2007年04月22日

Midnight in a Perfect World

DJ Shadowなんぞを聴きながら夜が明けた。そんな日曜日の朝。
「Midnight in a Perfect World」には心の底から震わされる。


DJ Shadow - Midnight in a Perfect World
Directed by B+ (aka Brian Cross)


DJ Shadow - High Noon
Directed by Brian Cross


DJ Shadow - Six Days
Directed by Wong Kar-wai


DJ Shadow - Giving Up The Ghost
Directed by Anthony Arnold, Bob Benedict and Doug Poulson


DJ Shadow - Number Song
Live

で、これがニューシングル。ファンクマニアの面目躍如な快作。おもしろいのになぜこれを誰も認めないのか理由が分からない。これまでの「音響」がないから?
DJ ShadowはPVを公募していたらしく、この動画はコンペに出した一般人(?)の作品のようだ。


Dj Shadow This Time (I'm Gonna Try It My Way)

DJ Shadow「Endtroducing...」Endtroducing...
DJ Shadow

Mo' Wax
1996-11-19
ASIN: B000005DQR
by G-Tools


DJ Shadow「Private Press」Private Press
DJ Shadow

Mca
2002-06-04
ASIN: B000067AT9
by G-Tools


DJ Shadow「The Outsider」The Outsider
DJ Shadow

Universal Motown
2006-09-19
ASIN: B000HCO8IG
by G-Tools

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2007年04月18日

アビリーン

夕暮れ

別のとき、私は、父と一緒に、
ケープ・コッドのウェルフリートの海岸にいる。
私はまだ幼くて、父が私にくれた贈りものが
私の人生なのだと理解できない。浜辺が暗くなる。
怖くなって、私は父の手をとる。テキサスについて
父は冗談をとばす。父はアビリーンを憎んでいる。

あれから数年経って、私は
アビリーンのオレンジ色のホテルの部屋にいる。
私の旅は気休めにすぎない。私にはわかっている。
手をふれただけの見知らぬ人間でも、父は
かまわなかったのだ。お父さん、
いまもあなたは、闇を怖がる子どものままなのですね。
あなたの人生は、何だったのですか?

少年のとき、あなたの写真が、ライフに掲載された。
「アビリーンでもっともかわいい少年」として。
夏の白い服のせいで、あなたの目はとても暗く見える。
あなたの母親の目や、私自身の目のように。
あなたは母親と父親を、ついに許すことができない。
母親はあなたを折檻し、父親は見て見ぬふりをした。

私が恋におちるのは、きまっていいかげんな男たちだ。
男のいいかげんさが、私の母の人生をほろぼした。
あなたは、あなたの父親に似ず、酒も飲めなかった。
あなたはアビリーンを離れると、すでに決めていた。
それでも、私の母を悦ばそうと、最初は懸命になった。
しかし、孤独は灯台のように、闇を照らしだす。

闇のなかの海の響きは、手を握りあう
恋人たちの囁きのようだ。誤って私に与えられた
時のことを、私は考えないようにしてきた。
まして、じぶんが一つの生をやどらせるかどうか、
考えないようにしてきた。アビリーンに、海はない。
私は、あなたが私の父親になったときより、一歳若い。

私は自分の子どもを、闇の外につれだしたい。
しかし、一人の父親も、私は見つけられないだろう。
ときどき、そう考える。あなたにのこされ、あなたが
私にのこした辛い秘密が、アビリーンにある。
人生の淵に悲しみがある。時のほかに、
あなたから私を、自由にしてくれるものはない。

アビリーンの、ある暗い冬の夜、
私の父は、ニューヨーク・タイムズを読んでいた。
そして突然、その手で、人生を絶った。

 ヴィクトリア・コーン「アビリーン」
 Victoria Korn "Abilene"
長田弘の『詩は友人を数える方法』を読む。アメリカの地方詩人の詩を取り上げた紀行文。いや、全体としてどこか散文詩の印象もある。
ヴィクトリア・コーンはテキサスの地方詩人らしいが、それ以上のことは分からない。この詩は、おそらく長田弘による部分訳だろう。陰鬱な詩だが、心をうつ。

長田弘『詩は友人を数える方法』詩は友人を数える方法
長田弘

文庫: 336ページ 15 x 10.6 x 1.6 cm
講談社
1999-06
ISBN-13: 978-4061976696
by G-Tools

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2007年04月11日

わたしは涙と音楽を区別できない――松浦寿輝『謎・死・閾―フランス文学論集成』

Emile Michel Cioran(1911 - 1995)
Emile Michel Cioran(1911 - 1995)

E.M.シオランとミシェル・レリスは高校生の頃知った。シオランは『崩壊概論』で、レリスは『闘牛鑑』で。

シオランの思考が絶えず立ち戻ってゆくのは題名が示す通り「涙」と「聖者」という二つの固定観念である。「私たちを聖者たちに近づけるものは認識ではない、それは私たち自身の最深部に眠っている涙の目覚めである」という冒頭の一文がいわば書物全体の主題とトーンを決定しており、ここで批判の対象となっている「認識」とは、一つには宗教的教義、もう一つには哲学のことだと言ってよい。超越的絶対者の存在と対峙しながらキリスト教のイデオロギーには甘んじられず、また他方、明晰な認識に憑かれながら講壇哲学者のキャリアを受け入れることを肯んじえなかったシオランにとって、聖者とは、死と絶望からの超脱を現世のただなかで自分の身に実現してしまった存在、すなわち不可能性を端的に体現している究極のモデルである。その境地へといかにして近づくか。涙によって、と彼は言う。だがそれは、単なる苦しみとか嘆きといった心理の表現のことではない。彼はそれを「内面の雪崩」とも言い直しているが、涙とはいわば此岸の仮象にも彼岸への信仰にも満ち足りることのできぬ永遠の不服従者を襲う、心理的ならざる形而上的な――つまり心のではなく魂の――絶望の発作のようなものだ。シオランの聖者が、揺るぎない信仰の喜びに自足している求道者などではないことに注意しよう。この種のいわば神学的聖者たちに対する憎悪を彼は隠さない。『涙と聖者』はほとんど『マルドロールの歌』でも思わせるような超越者に対する闘争宣言の書であって、聖者とは断乎たる意思でこの苛酷な闘いを持ち堪えている一人の反=神学的な闘士なのである。「懐疑的魂の中の絶対への情熱! 癩病患者に移植された賢者!」
『崩壊概論』は高校の図書室の書棚の、それもいちばん下に見つけた。図書室は半地下の構造だったから、書棚の下の部分にはなかなか光が届きにくい。うっすら埃をかぶる棚を、かがんで見ていてこの印象的なタイトルの本を見つけたのだった。

まったく奇妙な本だった。呵責ない文明批判と現世への呪詛の繰り返し。合間に綴られる不眠と音楽への賛歌。閉塞感と開放感が同居するテキストに、ずいぶん衝撃を受けた。その後、学校近くの大きな図書館の閉架で見つけたシオランの本を読み漁った。それこそ金井裕と出口裕弘の訳した本。たしか『崩壊概論』以外に『苦渋の三段論法』、『実存の誘惑』、『歴史とユートピア』、『時間への失墜』 を読んだはずだ。どの本にも現世への呪詛に満ちていた。書かれた年は違うはずなのに。
シオランの本を読んでいたぼくを、図書館の司書の先生はずいぶん心配していたが。

十代に、本来なら生に輝くはずの時期にシオランのテキストに触れたのは、けっして不幸なことではなかった。ぼくがその後哲学なんぞを学んだのは、シオランの反-哲学がこころのどこかでずっと鳴り響いていたからに違いない。

Michel Leiris(1901 - 1990)
Michel Leiris(1901 - 1990)
"Portrait of Michel Leiris" by Francis Bacon

ミシェル・レリスの『闘牛鑑』は、美術の先生に貸してもらった本だった。もともとアンドレ・マッソンの絵を見たがっていたぼくに貸してくれたのだったが。もちろんマッソンの絵は素晴らしかったが、それ以上に幻想的なレリスのテキストにやられたのだった。その後『幻のアフリカ』を見つけて、これも夢中で読んだ。エチオピアの憑依現象の記述は途方もなかった。まったく途方もないテキストだった。

エクリチュールの闘牛士レリス。だが、まことに奇妙な闘牛士ではある。男性的な攻撃性を欠き、自分からは積極的な突きを入れることなく飽きずに〈パセ〉を繰り返し、その緩慢な反復のリズムに耽溺しかけているかに見えながら、しかし絶えず神経を研ぎ澄まして眼前の牛の角の脅威に怯えつつ、しかもゲームを放棄して競技場から逃れ去ろうとは夢にも思わず、踏みとどまって闘いならさる闘いを持ち堪え続けているマタドール。彼が手にしている剣ならざるペンは、死の身体には決して触れることはない。死の直前でいつでも逡巡し、回避し、周囲を迂回し、ひとたび離れてはまたゆるやかに接近してくるのだ。機敏さも豪胆さも備えていない、緩慢で内気な闘牛士。そう、彼は臆病なのではなく、内気なのだ。つねにおずおずとしているのである。死が怖くないわけではない。死は恐ろしい。だが他方、いつか死という名のその暗い灼熱の太陽に素手で触れてみたいというタナトスの欲望もまた内に秘めていないわけではない。真の問題は、だから臆病を克服することではなく、あまり距離を縮めすぎてしまいたくなる誘惑をみずからに禁じ、今にも触れそうでいて決して触れ合わず、直前で身をかわすという境界線上の演技をいよいよ上完璧なものへと練りあげてゆくことだ。内気さとは、そのつど自分に逆らって直前で身を引くために人が備えていなければならない慎みの徳のことである。行き過ぎた一歩を踏み出すことを思いとどまって危険という名の曖昧さの時空を維持し続けるために必須の、過激で官能的な資質のことなのだ。内気であることをもしやめたら、そのとたんにユディットが出現して彼の首を切りにかかるだろう。
松浦寿輝の『謎・死・閾―フランス文学論集成』を読んでいて、シオランとレリスの間に浮かび上がる線に気がつく。死をめぐっての所作だ。
シオランはベケットについて「感嘆すべきは彼が動かなかったことであり、いったん壁を前にしてもつねに変わらぬ雄々しさを失わずにいることである」と書いている。シオランもまたベケット同様に、自殺の自由について何度もその魅惑を説きながら、とどまり続けた。レリスが闘牛を愛したのもまた、松浦寿輝が書いているように、死を前にした注意深くしかも緩慢たる所作にほかならない。

シオランにしろレリスにしろベケットにしろ、ある意味「ヨーロッパそのもの」な思考ではないか。このような死の観念は日本にあるのだろうか。いまだに文学の主題としては、汲みつくされていないように思う。

松浦寿輝『謎・死・閾―フランス文学論集成』謎・死・閾―フランス文学論集成
松浦寿輝

単行本: 327ページ 21 x 15.2 x 3.2 cm
筑摩書房
1997-10
ISBN-13: 978-4480838032
by G-Tools

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2007年04月08日

キルフェボン@天神

キルフェボン

これも少し遅くなったけど、キルフェボンへ行ったレポート。
天神のキルフェボン、なかなかの盛況。あまり席数が多くないせいもあって40分ほど待たされたものの、美味いねえ。

日向夏のタルト

ペリカン・マンゴープリンのタルト

日向夏のタルトとペリカン・マンゴープリンのタルト。
特にペリカン・マンゴープリンのタルトは秀逸。マンゴーの香りとプリンの食感がかなり好み。

「いきなり!黄金伝説。」で第1位とったのもなるほど頷ける・・・ってほどじゃあないかもしれないが、同じタルト系が得意のカフェ・コムサよりはじゅうぶんに美味い。カフェ・コムサはカスタード・クリームが一本調子なので、食べてて飽きる(でかいし)。キルフェボンのタルトはカスタード・クリームが軽いし、タルトごとに変えている感じがして悪くない。
タルト専門店のなかには、異様に硬いタルト生地のお店がある。ぼくの苦手なタルトだ。かといってボロボロのサブレ生地でも困る。キルフェボンのタルト生地はちょうどいい硬さ。ぼくにとっては結構重要な要素です。

もうちょっとドリンクに気を使ってもらえばなお良し。とくに紅茶のレベルが高ければ、イートインでもお値打ち感が出るんだけどね。
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2007年04月06日

未羅来留亭@西新

未羅来留亭のラーメン

ずいぶん前に行ったんだけれど、西新の「未羅来留亭」のラーメンのことをエントリーしておく。

かなり強烈なトンコツ臭が店外にも漂っているんだけど、スープそのものはあっさりすっきり。脂濃くはないけれども、コクがある。奥行きのある味。
トッピングはネギとキクラゲ、それにチャーシューとシンプル。チャーシューは茹で豚系で少し厚めにスライスされている。細麺だけど長浜ラーメン系にしては太めでなかなか旨い。食べ応えのある麺。後から来たお客さんがハリガネでオーダーしていたけど、固麺ではオーダーしないほうがいいと思う。

いまどきの味じゃあない。「普通」。だけどこれは、なかなかない「普通さ」だなあ。しかもメニューにはギョウザもなし。大将がラーメンに打ち込んでいる感じがする。自宅の近くにあったら週一で通うかもしれない。
西新には「しばらく」もあるけど、こっちのほうが好みだ。実際、14時くらいに行ったんだけど、ひっきりなしにお客さんが入っていた。子ども連れも多いのは旨い店の証拠でしょうね。あゆむさんも絶賛。

蜂楽饅頭

同じビルには「蜂楽饅頭」もあって、これも旨い。子どもの頃、よく食べていたんだよなあ。ぼくは粒あんが好き。いろいろ旨そうなお店があって、西新は侮れないです。
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2007年04月05日

プラトンのミュートス

プラトー・クレーター
プラトー・クレーター

國方栄二著『プラトンのミュートス』を読む。

近代のプラトン研究者たちを悩ましつづけたのは、プラトンが『国家』において、ホメロスやヘシオドスなどの詩人のミュートスを理想国家から追放したことはよく知られているが、そのプラトンが対話篇において問答的な議論と並べて(あるいはその代わりに)ミュートスを(散文のかたちであるとはいえ)採用したことである。
プラトンの著作におけるミュートス(神話)は、近代以降たしかに思想史家たちからは軽視されがちであった。有名な『饗宴』のミュートス「人間球体説」なども、わたせせいぞうの作品『菜』に引用されるほど人口に膾炙していながら、実際のところプラトンのテキストの中でどのように機能しているか(機能するようにセットされているか)よく分かっていなかった。
ぼくが最初に読んだプラトンの著作は『パイドロス』だったけれども、対話中突然現れるミュートスに困惑した記憶がある。明晰な論理のなか突然現れる物語にどんな意味があるのか。訳注を読んでも、なぜここに挿入されたのか判然としなかった。

プラトンのテキストに現れるミュートスが軽視されたのは、ロゴス至上主義化した西洋哲学が自らの出自に対して持つ幻想に起因している。哲学の創生はロゴスとミュートスの峻別よりはじまる。その峻別はプラトンより始まるはずだ(あるいはタレスのイオニア自然哲学から、あるいはホメロスから・・・) ヘーゲルが言うように、ミュートスは「神話」(すなわち虚言)でしかなく、ゆえに近代哲学からは排斥されなくてはならない、云々。

そもそもプラトンはミュートスをどのように機能させようとしたのか。新プラトン派の哲学者たちの解釈のようにミュートスとはアレゴリーであったのか。あるいはピエ−ル・ヴィダル=ナケの言うように、そこに何らかの〈構造〉があるのか。國方栄二氏はプラトンのミュートスを解析するにあたってこう書く。

神話学に関するシェリングの主張でよく知られるのは、ミュートスをアレゴリーではなくむしろタウテゴリー(Tautegorie)、「寓意」的でなくいわば「自意」的に解釈することを主張したことである。つまり、ミュートス「それ自体」をして語らしめよという趣旨である。
國方栄二氏は、プラトン以前のミュートスやロゴスという語の用法から丁寧に分析をはじめ、次にプラトンのミュートスの分析に移る。たいへん丁寧で、ロジカルで、興味深い。
彼はプラトンのミュートスをとりあえず「真実に似た虚偽」と定義する。語られる事柄が事実であるかないかわれわれが知ることができないことを対象とするがゆえ、ミュートスを検証することはできない。また、ミュートスが優れたものであるためには、語られる対象に関する真実を正しく伝えるものでなくてはならない。したがって、ホメロスやヘシオドスの真実らしくないミュートスは若者に悪い影響を与える。よって理想国家より追放されなくてはならない。
なおかつミュートスは、よりよいミュートスに置換することが可能である。「ミュートスは仮の表現であって、より適切な説明の仕方があれば、それと取って代わられるべき性質のものである。」

何故、プラトンは「真実に似た虚偽」を必要としたのか。
國方栄二氏によると、対話の相手が、論理では納得できても情念ではまだ納得しきれていないとき、その説得のためにミュートスが提起されるという。対話篇のなかで唐突に、しかも対話を切断するようなかたちで挿入されるのはそのためだ。人間の悪の起源、自由意志の問題、歴史とは何か、そういった重要な問題系においてミュートスは多用される。

死後の魂の運命にまつわる物語も(中略)、自然および人類の歴史を扱ったミュートスも、その内容はそもそも「論証」されるべき性質のものではない。ミュートスはこの点においていわゆるロゴスとは異なっていて、むしろそれらは「信じる」べきものである。それはまた大きな危険κίνδυνοςを伴うことにもなる。すなわち、ロゴスの力がどれほど強くとも、ミュートスで語られていることを信じるのは一種の「賭け」なのである。
『プラトンのミュートス』國方栄二プラトンのミュートス
國方栄二

単行本: 340ページ
京都大学学術出版会
2007-02
ISBN-13: 978-4876987078
by G-Tools
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2007年04月02日

香りの人工楽園――トム・ティクヴァ『パフューム ある人殺しの物語』

パフューム ある人殺しの物語 (2006/独=仏=スペイン)

『パフューム ある人殺しの物語』を観る。
監督はトム・ティクヴァ。『ラン・ローラ・ラン』のひとだ。原作はパトリック・ジュースキントの『香水』。ずいぶん前の出版されたのでまったく忘れていたけど、池内紀訳で少し話題になった本だ。たしか読んだような(あんまり記憶にない)。

まあ、ある種「ト学会ネタ」的な発想を膨らませて出来た映画なんだけれども、その感じがどうしようもなく鼻につくのは、やっぱりサスペンス側に寄り過ぎてしまってるからだ。なんでもかんでも人殺しの話にすれば良いというものではあるまい。それならそれでゴダールみたく徹底的にかつ簡潔にやるべきだ。この映画しかり、『ダ・ヴィンチ・コード』しかり。

香りを世界の把捉のほとんど唯一の手段としている〈異邦人〉をせっかく主役にしているのに、出自が悪臭紛々たる魚市場出身だからといって連続殺人鬼にしちゃあまりにかわいそうじゃないか。〈異邦人〉の主人公ジャン=バティスト・グルヌイユには、ほとんど無限の可能性があるはずだった。

グルヌイユは、香りを保存するために連続殺人を行う。その過程で自分自身に体臭がないことを知り、また大衆を洗脳する香り(フェロモン?)の調合にすら成功する。このあたりの展開がどうしようもなく滑稽で、しかも金を湯水のごとく使ってそれを映像化した監督とプロデューサーたちもおかしいんじゃない?

パフューム ある人殺しの物語 (2006/独=仏=スペイン)

世界の中心に立ちたかったグルヌイユは、最終的に彼の生み出した魔法の香りによってその位置に立つことができる。だが、彼自身気づくように、彼自身まるで空虚のままだ。

殺した娘ローラの父親リシに、グルヌイユは殺して欲しいと願うがそれも叶わない。リシは香りに惑わされ、グルヌイユを「我が息子」と呼び泣きながら抱きしめる。
ここに近親相姦の構図も指摘しておきたい。リシが惑わされた香りは、娘ローラの肉体の放っていた香りである。近親相姦の幻想のなかで、グルヌイユはどんなにひどいことをしても、憎まれもせず愛されもしない。
ずっと空虚なまま世界の中心に立ち尽くす。まるでこの国の〈天皇制〉のようだ。

パフューム ある人殺しの物語 (2006/独=仏=スペイン)

まあ、このお話自体、近親相姦やらカニバリスムやら、批評家ウケのよさそうなギミック満載なので、そんなところにいちいち反応してしまうのもどうかと思うわけだ。
この手のギミックにはアンドリュー・バーキンの嗜好が出ているようにも思える。こんなに予算を使って、こんなにいい俳優をそろえて、こんなおバカ映画を、こんなに大真面目に撮るってのもアンドリュー・バーキンっぽいと言えなくもない。

グルヌイユ役のベン・ウィショウはとても巧い俳優だと思う。ドニ・ラヴァンの再来か。リシ役のアラン・リックマン(『ハリー・ポッター』のスネイブ先生)も存在感がある。ローラ役のレイチェル・ハード・ウッドが美しい。この映画を撮ったとき14歳くらい? 正直そうは見えないが。ダスティン・ホフマンも相変わらずよし(このひとのちょっとした仕種にコミックを感じてしまうのは、ぼくの思い入れ故なんだろうか)。

パフューム ある人殺しの物語 (2006/独=仏=スペイン)

香り。
ぼくが思い浮かべるのは当然、ユイスマンスの『さかしま』だし、デ・ゼッサントの創造する香りの人工楽園だ。この映画を観ながら、ぼくがずっと考えていたのは「もし主人公がデ・ゼッサントだったら」ということだった。

とてつもない、崇高なる自然、本物ではなく、魅力的で、全く逆説的であって、熱帯地方の唐辛子、中国白檀の胡椒の効いたような息吹、ジャマイカのエディオスミアを、ジャスミンのフランスの香り、セイヨウサンザシ、クマヅラと結び合わせ、季節や気候に関わらず、様々なエッセンスの木々、色とりどりで、最も対立する芳香を持った花々を生じさせ、これら全ての調子を溶けさせ合い、ぶつけ合って、普遍的で、名づけようのなく、奇妙な香りを作り出し、その中に、執拗なリフレインのように、始めの装飾的文句、リラとボダイジュの香りに満ちた広い牧場の香りが再び現れて来るのである。
どうせ大金を使うんなら、誰か『さかしま』を映画化しないもんだろうか。

パフューム ある人殺しの物語 (2006/独=仏=スペイン)

パフューム ある人殺しの物語 (2006/独=仏=スペイン)
Perfume: The Story of a Murderer

製作総指揮 フリオ・フェルナンデス / アンドレアス・グロッシュ
   / サミュエル・ハディダ / マニュエル・マル / マルティン・モシュコヴィッツ
   / アンドレアス・シュミット
製作 ベルント・アイヒンガー
監督 トム・ティクヴァ
脚本 アンドリュー・バーキン / ベルント・アイヒンガー / トム・ティクヴァ
原作 パトリック・ジュースキント
撮影 フランク・グリーベ
美術 ウリ・ハニッシュ
音楽 ラインホルト・ハイル / ジョニー・クリメック / トム・ティクヴァ
衣装 ピエール・イヴ・ゲロー
特殊メイク ウォルド・メイソン
編集 アレクサンダー・バーナー
配給 ギャガ・コミュニケーションズ
出演 ベン・ウィショウ / ダスティン・ホフマン / アラン・リックマン
   / レイチェル・ハード・ウッド / コリンナ・ハルフォーフ / ジョン・ハート
   / カロリーネ・ヘアフルト / デヴィッド・コールダー / サイモン・チャンドラー
   / イェシカ・シュヴァルツ / パウル・ベロンド / ティモシー・デイヴィース
   / ハリス・ゴードン / サラ・フォレスティエ / ジョアンナ・グリフィス
   / ビルギット・ミニヒマイアー
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2007年03月11日

謎のカティリーナ。

Cicero Denounces Catiline by Cesare Maccari
"Cicero Denounces Catiline" by Cesare Maccari

Quo usque tandem abutere, Catilina, patientia nostra? quam diu etiam furor iste tuus nos eludet? quem ad finem sese effrenata iactabit audacia? Nihilne te nocturnum praesidium Palati, nihil urbis vigiliae, nihil timor populi, nihil concursus bonorum omnium, nihil hic munitissimus habendi senatus locus, nihil horum ora voltusque moverunt? Patere tua consilia non sentis, constrictam iam horum omnium scientia teneri coniurationem tuam non vides?

いったいどこまで、カティリーナよ、われわれの忍耐につけ込むつもりだ。 その狂気じみたおまえの行動がいつまでわれわれを翻弄できようか。どこまでおまえは、放埓で不敵な態度を見せびらかすつもりだ。おまえはいささかもうろたえなかったのか。パラーディウム丘を守る夜の警備隊にも、都を回る偵察隊にも、民衆の恐怖にも。おまえには何の動揺も与えなかったのか。あらゆる良識ある人々が集まってきて、厳重に警護されたこのような場所で元老院が召集されたことが。そして、ここにいる人々の顔つきと眼差しが。おまえの計画は暴かれている。それに気づかないのか。おまえの陰謀はすでに、ここにいるすべての人々に知れ渡り、食いとめられている。それが、お前にはわからないのか。
ぼくはこのルキウス・セルギウス・カティリーナという人物に、ずいぶん以前から惹かれてきた。カティリーナはまったく一方的に貶められているように思えたからだ。イプセンはこう書いている。

カティリーナの性格と行動に対する私の意見は、古代ローマの作家たちとは異なっていた。キケロは絶えず多数派の意見を代弁し、カティリーナとの対決は攻撃しても危険ではないという状況になるまで回避したが、キケロにそうさせた男には、何か普通の人が及ばない偉大なものが備わっていたに違いないと、今でも思う。また、カティリーナほど死後の評判が自分の政敵によって左右された歴史上の人物はほとんどいないことも忘れてはいけない。
同時代の資料としては、このキケローによる「カティリーナ弾劾」の演説とサッルスティウスの『カティリーナ戦記』(同時代といっても、すでに書かれたのはカティリーナ事件の20年後のことである)くらいだ。キケローの弾劾演説をもとに、カティリーナは共和制の転覆を企てたというだけではなく、本質的な無政府主義者であらゆる悪徳を兼ね備えた粗野な人物として伝えられているんだけれども、ぼくにはどうもそんな風には思えない。キケローの演説の中にも、カティリーナをずいぶん歪曲したかたちで非難しているのが明白な箇所がある。サッルスティウスの『カティリーナ戦記』は邦訳がないので(誰でもいいです。なにがなんでも翻訳してください!)ぼくも実際に読んだわけではないけど、カティリーナについてサッルスティウスはこう記述しているという。

ルキウス=カティリーナは名門の出自で、精神面でも身体面でも大きな力を持っていたが、性根は邪悪で歪んでいた。この男は、若年期から、内戦、殺人、略奪、市民の不和を好んでいて、それらの中で自らの青年期を過ごした。身体は、他人には信じられない程、飢えや寒さや不眠に耐えた。精神は、大胆で狡猾で捕らえ所が無く、いかなることをも偽り隠すことができ、他人の物を欲しがり、自分の物を浪費し、様々な欲望に燃えていた。弁舌には長けていたが、分別はあまりなかった。
ルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクスの独裁官時代、彼の民衆派大量粛清にカティリーナは協力した。スッラは民衆派の政敵ガイウス・マリウスによる軍隊の私兵化(すなわち共和制を崩壊させようとする動き)に対抗したのである。カティリーナがなぜスッラに同調したのか、それが日和見主義的な(あるいは現実主義的な)判断によるものであったのか、それとも政治的な信念であったのかわからない。ともかくも、自分の妻の兄弟や自分の姉妹の夫らも殺害したといわれている。マリウスと同様、カティリーナの政敵であったキケローは、先祖に元老院議員のいない「新人novus homo」であった。ゆえにキケローに反感を抱いたことはありえる。(しかも彼に執政官選挙に破れてもいるのだ。)
結果的にキケローは、カティリーナを排除した功績により元老院から「祖国の父pater patriae」の称号を得ることになる。皮肉なことだ。

この時期のローマ史をじっくり検討してみたいけど、とにかく資料の翻訳を待っているところだったりする。カティリーナという、まったく正体不明の人物だっていることだし。誰か一緒にラテン語の勉強する人いませんか?

Marcus Tullius Cicero, B.C.106 - 43
Marcus Tullius Cicero(B.C.106 - 43)

キケロー(著)『キケロー弁論集』キケロー弁論集
キケロー(著)
小川正広・谷栄一郎・山沢孝至(訳)

文庫: 435ページ 14.8 x 10.6 x 2 cm
岩波書店
2005-08
ISBN-13: 978-4003361160
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H. イプセン(著)『イプセン戯曲全集〈第1巻〉』イプセン戯曲全集〈第1巻〉
H. イプセン(著)
原千代海(訳)

単行本: 533ページ
未来社
1989-06
ISBN-13: 978-4624931018
by G-Tools

 
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2007年03月07日

Jeff Bark

Untitled (Snap),2006
Untitled (Snap),2006

Untitled (Plug),2006
Untitled (Plug),2006

Untitled (Dusk),2006
Untitled (Dusk),2006

Untitled (Fawn),2006
Untitled (Fawn),2006

Untitled (Drag),2006
Untitled (Drag),2006

Jeff Barkというアメリカの画家の作品。
ほとんど無名なようだけど、古典的でどこか奇妙な画風が好み。ハイパーリアルタッチのバルテュスって感じか。
かなり残虐な(ogrish的な)モチーフの作品もある。このグロテスクが〈アメリカ〉なのかもしれない。
 
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2007年03月04日

ぼくには〈私〉なんて必要ない。

駅にて

デイヴィッド・ヒュームの本とはじめて出合ったのは、祖父の家の納屋でだった。
狭くて暗い納屋に積まれたダンボール箱の山を片っ端に開けていて、古い岩波文庫の『人性論』を見つけたのだった。

この大量のダンボール箱にはいろんな雑多な本が入っていた。たとえば大量の月刊プレイボーイ誌、フィヒテとシェリングについての専門書、密教の関連書、加山又造の数冊の画集、ハンス・ベルメールの人形写真集、澁澤龍彦の本(とくに『エロティシズム』は衝撃だった)。
叔父の持ち物だったらしい。あまり好きになれない人だったが、本の趣味はよかった。

ヒュームの『人性論』を、何故叔父が読んでいたのかわからない。叔父の大学の卒論はフィヒテ研究だったから(草稿を見たことがある)、経験論だの懐疑主義だのとは無縁だったはずだ。しかし、赤鉛筆で傍線と書き込みが随所にしてある『人性論』は、深刻な〈なにか〉に駆られているようにも感じられた。若い頃の叔父の心の中でどんな嵐が起きていたのか、いまでも興味があるところではある。

+ + +

実は、ぼく自身ヒュームに接近した時期がある。大学で専攻したのはフランス現代思想で、ドゥルーズ哲学の基礎にある経験主義的思考がヒュームに起源することに興味を覚えたからだ。最近ドゥルーズ=ガタリの『哲学とは何か』を読み返していて、その念を強くする。

カントは、ヒュームという宿敵に衝撃を受けつつも、「哲学を独断論から救ったが、懐疑論という浅瀬に座礁させた」と切り捨てた。正確には「切り捨てようとした」というべきか。カントにとって経験論の涯ての懐疑主義は敗北だったからだが、ドゥルーズにとっての経験論は希望を意味する。

ヒュームは、習慣(ハビトゥス)が「私」を構成するとする。これはカントからハイデガーやサルトルにまでいたる大陸の超越論(〈私〉あってこその世界である!)に対する深刻な疑義であって、いまとなってはレヴィ=ストロース以降の構造主義のさきがけとも思える。

ドゥルーズの盟友フーコーは「人間は死んだ」と喝破した。これは古典主義時代の「人間」観の分析を通して、〈人間〉という概念が決して普遍的なものではないという(いまとなっては当たり前の)事実を示したのだった。これはこれまでの大陸の超越論的哲学への挑戦だったし、〈私〉にしばられたぼくらを解放しようとする試みだった。

ドゥルーズもまた。
さまざまな観念や出来事が集まりひとつのシステムを形成する。それが「私」であるということ。つまり「私」は変わりつづける。常に生まれ消える観念、突然に到来する出来事、連結し駆動する諸〈欲望機械〉が、「私」を生産し続ける。拓かれた「私」。ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』から引用する。

一体私はこれで何を言おうとしたのか。私たちがもがき続けているこの観念の世界から、新しい世界が出現しなければならないということでないとすれば。しかしこの世界は、受胎しなければ出現しないのである。そして受胎するには欲望しなければならない。
だからドゥルーズは「哲学とは何か」を考えるにあたって、精神医であるガタリとの共同作業を選んだのではなかったか。哲学とはそもそも「私」という生産物の相のひとつであり、であればこそガタリという他者が必要だったのだろう。

+ + +

ニューヨリカン・ソウルの永遠のクラシック「It's Alright, I Feel It」と「Runaway」を聴きながらこのブログを書いているわけだけれど、ここにも〈私〉の呪縛を離れたオンガクがあって実にたまらない気持ちになる。Masters At Workというニューヨークの天才的なDJチームと、同じニューヨークで活躍しているプエルトリカンのミュージシャンたちとのコラボレーション。他者たちがよってたかって作ったこのオンガクには、これっぽっちも〈私〉なんていやしない!

ジョセリン・ブラウンとインディアの天上にまで届くようなソウルフルで美しい声、ロイ・エアーズのブリリアントなヴァイブ、ケニー・ドープとルイ・ヴェガの素晴らしいアレンジメント。レコードの内ジャケを見てみよう。ディーヴァふたりと彼女を取り巻く陽気なおじさんたち(ほんとはスゴイひとたちなんだけど)、誇らしげなMasters At Workのふたり。
どんなに暗い気持ちになっていても、このオンガクのハイアーパワーで生きていける。

ぼくが〈私〉過剰ロックに否定的だったりするのは、ぼく自身経験論者だからに違いない。ぼくには〈私〉なんて必要ない。ぼくは、いつも生まれ変われる。

 Runaway

Yes I'm gonna mess around
Cause that's the way I want to be
Gonna try to get it down
Before I let it get to me
Don't want your love
Don't need it
That's the way I see it

Oh runaway
You better not hesitate
Better hurry don't wait now
Runaway
Before you find it's too late
Cause you know how love slows you down

And if I should change my mind
If I should want to turn around
You know it won't be hard to find
Find another loving clown
It's best to think what of it
The change you will love it

Oh runaway
You better not hesitate
Better hurry don't wait now
Runaway
Before you find it's too late
Cause you know how love slows you down

No I'll never settle down
Cause I'm just not the settling kind
I got places all over town
I knew just what is on my mind
Just look for those who want it
I should know I've done it

Oh runaway
You better not hesitate
Better hurry don't wait now
Runaway
Before you find it's too late
Cause you know how love slows you down

You better run
You better run run run away
Better hurry don't wait
You better run
You better run little girl
Come on ...
ジル・ドゥルーズ フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症』アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症
ジル・ドゥルーズ フェリックス・ガタリ
Gilles Deleuze Felix Guattari
宇野邦一(訳)

文庫: 416ページ 15 x 10.6 x 2.2 cm
河出書房新社
2006-10-05
ISBN-10: 4309462812
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ジル・ドゥルーズ フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症』アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症

ジル・ドゥルーズ フェリックス・ガタリ
Gilles Deleuze Felix Guattari
宇野邦一(訳)

文庫: 416ページ 14.8 x 10.4 x 1.4 cm
河出書房新社
2006-10-05
ISBN-10: 4309462804
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ジル・ドゥルーズ フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』哲学とは何か
ジル・ドゥルーズ フェリックス・ガタリ
Gilles Deleuze Felix Guattari
財津理(翻訳)

単行本: 318ページ 21.2 x 15 x 2.8 cm
河出書房新社
1997-10
ISBN-10: 4309241972
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Nuyorican Soul『Nuyorican Soul』Nuyorican Soul
Nuyorican Soul

Talkin Loud
2006-07-17

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