盛んに行われていて、そりゃあやらないよりはやったほうがいいけれども、例によって蓮見さんはこれに批判的だった。とくに「教養の方法論」をまず教授する、っていうやり方に眉根を寄せていたようだ。

たしかに蓮實的教養ってのは「考える以前に体験する」ことがベースになっている。映画を観て、なんとなく、だけど否応なく、頭にこびりついてしまうシーン。なぜそうなのか、それを自分なりに探し始めるところから教養が得られる。映画とは、体験に他ならない。だから年間150本も見ざるを得ないのだ。
武満さんと話があったのは、そういう「教養観」が近しかったからだろう。

+ + +

ぼくの敬愛する淀川長治さんのことも話題になっている。長いけど引用しておく。(あゆむさん、君もこういう大人になってくれ。)

蓮實 淀川長治さんと『世界』で対談されたのは非常に嬉しかった。ぼくは若い人たちに常に言っているんです。淀川さんは素晴らしいって。でも、連中はバカにしているんですよね、テレビに出てくるというだけで。ぼくは水野晴郎氏でさえ、彼が日本に入れてくれたさまざまなヒッチコックの映画ゆえに、やはり感謝しているわけです。それとは違う意味で、淀川さんというのは見事ですね。テレビの解説を見ていても、いまほんとにほめているのか、いないのかというのが・・・。
武満 すぐわかるんですね。あの方のテレビの顔を見ていると。
蓮實 顔でもわかるし、全身からわかるんですね。
武満 最初見たらわかりますね。これはつまらない映画だということが。
蓮實 「恐いですね、恐いですね」と言っていながら、ちっとも恐くないって顔をわざとしてみせたり。「はい、写真見せてください」っていう、そのひと言で全部わかっちゃう。あれはやっぱり映画ですねえ。あれを識別できない人には映画もわからないんじゃないかっていう気がする。
武満 淀川さんから「武満さん、あなた、好きな映画監督誰ですか?」って訊かれて、「ちょっと恥ずかしいんですけど、ルビッチも好きだし、ジョージ・キューカーなんて、わりと好きなんです」って言いましたら、「まさか。嘘でしょう。ませてるわね。わかるわけないわよ」なんて言われた(笑)。まいったな。
蓮實 やっぱりね、彼にしてもそう簡単に好かれちゃ困るんじゃないかしら。いちど、全くつまらない映画の最後に「この映画、雨が降りましたね」っていいはじめた。で、「はい、写真見せてください」って言うんで見たら、その映画とは無関係の雨なんですよ。シュトロハイムの雨なんです。「はい、すごい雨でしたね、大粒の雨がポタポタ落ちましたね」。彼は全く無関係に『愚かなる妻』の話をしている。あれは感動的でしたね。全然その映画とは関係ないんですよ。「はい、それでは来週」って切れちゃうんで、知らない人は何だかわからないだろうと思う。文学でも新聞の文芸批評やる人たちは、せめてあのぐらいの芸がなければ批評家として落第だと思いますね。
『シネマの快楽』蓮實重彦・武満徹シネマの快楽
蓮實重彦・武満徹

文庫: 301ページ サイズ (cm): 15 x 11
河出書房新社
2001-05
ASIN: 4309474152
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2006年09月13日

そして何事もなかったように夕食を続ける。

Hotel Rwanda

『ホテル・ルワンダ』を観る。
この映画はアメリカでの評価こそ高かったが、日本では配給会社が決まらなかった。ルワンダという「世界の涯て」に、日本の映画関係者は興味がなかったのだろう。

ルワンダでは1994年4月から、たった100日で80万人が殺され、その後の数年の大湖地域紛争でさらに20万もの人命が失われた。総計100万人の死者が生まれた、おそらく冷戦終結後最大のジェノサイドが行われた土地だ。
それを知っていて関心を持ち続けている日本人が、いまどれほどいるんだろう。

Hotel Rwanda

このジェノサイドは、ルワンダを構成するフツとツチの民族抗争が原因とされている。
実はフツ/ツチの区分は、第一次大戦後の植民地時代、宗主国であったベルギーの役人が、人体計測学や頭蓋計測学、それに「ハム仮説」(ここでは深く書かない)のような「疑似科学」に基づいて、恣意的に決めたものに過ぎないといわれる。

ベルギー人は「ツチとされたルワンダ人」を優遇し支配層にすえた。「フツとされたルワンダ人」は、多数派ではあったが支配層に対抗できなかった。(もちろん、この人々が「ルワンダ人」というナショナリティを獲得したのは第二次大戦前後であることを忘れてはいけない。)
そもそも「フツ/ツチ」なるものは存在しなかったのに、いまそれがぬぐいがたく「ある」。だからフツもツチも、互いを絶滅させようとしたのだ。

Hotel Rwanda

1994年4月6日、ルワンダとブルンジの両大統領が乗った飛行機が撃墜された。そのわずか1時間後、「フツはゴキブリ(ツチのこと)を容赦なく殺せ」というラジオ放送の呼びかけをきっかけに、首都キガリから虐殺が始まる。

大統領暗殺を誰が実行したか、いまでもわかっていない(当初は、ツチ系反政府組織「ルワンダ愛国戦線(RPF)」によるものとされた)が、少なくともこの虐殺は周到に用意されたものだった。民兵への鉈や銃の供与は数週間前には始まっていたと見られる。
この映画でも、商人が大量に鉈を中国から輸入している様子が描かれている。「1本10セントで仕入れて50セントで売るんだ」。

4月末には、今度はフツがタンザニアへ難民として流出する事態となる。RPFが進撃を開始したからだ。
この間、国際社会はほとんどルワンダに関心を示さなかった。あるアメリカ政府高官は、治安維持軍派遣について聞かれて「その価値がない」と答えた。メディアが虐殺の映像を配信しているにも関わらず、だ。劇中、ルワンダで取材するジャーナリストが主人公のホテル支配人ポールにこう漏らす。「外国人はニュースでこの虐殺の映像を見ても”怖いね”というだけだ。そして何事もなかったように夕食を続ける。」

Hotel Rwanda

フランスだけは、4月から6月にかけてルワンダ支配層やエリートの脱出に協力する(「トルコ石作戦」など)。フランスは何年にもわたりルワンダ政府軍への武器供与や訓練に関与し続けていたからだ。
フランス人アフリカ研究者のジェラール・プルニエは「ルワンダにおけるフランスの影響力維持が目的」としている。同時に、当時先鋭化していたミッテランとバラデュールの対立の影響もあるだろう。とにかく、ジェノサイドの阻止にフランスが動いたわけではなかった。

ルワンダは、世界から見捨てられていた。

Hotel Rwanda

最初は家族や隣人を守るため、その後はルワンダ人を救うため、ポールはホテルを最大限利用した。ひたすら彼は、賄賂を贈り、はったりを言い、電話し、交渉し、活路を見出そうとする。彼は、一見政治とは無関係に、しかし政治的に振舞う。

もちろんこの映画はエンターテイメントで(映画の手法としてはいかにもハリウッド的だ。そもそも全編英語でシナリオが書かれているのだから)、この映画「だけ」で史実のすべてを知ったような気にならないで欲しいのだ。『ホテル・ルワンダ』は1994年4月からの、たった100日ほどのことに過ぎない。実際には、ルワンダと大湖周辺の人々はその後数年にわたって、虐殺と紛争に苦しみ続けることになる。

それでも『ホテル・ルワンダ』はいい映画だ。少しでも、世界の涯てを見る努力をしなければ、この国では、なにも見えなくなってしまうからだ。

Hotel Rwanda

 ホテル・ルワンダ (2004/伊=英=南アフリカ)
 Hotel Rwanda

製作総指揮 マーティン・カッツ / ハル・サドフ
製作 テリー・ジョージ / A・キットマン・ホー
監督 テリー・ジョージ
脚本 テリー・ジョージ / キアー・ピアソン
撮影 ヴィンセント・G・コックス / ロベール・フレス
美術 ジョニー・ブリード / トニー・バロウ
音楽 ルパート・グレッグソン・ウィリアムス / アンドレア・グエッラ
   / マーティン・ラッセル
衣装 ルイ・フィリップ
出演 ドン・チードル / ソフィー・オコネドー / ホアキン・フェニックス
   / ニック・ノルティ / モツシ・マガノ / デズモンド・デューブ
   / レレティ・クマロ / カーラ・シーモア
『ホテル・ルワンダ(プレミアム・エディション)』テリー・ジョージホテル・ルワンダ(プレミアム・エディション)
テリー・ジョージ

Color, Widescreen, Dolby, DTS Stereo
ジェネオン・エンタテインメント
2006-08-25
ASIN: B000FOTK6Q
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2006年09月11日

オリヴァー・ヒルシュビーゲル 『ヒトラー 最期の12日間』

 
『ヒトラー 最期の12日間』オリヴァー・ヒルシュビーゲル

『Der Untergang(滅亡)』、邦題『ヒトラー 最期の12日間』を観る。
ベルリンの地下要塞には昼夜の区別はない。この悪夢はほんとうに12日間のことなのか、観た直後なのによくわからない。ただ、徐々に近づいてくる砲撃の音だけが、あの地下空間の中の《リアル》だったということだけが、とにかく印象に残る。

この映画はドキュメンタリーではない。いかにブルーノ・ガンツが鬼気迫る演技(とくにパーキンソン病らしき手の震えは演技に見えない)をしていようとも、だ。
なのに、あの地下壕の中の砲撃、くぐもった低い音、振動は、たしかにヒトラーの最後の日々の《リアル》に触れている。

ヒトラーは最後の瞬間まで、幻想と狂気のなかにいた。ヒトラーだけではない。地下要塞内の逃避と狂気、狂騒。そのなかの唯一の《リアル》、砲撃音。

しかし地下壕の外、ベルリン市内の《リアル》は違う。暗い空、血と硝煙、炎、銃声、悲鳴。それが《リアル》だった。
ソ連軍がベルリン市内に突入し、ついにはじまる市街戦。SSは市民への虐殺を続ける。吊るされた市民、砲撃の穴の底でばらばらになった女性。

『ヒトラー 最期の12日間』オリヴァー・ヒルシュビーゲル

《リアル》は、政治ではないしその結果でもない。
ヒトラーにせよゲッベルスにせよ、あの地下要塞に鈍く響く砲撃音に耐えられなかったからこそ、遺書に「歴史」についてなんぞを書かざるをえなかった。ゲッベルス夫人は非ナチ化された世界を拒絶し子どもたちを殺し、エヴァや地下要塞詰めの将校たちは酒とダンスにおぼれた。
《リアル》はリアルを侵食していく。

そのなかでのゲッベルスとシュペーアの存在感。
そうだ、ゲッベルスとシュペーアについて、いつか考えてみたいとずっと思っていたのだ。(いつになることやら。)

『ヒトラー 最期の12日間』オリヴァー・ヒルシュビーゲル

この映画を「歴史」というスケールのもとで評価することは必要なことだと思う。いつか機会があればぼくもやってみたい。だけど、それだけではこの映画の、「あくまで映画的に」美しいショットのひとつひとつを説明することはできない。

キャメラは何を映しているのか?
・・・《リアル》を。

 ヒトラー 最期の12日間 (2004/独=伊=オーストリア)
 Der Untergang
 Downfall

製作総指揮 クリスティーネ・ローテ
製作 ベルント・アイヒンガー
監督 オリヴァー・ヒルシュビーゲル
脚本 ベルント・アイヒンガー
原作 ヨアヒム・フェスト / トラウドゥル・ユンゲ / メリッサ・ミュラー
撮影 ライナー・クラウスマン
美術 ベルント・レペル
音楽 シュテファン・ツァハリアス
衣装 クラウディア・ボブジン
特撮 ヤン・クルップ / トーマス・ツァウナー
出演 ブルーノ・ガンツ / アレクサンドラ・マリア・ラーラ / コリンナ・ハルフォーフ
   / ウルリッヒ・マッテス / ユリアーネ・ケーラー / ハイノ・フェルヒ
   / クリスティアン・ベルケル / マティアス・ハービッヒ
   / トーマス・クレッチマン / ミヒャエル・メンドゥル / アンドレ・ヘンニッケ
   / ウルリッヒ・ノエテン / ビルギット・ミニヒマイアー / ロルフ・カニース
   / ユストゥス・フォン・ドーナニー
『ヒトラー〜最期の12日間 スペシャル・エディション』オリヴァー・ヒルシュビーゲルヒトラー ~最期の12日間~ スペシャル・エディション
オリヴァー・ヒルシュビーゲル

Color, Widescreen, Dolby, DTS Stereo
日活
2006-01-14
ASIN: B000AC2V5K
by G-Tools


『ヒトラー 最期の12日間』オリヴァー・ヒルシュビーゲル
 
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2006年08月23日

終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため

『リンダ リンダ リンダ』山下敦弘

ぼくが高校生の頃ってのは、ちょうどバンドブームだった。X(「X Japan」じゃなくて)やジュンスカ、ジッタリンジン、すかんち、カステラ、たま、人間椅子なんてバンドもあったなあ。

寮生だったぼくらは、毎朝Yっていうバカの流す音楽で目を覚ましていた。寮の一階には小さなカセットプレーヤーがあって、それにマイクをくっつけて大音量で全館に流すわけだ。
さすがに3年の夏休み、Xの「紅」が一週間かかったときにはげんなりした。その次の一週間はDead Or Aliveの「YOU SPIN ME ROUND」。夏期講習どころじゃない。

夏が終わるとすぐに文化祭があった。前夜祭をあわせると3日間ぶっ続けという無茶苦茶さ。女子高生もわらわらくるので力がはいる。
お約束のバンフェスもあった。中等部から高等部まで、たぶん40組くらいは出ていたと思う。つまり朝から晩までやるわけで、PAのひと(彼らはプロ)がタイヘンだったはず。

ちなみにぼくも友だちとバンドを組んで出たのだが、演奏したのはYMO。ぼくらはバンドブームにまったく乗らなかった。(その理由はいろいろあるけれどもここでは書かないでおこう。)
その頃のぼくらは、シカゴ・ハウスのキ○ガイっぷりに熱狂していた。

にも関わらず、ブルーハーツとユニコーンだけはよく聴いた。ぼくだって青臭い時期はあったんだ。

 終わらない歌

終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため
終わらない歌を歌おう 全てのクズ共のために
終わらない歌を歌おう 僕や君や彼等のため
終わらない歌を歌おう 明日には笑えるように

世の中に冷たくされて 一人ポッチで泣いた夜
もうだめだと思うことは 今まで何度でもあった

真実(ホント)の瞬間はいつも 死ぬ程こわいものだから
逃げだしたくなったことは 今まで何度でもあった

終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため
終わらない歌を歌おう 全てのクズ共のために
終わらない歌を歌おう 僕や君や彼等のため
終わらない歌を歌おう 明日には笑えるように

なれあいは好きじゃないから 誤解されてもしょうがない
それでも僕は君のことを いつだって思い出すだろう

終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため
終わらない歌を歌おう 全てのクズ共のために
終わらない歌を歌おう 僕や君や彼等のため
終わらない歌を歌おう 明日には笑えるように

終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため
終わらない歌を歌おう 全てのクズ共のために
終わらない歌を歌おう 一人ポッチで泣いた夜
終わらない歌を歌おう … あつかいされた日々

終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため
終わらない歌を歌おう 全てのクズ共のために
終わらない歌を歌おう 僕や君や彼等のため
終わらない歌を歌おう 明日には笑えるように
こんな歌は、それまで日本にはなかった。真島昌利や甲本ヒロト、奥田民生らの歌詞は別格の輝きを放っていた。いまでも、彼ら彼女らには輝いて聴こえるか。

+ + +

学園祭みたいな、学生たちにとって「特別なイベント」を舞台にした映画って、けっこう多い。
思いつく映画を列挙すると、近作では『スウィング・ガールズ』とか『ウォーターボーイズ』なんてヒット作もあるし、中原俊の『櫻の園』や押井守の劇場第二作『うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー』というシネフィルに受けがいい作品もある。山田洋治の『ダウンタウン・ヒーローズ』も市川準の『BU・SU』もそうだ。これはもう古典か。
あんまり話題にならなかったけど、昨年公開された『リンダ リンダ リンダ』も学園祭を舞台にしている。

この映画、ちょっとぼくの好きな香椎由宇とペ・ドゥナが出ていて楽しみにしていた。監督の山下敦弘がぼくとどうも合わないので心配だったのだけど(『くりぃむレモン』があまりに酷かったので)。
でも杞憂でした。いい映画。

文化祭でブルーハーツを演奏することにした女子高生バンドの顛末を、ごく淡々と撮っている。ドラマチックなことはなにも起こらない。喧嘩をしたり、夜中に学校で練習したり、前彼に優しくされて顔が赤くなったり、どしゃぶりの雨に濡れたり、告白されたり、告白できなかったり。
その淡々とした映像に、ブルーハーツの音楽が寄り添う。

パーランマウム

ペ・ドゥナが、韓国からの交換留学生役で出演している。彼女の好演が、ブルーハーツの歌といっしょにこの映画を支えている。

たとえばペ・ドゥナのこんなシーン。
明日は本番。メンバーは夜中に学校で練習している。彼女は練習を抜け出して誰もいない体育館のステージに立ち、舞台挨拶のリハーサルをやってみる。彼女のMCは、なぜか「ツアー最後のライブ」という設定。誰もいない体育館で、ちょっと妄想気味のメンバー紹介をするペ・ドゥナの姿は、こっぱずかしいけど胸にくる。

高校生の頃って、ものすごい妄想をしていなかったか。
少なくともこんな大人になるなんて想像していなかった。いや、あの頃考えていたことを「妄想」なんて言い捨てちゃいけないな。「こんな大人」の「こんないま」を正当化する言い訳にすぎないじゃないか。

結局、ペ・ドゥナは本番でMCなんてできない。ちょっとうわずった声でバンドの名を言うだけだ。「パーランマウムです」って。(ちなみに「パーランマウム」は韓国語で「青い心」だそうだ。)
そして「リンダ・リンダ」を唄う。その横顔。このとき彼女は前夜の妄想を実現してしまったわけだ!
ぼくも文化祭でコーラを投げられながら「Wild Ambitions」をカバーしたとき、世界を征服した気になった。あの高揚感は、こんな大人になったらもう得られない。

前田亜季がちゃんとドラム叩いていて、関根史織がクールに好演、香椎由宇は相変わらず目ぢからバリバリ。
うん、とてもいい映画だ。

 リンダ リンダ リンダ (2005/日)
 Linda Linda Linda

製作 根岸洋之 / 定井勇二
監督 山下敦弘
脚本 向井康介 / 宮下和雅子 / 山下敦弘
撮影 池内義浩
美術 松尾文子
音楽 ジェイムズ・イハ
出演 ペ・ドゥナ / 前田亜季 / 香椎由宇 / 関根史織 / 三村恭代 / 湯川潮音
   / 山崎優子 / 甲本雅裕 / 松山ケンイチ / 小林且弥 / 小出恵介
   / 三浦誠己 / りりィ / 藤井かほり / 近藤公園 / ピエール瀧 / 山本浩司
   / 山本剛史
『リンダ リンダ リンダ』山下敦弘リンダ リンダ リンダ
山下敦弘

Color, Widescreen, Dolby
バップ
2006-02-22
ASIN: B000CDW8AA
by G-Tools


『we are PARANMAUM』パーランマウムwe are PARANMAUM
パーランマウム

ユニバーサルJ
2005-07-20
ASIN: B0009V1GMQ
by G-Tools

 
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2006年08月21日

内村光良『ピーナッツ』

『ピーナッツ』内村光良

阿蘇から帰ってきたものの、一難去ってまた一難。とほほな毎日だけど、映画はしっかり観た。もちろんDVDで。内村光良監督の『ピーナッツ』。

+ + +

もうずいぶん前に放送終了してしまっているけれども、ぼくは「内村プロデュース」が大好きだった。
なんというか、内村光良を中心とした芸人たちの、よく言えばほのぼのした、悪く言えばぐだぐだの雰囲気と連帯感がとても楽しかった。「芸人の瞬発力」をメインにすえた番組は、いまでこそ「リンカーン」などあるけれども、その草分け的な番組だった。wikipediaの「内村プロデュース」の項に詳しい。

この番組と内村光良の監督した『ピーナッツ』は、直接は企画としてのは関係ないらしい。とはいえ、出演者はほとんど「内村プロデュース」のレギュラー、セミ・レギュラー陣だし、映画の宣伝にも「内村プロデュース」は最大限活用された。この映画は「内村プロデュース」のメモリアルともいえる。

+ + +

で、この映画そのものについて。
間違いなくこの映画は、1年か2年も経てば忘れ去られてしまう映画だ。低予算丸出しだし、演出にも脚本にもひねりがない。ストーリーはどこかで観たような直球勝負。
シネフィルにはたぶん面白みのない映画だろうとは思う。

でも、こういうのも悪くない。アンチ・フォトジェニックな芸人ばかりの映画だし、技術的にどうこうというわけでもない。けど、CGまったくなしの試合のシーンがなんだか懐かしくて、眼で追っていて楽しい。

少し傾いた日差し(たぶん3時くらいの日差しだ)のなかグラウンドを走り回るおっさんたちの姿。いい絵じゃないか。
「溺愛されたいじめられっ子」ふかわりょうが、とても良い扱いを受けていて微笑ましい。

+ + +

内村光良には、北野武のような先鋭的な映画監督としての資質はない。でもこんなベタな脚本を、『ピーナッツ』という映画にまで大事に育て上げた彼のことをうらやましく思う。
ウッチャンって映画が好きだったんだなあ。ほんとに。

ピーナッツ (2005/日)
Peanuts

製作 柵木秀夫 / 長澤一史 / 亀山慶二 / 安永義郎 / 工藤浩之 / 白内寿一
監督 内村光良
脚本 内村光良 / 益子昌一
撮影 谷川創平
美術 津留啓亮
音楽 ロケットマン / 梅堀淳
特撮 稲葉貞則
出演 内村光良 / 三村マサカズ / 大竹一樹 / ゴルゴ松本 / レッド吉田
   / ふかわりょう / 佐藤めぐみ / 飯尾和樹 / 青木忠宏 / 藤重政孝
   / ベンガル / 桜井幸子 / 入江雅人 / 中島ひろ子 / 山内菜々
   / 中島知子 / ローラ・ウィンドラス / 奥貫薫 / 小木茂光
   / 松村雄基 / 高杉亘 / 有田哲平 / 竹中直人 / ウド鈴木 / 原田泰造
   / 出川哲朗
『ピーナッツ(プレミアム・エディション)』内村光良ピーナッツ(プレミアム・エディション)
内村光良

Color, Widescreen, Dolby, DTS Stereo
ジェネオン エンタテインメント
2006-08-04
ASIN: B000FQ5FN6
by G-Tools

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2006年08月05日

『ロスト・イン・トランスレーション』

ビル・マーレイもいい演技をしている

残念なことにソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』は失敗作だと断言したい。たしかに器用にできてはいる。『ヴァージン・スーサイズ』よりはかなりいい。だけど「映画」としては失敗作だ。なぜぼくはこの脚本でアカデミー脚本賞が獲れたのか、いまでも不思議でならない。

しかし、ソフィア・コッポラがフランシス・フォード・コッポラの娘で、『ゴッドファーザー3』でひどい大根だったからといって「小娘」よばわりするのは不当だ。
この作品は「映画」という総体としては明らかに失敗作でありながら、作品中の東京は、なぜかこんなにも輝いている。

日本人にこの絵は撮れない。撮れたことがない。その理由を考えたほうがより建設的じゃないか?

オープニングはヨハンソンのお尻

ソフィア・コッポラは明らかに日本を誤解しているが、「ただ撮った」背景の東京の光景は、あまりにも表層的で切なくて、観る者の琴線を刺激する。

ふたりの主人公、つまりスカーレット・ヨハンソン演じるシャーロットとビル・マーレイ演じるハリスの関係や、異邦での孤独あるいはエグザイル、翻訳の不可能性、男女のディスコミュニケーションなど、「Lost in Translation」にひっかけて謎を解いても底の浅さは否めない。この物語には謎が決定的に欠けている。同様に、東京にも謎はない。

謎がないこと。このせつなさ。

異邦

ぼくはホテルの中のドラマにほとんど興味がわかない。この映画に描かれる東京を凝視する。
藤原ヒロシやヒロミックスがちらっと映るスノッブなパーティ、深夜のカラオケ、ホテルの窓から見下ろす東京の街並み、ネオンの点滅。

ここでぼくが考えているのは、当然ヴェンダースの『東京画』なわけだ。ヴェンダースは「小津安二郎の『東京物語』の東京」を探すためにヴィデオ・カメラを抱えて日本に来る。しかし、そんなものはもうどこにもない。『東京画』はたしか1985年の映画で、すでに小津が死んで20年も経っているから当たり前かもしれない。ヴェンダースは失望しながらカメラを回し続ける。

ところが、その東京はやけに美しい。パチンコ屋やカプセルホテルをヴェンダースは「ただ撮る」。そこに妙な叙情が生まれてくるのは、そこに謎がないからではないか。

ヴェンダースにとって大切だった「東京」(『東京物語』の東京)は失われた。その空白を埋めた世界は、謎のない世界。物語が常に空回りをしてしまう、表層しかない世界。

逆説的ではあるが、謎がないことこそ謎めいている。ぼくが「妙な叙情」と書いたのはそういうわけだ。

バーにて

キラキラしていてツルツルしている、表層の都市。(その都市の代表が、ひょっとしたらマシュー南なのかもしれない。)
そこで異邦の感覚に浸ろうが、ディスコミュニケーションを嘆こうが、なにもかも横滑りして、ちゃちな言い方をしてしまうなら「記号に呑み込まれてしまう」だろう。

現にベルナルド・ベルトルッチは、同様のテーマをモロッコで撮った。『シェルタリング・スカイ』だ。ベルトルッチは東京には絶対に近づかない。東京は物語を無効にするからだ。
(坂本龍一に劇中の音楽について「もっと甘く、もっと甘く、もっと、もっと」と注文をつけていた監督が東京にくるはずないじゃないか。)

東京のスカーレット・ヨハンソン

スカーレット・ヨハンソンがとても可愛らしい。日本人に、とくに男に好かれる女優さんだろうと思う。が、意外なことに海外男性誌でも「世界でもっともセクシーな女性」第一位に選ばれてる。たしかに最近のヨハンソンは顔が変わった気がする。胸も大きくなったような気がするし。気のせい??(ウディ・アレンの近作『マッチ・ポイント』のスチールを見ると、ヨハンソンは胸かなり大きいですね。)

ビル・マーレイもいい。老練な役者だと思う。落ちぶれ役がとても似合う俳優です。
異国で戸惑う、落ちぶれた俳優の眼。夜、日本人の髭の若者と会話しているときの彼の眼の自然な輝き。
物語なんてどうでもいいと言いつつ、やっぱりこういう刹那の俳優の表情が目に焼きつくのは、この映画が失敗作であるにしても「いい映画」ではあるからだ。

ロスト・イン・トランスレーション (2003/米=日)
Lost in Translation

製作総指揮 フランシス・フォード・コッポラ / フレッド・ルース
製作 ソフィア・コッポラ / ロス・カッツ
監督 ソフィア・コッポラ
脚本 ソフィア・コッポラ
撮影 ランス・アコード
美術 K・K・バレット / アン・ロス
衣装 ナンシー・スタイナー
出演 ビル・マーレイ / スカーレット・ヨハンソン / ジョヴァンニ・リビージ
   / アンナ・ファリス / 林文浩
『ロスト・イン・トランスレーション』ソフィア・コッポラロスト・イン・トランスレーション
ソフィア・コッポラ

東北新社
2004-12-03
Color, Widescreen, Dolby, DTS Stereo
ASIN: B0000YTR5K
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『ロスト・イン・トランスレーション オリジナル・サウンドトラック』V.A.ロスト・イン・トランスレーション オリジナル・サウンドトラック
V.A.

V2レコーズジャパン

コロムビアミュージックエンタテインメント
2003-10-16
ASIN: B0000AFOQT
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2006年08月04日

『妹の恋人』

Benny & Joon

『パイレーツ・オブ・カリビアン2』が公開されて、ジョニー・デップ旋風が周囲にも渦巻いております。だからという訳ではないのですが、彼の出演している『妹の恋人』という古い映画を再度鑑賞(3度目くらいかな)。

この映画でジョニー・デップは、映画おたくでバスター・キートンに心酔するちょっと変わった若者サムを演じている。当時も今もとりたてて評価されることがなかった映画で、たしかになんてことはない映画だと再確認。でも、ジョニー・デップの芸の物凄さにはKOされてしまう。

サムとジューンはレーズンについて語り合う

ベタな脚本にベタな演出、ベタな音楽の使い方で、こじんまりとまとまっている映画という印象だから、シネフィルにウケがいいとは到底思えない。ま、ジョニー・デップ以外にも、メアリー・スチュアート・マスターソン(この時期よくスクリーンに観たけど、いまどうしているのかな?)が地味にいい演技をしているし、これまたぼくが地味に気にかけているジュリアン・ムーアも出ているんだけど、ジョニー・デップに比べるとどうしても薄い。とにかくジョニー・デップの芸が凄いんだ。

たとえば、公園でのマイム。バスター・キートンのミニチュア版って感じの、体をはったマイム。大道芸だね。それにレストランでのスラプスティックなコント。これも素晴らしいシーン。

この映画中「もっとも映画的なショット」

ところでDVDには未公開シーンが収録されていて、なかなか興味深い。
たとえば、サムがプロダクションのオーディションを受けるシーン。ステージの上でスポットライトが当たると、彼はまったく実力が発揮できない。彼を推薦してくれた恋人の兄も目の前にいて緊張してしまう。いつものような伸びやかな芸ができない。公園では大勢の人だかりができても平気なのに。

ここでジョニー・デップは「硬いマイム」を披露しているんだけれども、その「不自然さの自然な感じ」がまた凄い。これは芸ではなくて演技。やっぱりこの頃から彼は輝いている。
結局このシーンは編集の段階で削除されたが、たしかにもったいない気もする。

サムはビデオ屋で働く(タランティーノへのオマージュかな)

それからスクリーンテストの風景も収録されている。ナレーションはこの映画の撮影監督を務めたジョン・シュワルツマン。最近では『シー・ビスケット』とか『オールド・ルーキー』とか撮っている。古典的だけどわりと重厚な絵を撮る人だ。

これはシネフィルにしか面白みのないオマケだけれども、撮影監督がいつもなにを考えてキャメラと付き合っているかわかってちょっと楽しい。

光量、光の方向と影、絞り、フィルター、レンズ、肌と衣装の色。とくにフィルターをこれほど多用しているとは驚いた。

「脚本と矛盾しない光」を得るための見えない努力も語られている。これは予算との格闘でもある。シネフィルの中には、そういう矛盾をあら探しする奴はいるし、実際それが容易に分かる映画は失敗作だ。だから緻密なプランとアイデアが必要になる。

サムとジューンは魅かれあう

ま、そんな「おたくな話」はさておき、とりあえずぼくは、アイロン台でトーストを焼いてみたいな。一度でいいから。
そんなことを考える夜更けだけれど。

妹の恋人 (1993/米)
Benny & Joon

製作総指揮 ビル・バダラート
製作 スーザン・アーノルド / ドナ・ロス
監督 ジェレマイア・S・チェチック
脚本 バリー・バーマン
原案 バリー・バーマン / レスリー・マクニール
撮影 ジョン・シュワルツマン
美術 ニール・スピサック
音楽 レイチェル・ポートマン / チャーリー・リード / クレイグ・リード
衣装 アジー・ジェラード・ロジャース
出演 ジョニー・デップ / メアリー・スチュアート・マスターソン / エイダン・クイン
    / ジュリアン・ムーア / オリヴァー・プラット / ダン・ヘダヤ
    / CCH・パウンダー / ジョー・グリファシ / ウィリアム・H・メイシー
    / リーン・アレクサンドラ・カーティス / アイリーン・ライアン
『妹の恋人』ジェレマイア・チェチック妹の恋人
ジェレマイア・チェチック

ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
2006-06-17
ASIN: B000FFL3WE
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2006年07月25日

et , et , et...

アメリ

アメリは「ストーカー」か?
これは映画を観るときには、決して言っちゃいけない台詞だ。

アメリは「不思議少女」か?
これも映画を観るときには、決して言っちゃいけない台詞だ。

映画ってのは、ほんの少しだけ「リアルの棚上げ」が必要なのだ。たとえば「悪の銀河帝国は強大」だし、「フォースを信じること」は当然だ。
『パイレーツ・オブ・カリビアン』なんて基地外海賊の与太話なんだけれども、それを呑み込んでこそのあの面白さだということだ。

だから映画『アメリ』の描くパリの街に、ひとりの黒人もアラブ系もいないって非難するのは間違っている。あの瞬間、15組のカップルが「絶頂」に達する街は、現実の街じゃない。「アメリのいるパリ」だ。
それを踏まえて、このよく出来たファンタジーを讃えたいと思う。

+ + +

1973年9月3日の夕刻、モンマルトルの道に羽虫が止まり、テーブルのグラスが魔法がかかっているみたいに踊り、見知らぬ男性がため息をつきながら手帖から友人の住所を消した日、アメリは母の子宮に宿った。

フランス語で言えば、et , et , et...
これらは並列した事象で何も関係ない。が、関係があるとも言える。語られると同時に、不思議な輝きを放ちはじめる。それは「事件」だ。

映画『アメリ』は、主人公(たしかにストーカーで不思議少女かもしれないけど)の遭遇する「事件」が彼女を変えていく様を、ちょっとスラプスティックに描いている。アメリは身の回りの「事件」を拾い上げ、犯罪すれすれの、痛快なおせっかいをやきはじめる。

トルネード・フィルムの叶井俊太郎がこのフィルムを買い付けたとき、「ホラーだと思っていた」とどこかで書いていた。単にそれは『アメリ』の怖いポスターをそれと間違っただけに違いないけれど、なんとなくこの映画のテーマ「事件の連鎖」から納得できるエピソードではある。

映画館のアメリ

最初のおせっかい(見知らぬ男に、彼の子ども時代の宝箱を返した)が成功したとき、その喜びがアメリの中で爆発する。

すべて完璧だった。柔らかな日の光、空気の香り、街のざわめき。人生はなんとシンプルで優しいことだろう。
突然、愛の衝動が心に満ち溢れた。
地下道でレコードを聴かせてお金を得ている盲目の老人が、道を渡ろうとしている。「仕事場」へ行こうとしているのだ。アメリは彼の手をとり、街を歩き始める。

ご主人の制服を着た楽隊員の未亡人。
ほら、舗道よ。
看板の馬の耳がないわ。
花屋のご主人の笑い声、笑うと目に皺が。
お菓子屋の店先に飴細工が。
この匂いわかる? 果物屋さんがメロンの試食を。
美味しそうなアイスクリーム。
総菜屋さんの前よ。ハム、79フラン。ベーコン、45フラン。
チーズはアルデーシュ産が12フラン90。
赤ちゃんが犬を、犬がチキンを見てる。
新聞売り場に着いた。地下鉄の駅よ。
ここでお別れ、さよなら!
盲目の老人は、アメリによって「事件」に触れる。世界は「事件」に満ち溢れている。それは老人と並んで、すぐそこにあるのに、これまでまったく関係がなかった。アメリのおせっかいが、老人を「事件」の真っ只中におくのだ。

そもそも老人は、手を引いてくれたアメリがどこの誰かわからない。なのに彼女は自分のことを知ってくれている。これまで蓄音機を抱えて「仕事」していたがそれがどんな「事件」を生んでいるか(誰の心に留まっているか)、彼は知らなかった。強いて言うなら、それは「仕事」によって得た慈善のお金の多少で量る程度しか(しかも確実な尺度でもない)できなかったのだ。

アメリの恋の始まり

『アメリ』のもたらすカタルシスは、「他人と関係を結ぶことができない」女の子が、「事件」とかわいい策略を通じて、おずおずと「誰か」に手を伸ばしていく過程にある。
世界には無数の「事件」が起きていて、彼女/彼の事件はそのひとつに過ぎない。この愛すべき「ささやかさ」。彼女/彼がそれを愛しているという「いじらしさ」。

というわけで、この映画はロケで撮られなくてはならなかった。ジャン=ピエール・ジュネは「(ロケ撮影は)苦痛でしかなかった」と言っているけれども、なんて美しい世界!
カメラワークの芸術性(というか高度なテクニック)にあまり注目されていないけれども、サンマルタン運河の水切り遊びのシーンなんて、よくこんな絵が撮れたもんだと思う。

この映画を観て得た、ささやかな幸せ。ぼくは『アメリ』を観てクレームブリュレが好きになった。「オー・バカナル」のクレームブリュレは、いまでもときどき食べたくなる。

アメリ / ジャン=ピエール・ジュネ

 アメリ (2001/仏)
 Le fabuleux destin d'Amélie Poulain
 Amelie

 製作総指揮 クローディ・オサール
 製作 ジャン・マルク・デシャン / クローディ・オサール
 監督 ジャン・ピエール・ジュネ
 脚本 ジャン・ピエール・ジュネ / ギヨーム・ローラン
 撮影 ブリュノ・デルボネル
 美術 フォルカー・シェーファー
 音楽 ヤン・ティルセン
 衣装 マドリーヌ・フォンテーヌ / エマ・ルベイル
 特撮 アラン・カルスー / イヴ・ドマンジュー
 出演 オドレイ・トトゥ / マチュー・カソヴィッツ / リュフュス / クレール・モーリエ
   / セルジュ・メルラン / ドミニク・ピノン / ヨランド・モロー / クロチルド・モレ
   / ジャメル・ドゥブーズ / イザベル・ナンティ / アルチュス・ド・パンゲルン
   / ウルバン・カンセリエ / ローレラ・クラヴォッタ / ミシェル・ロバン
   / モーリス・ベニシュー

 
『アメリ』ジャン=ピエール・ジュネアメリ
ジャン=ピエール・ジュネ

ビデオメーカー
2002-08-02
ASIN: B000063UPL
by G-Tools


『アメリ:オリジナル・サウンド・トラック』ヤン・ティルセンアメリ:オリジナル・サウンド・トラック
ヤン・ティルセン

東芝EMI
2001-10-24
ASIN: B00005O5WD
by G-Tools

 
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2006年06月28日

アンドレ・バザンの重要性

Andre Bazin(1918-1958) Andre Bazin(1918-1958)

『残酷の映画の源流』読了。

これは酷い、翻訳が。読みにくいことこのうえない。
翻訳っていうのは意味がわかればいいってもんではないだろう。できるだけ原文のニュアンスとリズムを生かしながら、日本語として読み易くしなければ意味がない。にも関わらず、「辞書とにらめっこしながら訳しました」的な文章はなんだ。たとえば・・・

だから残酷がブニュエルの資質なのではなく、彼はこの世の残酷を暴き出すだけなのである。彼が最も残虐な側面を選ぶとすれば、それは、不幸における人間の条件が行き着くところにもまた幸福のようなものがある、と知ることが真の問題なのではなく、世界の残酷さを探ることが重要だからなのである。
この日本語、なんだか脱臼してない?

そもそもウィリアム・ワイラーの『小狼』ってなんのことだ? 『偽りの花園』(原題「The Little Foxes」)のことか? ヴィゴの『ゼロの統治』ってなんだ? 『新学期・操行ゼロ』のことか? この翻訳を担当した佐藤東洋麿と西村幸子ってひとはほんとに映画を観てんのか?
アンドレ・バザンも、序文を書いたトリュフォーも泣いているだろう。

だけどさすがに「カイエ」誌を創ったバザン、ブニュエルのインタビューやヒッチコック批判はなかなか読み応えがある。翻訳者を変えて出版して欲しい。

バザンは単に作家主義を唱えた批評家ではない。「映画の存在論」ともいうべき重要な論文「Onthologie de l'image photographique」を書いていて、これがカイエ派の理論的な支柱のひとつになったことは間違いない。他にも日本語で読みたいバザンの論文が多々ある。なぜだか日本の映画批評界(そんなものがあるのかどうか知らないけど)は、1950年代以前の批評理論(戦前にも重要な批評家たちはいる)を不当に無視しているような気がする。

『映画とは何か』というバザンの論文集が1970年代に出版されているんだけれども、当然絶版。なかなか古本屋でも見つからないんだよね。困ったもんだ。再版してください。

残酷の映画の源流 / アンドレ・バザン 佐藤東洋麿、西村幸子・訳残酷の映画の源流
アンドレ・バザン 佐藤東洋麿、西村幸子・訳

体裁=単行本: 227 p ; サイズ(cm): 19 x 13
新樹社
2003-11
ISBN: 4787585150
by G-Tools
posted by Dr.DubWise at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | lumen opacatum | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月04日

暗号好き

『ダ・ヴィンチ・コード』(ロン・ハワード監督 / 2006 / 米)
『ダ・ヴィンチ・コード』(ロン・ハワード監督 / 2006 / 米)

いま話題の『ダ・ヴィンチ・コード』をキャナル・ユナイテッド・シネマにて。

さすが、カンヌで一般客に大絶賛、批評家筋には冷ややかに迎えられただけの作品ではある。朝一の上映時間だったけどそれなりに客も埋まり、真後ろの席では「ダ・ヴィンチ・マニア」らしい青年がいちいちうるさいコメントを友人相手にしててぼくらの鑑賞の邪魔をするって感じ。まあ話題作っぽくてよかった。

映画自体はそつなくできてます。俳優たちもほどほどの演技。批評家筋が冷笑したっていう「聖杯」の真実もどうでもよろしい。もともと「と学会」ネタなんだから、バチカンがどうこういうものでもないだろう。ぼくは日本人で、物語のエンジンであるキリスト教の「信仰」の強さってもんをもちあわせていないからこんなにお気楽にいえるんだろうけど。

ぼくがあらためて思ったのは、「世界は真理へ到るための暗号の集積だ」という西洋の思想の根深さだ。神学も哲学も科学も、一貫してその思想に貫かれている。大は宇宙の始まりを求める大統一理論の探求から、小はユダヤ陰謀史観まで。
だけどほかの文明ではそうじゃない。東洋にはまるでその思想はない。禅でいう「覚悟」ってのは真理ではないしね。ネイティヴ・アメリカンのホピ族には「世界の中心に至る旅」に関する神話があるけど、それはイニシエーションそのものに意味があるわけで、「世界の中心イコール世界の真理」であるわけではない。

この暗号好きは西洋特有の志向なわけで、そういう目線であらゆる「物語」を読んでいくとなかなか面白い。ヒッチコックの好んだ「マクガフィン」は、この暗号好きな西洋だからこそ生まれた真に独創的な物語の駆動装置なんだけれども、マクガフィンについてはいずれ。
ちなみにこの『ダ・ヴィンチ・コード』にはマクガフィンは1箇所もありません。

+ + +

それにしてもオドレイ・トトゥはちょっと老けちゃったな。やっぱりジュリエット・ビノシュにはなれなかったか。


ダ・ヴィンチ・コード (2006/米)
The Da Vinci Code

製作総指揮 トッド・ハロウェル / ダン・ブラウン
製作 ブライアン・グレイザー / ジョン・コーリー
監督 ロン・ハワード
脚本 アキバ・ゴールズマン
原作 ダン・ブラウン
撮影 サルヴァトーレ・トティーノ
美術 アラン・キャメロン
音楽 ハンス・ジマー
衣装 ダニエル・オーランディ
出演 トム・ハンクス / オドレイ・トトゥ / イアン・マッケラン / ジャン・レノ /
   アルフレッド・モリーナ / ポール・ベタニー / ユルゲン・プロフノウ /
   ジャン・ピエール・マリエル / エチエンヌ・シコ
posted by Dr.DubWise at 07:40| Comment(0) | TrackBack(0) | lumen opacatum | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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